第三章 まじない
「ふふっ……なかなか手強いわね……」
女は水の張ったガラスの盆から、白魚のようにしなやかな手を引き揚げた。細い指先から滴る雫が、水盆の上にポタリ、と落ちて波紋を描く。すると澄んだ水はみるみるうちに、おどろおどろしい、赤黒く濁った色に変わった。
『失敗であったか……!』
女の背後から、年老いた男の声が響いた。その声音はピリピリとした苛立ちを感じる。
「申し訳ございません。しかし、邪魔者を排除することが叶いそうですわ……」
女は後ろを振り返り、まとめた黒髪から、はらりと横顔にかかる一筋を掻き上げると、暗めの紅を引いた唇を綻ばせて、妖艶に微笑んだ。
長い睫毛に縁どられた瞳は、血のように真っ赤である。
「焦らずとも、この場合の策も既に用意しております。計画は順調です。千年帝国の鍵――シャーロット王女の魂は、必ずや貴方様の手に……」
プリムローズは妹の部屋まで、なりふり構わず全力疾走した。侍女の話によると、レッスンの最中に、突然気を失ったらしい。
「シャーロット!」
彼女はノックもせずに部屋の扉を開いた。物音に驚いた医師や侍女たちが驚き、一斉に振り向くなか、天蓋付きの寝台で臥すシャーロットへ近づく。
「……お姉様……?」
シャーロットは横たわったまま、ぼんやりした目で姉を見つめた。
「シャーロット、大丈夫? どこも痛くない?」
焦りながら、プリムローズはシャーロットの意識をはっきりとさせようと声をかけた。
「ううん、何でもない……それより、マドンナは……?」
第二王女の部屋に、専属侍女のマドンナの姿がなかった。
下の階の侍女頭の部屋にて。
「メイド長……」
アイヴィーは、ベッドで休むマドンナの枕元まで、白湯の入ったカップを運んできた。
シャーロットが気を失ったのと同時に、マドンナも体調を崩し、倒れこんだのだ。同じ巫女であるアイヴィーは原因を察し、彼女を介抱しているところであった。階段を上るプリムローズとは、行き違いになった。
年老いた侍女頭は半身だけ起き上がり、皺の刻まれた目元を緩ませ、弱々しくも優しげな笑みを浮かべた。
「……ありがとう、アイヴィー……。これしきの呪術も跳ね返せないなんて、私も老いたものねぇ……もう、遅かれ早かれ……」
「そんな縁起でもないこと仰らないでください。シャーロット様のお傍には、メイド長がいなくては……!」
アイヴィーは声を震わせた。ユイ族の巫女の先輩であり、人格者として尊敬していた上司が、弱っているのは見ていられなかった。
「ねぇ、アイヴィー。この件はシャーロット様に言ってはなりませんよ……。きっと、ご自分を責めてしまうから……」
マドンナはそう言って、コップを受け取るときに、後輩の手にそっと触れる。
「……はい……」
年若い侍女は一瞬、第一王女の悲しげな顔を思い浮かべ、下唇を噛んだ。
(……プリムローズ様……。呪いのことを、打ち明けるんじゃなかった……)
アイヴィーはプリムローズに、どんな苦難も受け止められるほど彼女を慕っていることを伝えたかったが、結果として酷く傷付けてしまい、自分の浅はかさを悔やんだ。
マドンナは白湯を少しすすると、ベッド際の小窓の向こうを見つめた。
「……大丈夫。シャーロット様に新しく仕える次の巫女が、呪いを引き継ぐその日までは、気合で保たせますから、フフッ……。年老いたこの身を、ミハト様へ捧げるのに、いまさら何の困惑もありませんが……せめて、日に日に成長されるシャーロット様が、女王陛下として即位なさるのを、見届けたかった……」
「……っ」
何も言えなくなったアイヴィーも、小窓のほうへ視線を移した。差し込む日の光が、滲んだ視界にやけに眩しい。
忠誠を誓った主との別れを惜しむ気持ちが、痛いほど分かった。
「さぁ、持ち場に戻りなさい。与えられた時間は少ないのですから。今を精一杯、つとめるのですよ……」
そう微笑むマドンナは、温かな日差しに包まれ、柔らかな白髪を煌めかせた。老いた巫女は自身について、あまり多くを語らないが、その穏やかな顔に刻まれた皺の一つ一つが、彼女の生きてきた軌跡を綴っている。決して楽な道のりではなかったが、それでも彼女は己の信念を貫いてきた。腰は曲がり、力は衰えても、ユイの巫女としての志が揺らぐことは、一度たりともなかった。




