第二章 秘めたる惑い
晩餐会の翌朝、プリムローズは日課の乗馬をするために、いつも通り厩を訪れていた。
しかし栗毛の愛馬は、彼女が目の前で手綱を見せて、「お散歩しましょう」といくら声をかけても、フヒューと溜め息のように鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「あら、マロン。どうしたの? 朝はいつも散歩に行きたがるのに」
そこへ、臨時で馬番になった警備兵がやってきた。頬に膏薬を塗布したコットンを貼っている。昨夜の魔獣退治のときに負傷したのだ。
「ああ、申し訳ありませんプリムローズ様。マロンはちょっと、本日は疲れているようなのです」
プリムローズは見慣れない彼に少し戸惑ったが、そうなの、と納得した。
「昨晩は人の出入りが多くて賑やかだったものね」
見渡せば他の馬たちも元気がなく、眠たげな表情をしている。
「今日はゆっくり休んでなさい」
マロンは主人に撫でられると、心地よさそうに目を細めた。
去り際に、プリムローズは臨時の馬番へ挨拶した。
「貴方もご苦労様。お顔の怪我、お大事にね」
「いやはや恐れ入ります」
馬番はぎこちない笑顔を浮かべた。昨夜の騒動について、口外してはならないと命じられているのである。
彼女は何となしに、放牧場へ向かった。
草原は昨日の大雨のせいか、一歩一歩踏み入れるたび、ぬかるんだ土の感触がある。
プリムローズは空を見上げた。白い雲の切れ間から、淡いパステルブルーの空が覗いている。
(今日は晴れそう……)
彼女はススキ野原まで歩くことにした。
どうやらエヴァンは来てないらしい。晩餐会の警備で忙しかったのだろう、と彼女は察した。
(昨日の晩餐会……。始まる前は緊張したけど、あっという間に終わったわ……)
騎士団や警備兵らが魔獣を討伐していた一方で、晩餐会は何の問題もなく進行して幕を閉じた。招待客たちは馬車で自分の屋敷へ帰り、片付けられたホールは今頃、閑散としていることだろう。
アルカネットの皇帝イグアーツは城の客室で一泊し、王家と朝食を共にした後、今日の午前中には帰国する予定だ。
プリムローズはふと、塔の見張り台で出会った、アルカネットの客人らしき少年のことを思い出した。
痩せ細った身体に、不健康そうな青白い肌の少年。
(……あんなに寂しい瞳をした人、初めて見た……)
彼の黒く虚ろな瞳が、一言二言交わすうちに微かに揺らめいたのを、彼女は確かに覚えている。何だかわからないまま別れてしまったが、あの黒曜石のような瞳がもっと輝くのを見ていたかった。
「また会えるかな……」
そう呟きながらおもむろに足元に目をやると、黄金色の絨毯に真っ赤な沁みができているのに気が付いた。
一瞬、心臓が止まりかけたプリムローズだが、深く息を吐くと、腰を落として赤い沁みをまじまじと見つめる。
(血……!)
それは、明らかに血液だった。一本のススキが赤く染まって頭を垂らしている。
昨日、プリムローズが乗馬でここまで来たときには、こんなものはなかった。
「……」
彼女は立ち上がりざまに震える唇をきつく結ぶと、白くなった指先で赤いススキを手折って、はらり、と滑り落すように手放した。
「プリムローズ様!」
背後から、小走りで侍女がやってくる。流石に王女の自室からの脱走も、3度目となっては慣れたものであった。
「……如何なさいました?」
アイヴィーは呼びかけてもすぐに振り向かない後ろ姿に、僅かな不安を感じた。
しかし、プリムローズは途端にパッと朗らかな笑顔を作って見せた。
「ううん。あのね、昨日すごく雨が降ったじゃない。色とりどりの綺麗な虹が見られるかと思って来てみたら、残念」
アイヴィーは幼子のような発言に呆れながらも、いつもと変わらぬ天真爛漫さに安堵したのか、アーモンド型の青い瞳を細める。
「私はいつもの秋空の淡い色も好きですよ。どこか物悲しいけど、優しくて……」
「そうね。季節の変わり目を感じるわ」
プリムローズは罪悪感を胸の内に秘めて、何も知らないふりをした。
うろこ雲に覆われた淡い青空の下、見渡す限り黄金色のススキ野原は、微かな風にさえも頭を揺らしていた。
季節は移ろい、時は流れる。
吹き抜ける風に抗うすべはなくとも、今はただ穏やかな日々を――。




