第三章 5月13日 花嫁行列
ざあ、ざあ、と紺碧の海は絶えず波打ちながら、細やかな飛沫を太陽の光に煌めかせていた。
一羽のカモメが潮風に乗り、海の向こう、白い漆喰の家々が建ち並ぶ港町へ飛んでいく。途中で食堂の看板を下げた、オレンジ色の屋根の店を通り越えた。
小麦色の肌をした少年が、タッタッタ、と履きこなしたサンダルの駆け足で、その建物の中へ入っていった。大袈裟にドアを開けると、吊り下げていたベルがカラン、カランと勢いよく鳴る。
「ただいまー! 父ちゃんから手紙届いてた!」
少年が大声を張り上げると、店の奥のカウンターで、料理の下ごしらえに魚介を煮詰めていた豊満な婦人が、彼を見上げた。
「おかえり。あんた、また船着き場まで行ってきたの?」
「うん。定期船のおじさんが、トライデントさんちのだよ、って渡してくれた」
「まぁ、向こうも配る手間が省けるか。そこに置いておいてちょうだい」
少年は一通の手紙を、カウンター席のテーブルに置いた。ツヤツヤに磨かれた、茶色いベニヤの卓上に、ポツン、と載せられている、少し厚みのある白い封筒。少年が頬杖をつきながら、おもむろに封筒を裏返すと、差出人の名前に「ビクター・トライデント」と大きく角ばった字で書かれていた。父の筆跡だ。
「トラヴィス、大人の手紙を勝手に読んだら駄目よ」
鍋のスープをかき混ぜている母親に窘められると、トラヴィスと呼ばれた少年は、はぁい、と再び手紙を置いて、カウンター席にすとん、と座った。高い椅子から床に届かない足をばたつかせる。
「母ちゃん、あのね、行商の人がねぇ、もうすぐ花嫁行列が、こっち――カルチェラタンに来るって言ってた!」
「ああ、明日の夕方あたりじゃなかったけ。王女様を間近で見られるなんて、そうそうないよ」
「そんでさぁ、騎士もゴエイでお供するじゃん? 父ちゃんもいるかな?」
「どうかなぁ。手紙に書いてあるかしら」
「そしたらねぇ、父ちゃんが行列にいたら、おれ、こうやって手ぇ振る。ドオォオオオオオオン! ドゴオォオオオオオオオン!」
トラヴィスは、キャッキャとはしゃぎながら、その場で両手を大きく振った。
「こらこら、そんなに元気あり余ってるなら、母ちゃんのお手伝いしてー」
婦人がそう言って、絞った布巾を渡すと、彼は素直にテーブルを隅から拭き始め、「デュクシ! デュクシ!」と呟いていた。
彼女――トレーシー・トライデントは、幼い息子を見守り、微笑ましげに目を細めると、テーブルの上の手紙をそっと拾い上げた。
アルカネット暦445年5月13日の正午。キャンディス城から、百合の花の国旗を掲げた一台の馬車が、40人以上の馬に乗った騎士を前後に従えて、出発した。
その行列は緩やかな丘道を下り、扇状に広がる城下町の街道を目指す。
城下町の人々は花嫁行列を、まだかまだかと待ち構えていた。近くで第一王女や騎士団を見たいという、野次馬が大半だろう。
街の憲兵は長槍を担ぎながら、往来する町民たちに、街道へ繋がる大通りを空けよ、と誘導した。
ピンク、ミントブルー、ラベンダー、クリーム色など淡いパステルカラーに塗られた、色とりどりの煉瓦造りの軒並みは、一軒一軒すべて、王女を祝福するための花束のリースを、玄関前や窓に飾っていた。
大通りから地面が揺れそうなほど、複数のけたたましい蹄の音が鳴り響く。それが合図であるかのごとく、人々は一斉に注目した。
「プリムローズ様の花嫁行列だ!」
まず行列の前にいる騎士たちが、キリリと引き締まった顔立ちで馬に乗り、大通りを過ぎ去っていく。
「格好良いわぁ」
「軍服姿の男の人って素敵!」
端に押しやられた人混みの合間から、町娘たちが爪先立ちで、馬上の騎士を一人一人、品定めするように眺めていた。
「おい! 騎士団って女の子もいるのか?」
人混みの中で、若い男性が目を見開いて仰天した。彼が見つけたのは、セピア色の大きなリボンを髪に結んでいる、半ズボンに膝丈のソックスを履いたユリエルである。
「へぇ、タフじゃない。憧れるわ」
近くにいた中年女性もユリエルを見て少女騎士だと勘違いし、感心しながら腰に手を当てた。
「ねぇ、何であの人だけ甲冑なの?」
父親に肩車された少年が指さした先にいるのは、黒馬に跨る全身甲冑鎧のオリバーだ。他の騎士が緋色の軍服を身に纏うなか、オリバーの板金の甲冑は日光を照り返し、悪目立ちしている。
「こら指さすな、失礼だろ……」
父親は頭上の我が子を注意したが、彼もまた気になってしまっていて、どうしても視線がオリバーに行きがちだった。
しかし、花嫁行列の主役登場はこれからである。
馭者が手綱を握る馬車の小窓から、波打つ赤みがかった金髪の少女が、微かに唇を綻ばせながら、見送る大衆へ上品な仕草で手を振った。アーモンド型の青い瞳が何度か瞬きしていて、緊張している様子がうかがえる。
「あの御方がプリムローズ様……流石、賢そうなお顔立ちをしているわね」
「アルカネットへ嫁ぎなさるのが悔やまれるな……」
「よしな、この国を守ってくださるんだから」
普段、王家と関わることのない市民らは歓声を上げ、誰一人として気づくことはなかった。馬車に乗っている王女が、本物でないことを。
それを知る由もなく、家の窓から行列を見ていた住人たちは、お祭りのように嬉々として、祝福の花吹雪を撒いていた。
一枚の花弁が舞い、酒場のバルコニー席の卓上まで届く。
「盛り上がってるねぇ」
花弁を指先で摘まみ上げ、バルコニー席の客は呟いた。
そこへ、注文された料理を運びながら、店主の中年男性がやってくる。
「当たり前だよ。あんた、丁度良いときに来たね。歴史的瞬間に立ち会えたんだから」
「歴史的瞬間か……」
客の男はそう呟くと、パッと店主の顔を見上げた。年齢は三十路半ばといったところだろうか。整った柳眉にスッと通った鼻筋、男らしく割れた顎。人当たりのいい笑顔を浮かべているが、口元を大きく釣り上げ過ぎていて、どこか胡散臭い。癖のあるうねった暗褐色の髪を前髪からサイドの髪だけ頭の後ろで縛り、うなじは刈り上げていた。
特徴的なのは眩しげな紫色の瞳である。スミレの花のような深い色合いだ。
客の男はふと、摘まんだ花弁を両手で包み込み、しばらくニギニギと揉み込んだ。そして両手を開くと一輪のバラの花に変化した。白いまだら模様のある赤いバラだ。
おお、と歓喜の声を上げる店主とは対照的に、手品の仕掛け人は表情を曇らせる。
「参ったな……俺のバラ占い、よく当たるんだよな……。親父さん、これの花言葉知ってる?」
店主は首を横に振った。
「まぁ知っていても、どうしようもないよ、こんなのは」
なんだよ、と店主に文句を言われながらも、客の男は遠くへ行った馬車へ紫の眼差しを向け、手に持った白斑の赤バラの花弁をちぎった。
(……大丈夫。君の想いは報われる。無駄にはしないさ……)
神代より受け継がれし壮大な歴史の中で、人生は儚く、たった一つの瞬きの間に過ぎないのかもしれない。その刹那に、人は何を守り、何を残せるというのだろうか。
国旗を掲げた馬車は車輪を回し、どこまでも走り続ける。通り過ぎた道に軌跡を描きながら。




