第三章 崖道
プリムローズたちは再び馬に乗ると、坂道を下りて、北西にある崖の道を目指した。もと来た道から一本外れた深い森の中は、人の手で舗装された形跡などなく、地面が凸凹していて進むのが困難だった。徒歩だと体力が激しく消耗したことだろう。
マシューが先頭になって、顔にぶつかりそうな藪や木の枝を、左手の短剣マンゴーシュで薙ぎ払った。その後ろをエヴァン、プリムローズ、ビクター、フィリポと、王女が騎士の間に挟まれるような形で、縦一列になって進む。
(南南西の獣道はここより険しいなんて……良かったわ、崖道が無事で)
プリムローズは額に玉の汗を搔きながら、マロンの手綱を握った。
森を抜けると、風景は一変した。右手側に、山肌を斜め一直線に削ぎ落したかのごとく切り立った崖があり、その傾斜面の真下に幅5、6メートルの、馬車が一台やっと通れるような細い道がカーブを描いて続いている。
「わぁ、本当に崖っぷちにあるのね……!」
汗ばんだうなじに日光の暖かさを感じながら、プリムローズは目を丸くした。
頭上の遙か高いところから飛んでいく鳥が、バサッ、と大きな羽ばたき一つ残すと、悠々とした仕草で、谷底にある川へと滑空していった。翼のない人間ならば真っ逆さまに転落して、命の保証はない。
「度々申し上げてすみませんが、焦らず、慎重に渡りましょう」
マシューは後ろへ振り返りながら、彼女にそう言った。
「私が外側を歩くので、プリムローズ様は安心してお進みください」
続いてエヴァンも振り向きざま微笑みを浮かべる。普段のふてぶてしさとは打って変わって、頼もしげな好青年ぶりである。
一行は崖道を馬に常歩で歩かせ、慎重に進んだ。コツ、コツと軽い蹄の音が響く。4人が馬で渡ってもびくともせず、崖道は頑丈そうだ。
「マロンったら、慣れない道を歩くせいか、緊張してる……」
栗毛の愛馬がおっかなびっくり歩くのを、プリムローズが手綱を緩めてリラックスさせた。
「皆さんは、この崖道をよく通るのですか?」
そして何となく話題を振ると、後ろからついてきているビクターが、真っ先に答えた。
「はい。野外訓練では、この崖から敵が攻めてきた場合を想定した訓練もありますから」
先頭を歩くマシューも話し始める。
「先程、我々が通ろうとした坂道は、先の戦でベリロナイト軍が物資運搬のために整備した道だったのですよ。あそこから補給品を積んだ牛車なんかを引いてたんです」
「……」
副団長の口から10年戦争の小話を耳にして、隣のプリムローズが「そうだったんですか」と興味深げに相槌を打つのに対し、エヴァンは複雑そうに顔を顰めた。
「奇襲に備えて、夜中に訓練することもありますよ」
フィリポがそう言うと、王女はエッと驚いて振り向く。
「この崖を夜に渡るのですか! 真っ暗で何も見えなくて危ないでしょう? 下は谷底ですし……訓練って命懸けですね……」
マシューは馬上からアハハ、と軽快な笑い声を上げた。
「文官連中に脳筋と恐れられるベリロナイト騎士団と言えども、そんな無茶な真似は致しません。崖道をずうっと真っ直ぐ渡ったところに山頂がありまして、そこからイチノ岳全体を見張り、龕灯で仲間に合図を送ったり、崖道の両側から敵を挟み撃ちする陣形を迅速に行うなど、有事の際にとるべき行動の再確認、といったところです」
「それはそれで大変そうです」
「いやはや、訓練をこなしていれば実戦で発揮できますので。備えあれば憂いなし、の精神ですかな」
「騎士の皆さんの日頃の積み重ねが、国防をより強固なものにしてくれるんですね!」
「そう仰って下さると有り難いです」
プリムローズとマシューの会話が弾む最中、いきなり4頭の馬が一斉に、ヒェッハ、ヒェヒェーン! といななき、鼻息を荒げて興奮し始めた。
「なに急に? チャコ! ドウ、ドウ!」
「落ち着けレヴィ!」
フィリポとビクターは、それぞれ自分の馬を宥めるのに精一杯である。崖から振り落とされては堪らなかった。
「……どうした、バイコーン……クッ」
マシューも興奮する自分の馬を抑えようとしたが、突然、心臓を締め付けられたかのような痛みが胸に走る。
(まずい……! こんなときに!)
「え、エヴァン、大丈夫ですかッ?」
プリムローズはマロン以上に、頭を激しく振りながら取り乱している馬に乗るエヴァンを、心配そうに見つめた。
芦毛の馬グレースは頭を振って、主人を揺さぶりながら、目を血走らせて口から涎を垂らしている。
「も問題ありません、ぐグレースは、ほ本来優秀な奴なのでデッ」
エヴァンは振り落とされそうになりながらも、馬の胴を挟む両足に力を込めた。
「あああ、ごめんなさい! 舌噛みそうだから返事しなくてもいいです!」
そこへいきなり、崖の上から直径10センチ大の石が、プリムローズの頭上めがけて、ゴロゴロッと落下してきた。
「……危ないッ!」
彼女の後ろにいたビクターが真上に目をやると、大声で注意喚起した。
「きゃあ!」
プリムローズは反射的に、右腕で頭を庇って身をすくめたが、間に合いそうにない。
馬が興奮して誰も身動きできない状況で、このままでは王女に落石が当たってしまうのか。
そのとき――。
「テェイッ!」
エヴァンが鞘から剣を引き抜き、破竹の勢いで馬の上からジャンプして、彼女の頭上へ落下しようとした石を、野球のバッドを振るように剣で弾きとばした。打たれた石はひび割れて、欠片もろとも崖下の谷へと落ちていく。彼はそのままズザザザザ、と砂埃を立てて脇腹から地面に滑り落ちた。
「……エヴァン!」
プリムローズが顔を青ざめてマロンから下りようとするのを、エヴァンは仰向けに倒れた我が身をなんとか上半身だけ起こしながら、右手を前に出して制した。
「いえ、大事には至りません……」
正気を取り戻したグレースは尻尾を振ってエヴァンに近付き、手探って剣を拾う主人の、擦り傷を負った頬を労わるように舐めた。
「ハハ、愛い奴め」
他の馬たちも先程の興奮状態はなんだったのか、急に大人しくなる。
「貴方は勇敢ですね……ありがとう」
プリムローズはジャケットのポケットから綿のガーゼを取り出すと、これで傷口を抑えるようにと、助けてくれたエヴァンに差し出した。
「……」
ビクターはほっと胸を撫で下ろすと、しばらく崖の上を睨んだ。だが、いくら待ってみても、これ以上の落石は起こらない。
(プリムローズ様が油断した隙を狙ったかのように石が降ってきたが、単なる偶然なのか……?)
「今の、おかしいよな」
後ろにいるフィリポが彼の様子を察したのか、ぼそりと呟く。それに背中越しで頷くと、今度は先頭の副団長を見つめた。
マシューは乱れた呼吸を整えると、胸の激痛が一気に治まってきたのか、フウと溜め息をついて、全身の砂埃を払うエヴァンと、プリムローズへ振り向いた。
「でかしたな、エヴァン。――プリムローズ様、お怪我はございませんか」
「いいえ、私は何ともありません」
「それは何より。では、落石もおさまったようなので、先を進みましょう……」
いつも朗らかな笑顔を浮かべているはずの赤ら顔は脂汗をかいており、僅かに精彩を欠いていた。




