第三章 5月13日 ツギノ岳
一方、本物のプリムローズとその一行は、川沿いをひたすら進み、ツギノ岳の山腹まで辿りついていた。ぬかるみや岩場、急斜面など、悪路が続いたが、ときには馬から下りて、地べたを手で伝い、這うように歩き、ここまで何事もなく通過している。
今は運搬用に整備された道に合流し、全員馬に乗っている。
「この辺りは5合目あたりです。もうすぐ泊り小屋に着きます」
額の汗を腕で拭いながら、赤ら顔のマシューは、後ろにいる同じく汗だくのプリムローズに話しかけた。
「はい。もうひと頑張りですね……!」
彼女の顔はむくみ、疲れ切っているのが明白だったが、それでも健気に笑顔を作った。革のブーツはすねのところまで泥だらけで、馬の手綱を掴む手は砂を落としきれておらず、爪が真っ黒になっていた。背中じゅう、びっしょりと汗を掻いていて、ポニーテールに束ねた髪はぼさぼさに乱れている。
(……なんて強がっているけど、本当はもう限界……。腰が痛くて休みたい! お風呂に入りたい!)
汗ばんだ身体に風を受け、肌寒さに身震いしながら、プリムローズはマロンに乗って山道を走った。
すると、前方に小高い丘があり、その上に木材で建てられた、正三角形の高い屋根の建物が見えてきた。
「ほら、あそこに見えるのが小屋ですよ」
彼女の後ろを走っていたエヴァンが隣へ近付き、頬に汗を流しながら微笑みかけた。前髪がこめかみに張りついている。
「ええ……! 良かった……」
質素な小屋だが、疲労困憊のプリムローズにとって、後光を背負いし黄金郷に見えた。彼女は今日ほど、屋根のついた場所が恋しいと思う日はなかった。
5人は泊り小屋の外にある馬小屋に、馬たちを連れて行くと、井戸から水を汲んだ。プリムローズも水の入った桶を部屋へ運ぼうとする。
部屋の中は15坪ほどの広さがあり、綺麗に片づけられていて、天井の梁に等間隔でランプがいくつか吊るされていた。奥に暖炉があり、その隣に積まれた火を消すための灰が、スコップと共に収納されている。
「こんな山の中にあるのに綺麗なお部屋ね。まめに手入れされている気がする」
プリムローズは桶に入った水を、室内にあった水瓶に移すと、興味深そうに辺りをきょろきょろと見回した。
彼女の疑問に、空になった桶を預かりながらビクターが答えた。
「騎士団が野外訓練のとき、必ずここに泊まるので、帰り際に掃除をするのですよ。定期的に掃除するから、清潔が保たれているのではないかと」
「塵一つない、それこそ泊まる前の状態まで綺麗にしないと、めっちゃ怒られるんです」
横からフィリポが口を挟んだ。
「……必ず泊まるって、皆さん、たったの1日でキャンディス城からここまで来るということですか?」
王女は目を丸くした。二人の騎士は何でもないように、はい、と返事する。
プリムローズがくたびれ果てながら2日かけた道のりを、騎士団はその半分の時間で突破できるというのだ。
「私、体力なさすぎ……情けないです」
がっくりと肩を落とす彼女に、フィリポは慌てだし、ビクターは苦笑した。
「そんな、初めてハルナに登るプリムローズ様が、スイスイ歩かれるなら、いつも訓練してる俺たちの面目丸潰れじゃないですか!」
フィリポにそう言われても、プリムローズはうーん、と首を傾げた。
「それにしたって、足を引っ張ってしまっていて申し訳なくて……皆さんだけなら、今頃はとっくにアルカネットへ着いているでしょうに」
「いや、騎士だけで帝国に行っても何の意味もありません。我々では向こうの皇太子と結婚できませんので……。とにかく今は、プリムローズ様のご無理のないペースで進むのが一番なのです」
ビクターが淡々と説得すると、彼女はようやく納得したようだった。
(頑固というか、意外と負けず嫌いなかたなんだな……)
彼はこめかみから冷や汗をかいた。山に登ったときより消耗した。
日が傾きかけ、皆で昨晩のような簡単な食事を済ませた後、騎士たちは翌日の経路について床に地図を広げながら、円陣を組んで打ち合わせを始めた。
その間、プリムローズは井戸からせっせと水を汲み、小屋の暖炉で熱い湯を沸かし、5つの桶に移す。
「皆さん、これでどうぞ、お顔や手足を拭いてください」
彼女は打ち合わせの邪魔しないようタイミングを計って、桶と蒸した手拭いを騎士に配った。
「ああ、これはありがとうございます」
マシューは受け取ってすぐに手拭いでゴシゴシと顔を拭き始めた。かぁ~、と気持ちよさそうに唸り、一息つく。
「なんだかいい香りがしますね」
エヴァンが袖を捲り、桶の湯に手を浸からせて、掬い上げた。
「持ってきていたハーブを抽出したんです」
プリムローズは得意げに答える。
副団長はすでに耳の裏や首のあたりまで汗を拭きとり、襟の下へ手拭いを潜らせた。
「はぁ~、汗だくになっていたので、気持ちいいです。訓練中は風呂に入れなくて、井戸の水で顔を洗うだけだから、贅沢している気分ですよ」
「こういうのは、なかなか男所帯では思いつきませんね」
ビクターは眼鏡を外し、桶から湯を掬って顔をバシャバシャと洗いだした。
(良かった、喜んでもらえて……)
プリムローズは満足したように笑みを浮かべた。自分のために働きかけてくれる騎士たちに、何かお返しできたらと試みたのだ。
彼女はもう顔や手を洗い終わっていたので、ブーツを脱いだ素足を桶に浸からせ、くるぶしから、ふくらはぎへパシャパシャと湯をかける。
フィリポは服の下へ手拭いを突っ込み、脇の下を拭きながら、ふと、横目でその様子を捉えた。
(足、白ッ)
次の瞬間、エヴァンの手拭いが顔面に直撃した。
プリムローズは桶を洗って、手拭いを干すと、そのまま荷袋を枕にして、床の上ですやすやと横になった。
今晩はマシューが一番先に仮眠をとり、部屋の壁にもたれかかって休んでいる。小屋の外ではビクターとフィリポが見張り、エヴァンが周辺の偵察へ向かった。
フィリポはドアを背にして佇みながら、小声で隣にいるビクターに話しかけた。
「……プリムローズ様って可愛らしいよな。変な意味じゃないよ?」
「分かる。愛嬌のあるかただと思う」
ビクターは周囲を警戒しながら相槌を打つ。
同僚は浮かない顔をして溜め息をつき、足元の小石を軽く蹴った。
「もうすぐアルカネット皇室へ嫁がれるのか……。あっちの皇后って確か、病弱な皇太子を産んだことを周りに責められて自殺したんだろう? 朝廷とかドロドロしてそう。すっげぇ嫁いびりされそうじゃね。敵国だったし」
「そうだとしても私たちは、プリムローズ様をアルカネットへお送りするしかあるまい。両国の修好条約がかかっているのだ。……プリムローズ様がスターチス宮殿で上手に立ち回りなさって、健やかな日々を過ごされるのを願うばかりだな」
「でも、いい子がしんどそうな目に遭うの嫌だなぁ。エヴァンの奴なんか、絶対プリムローズ様に気があるだろ。……駆け落ちとか、考えてないのかな」
「滅多なことを言うものじゃあない」
ビクターは、フィリポのほうを向き、ぴしゃりと言いのけた。




