第二章 リボンの秘密
「グアアッ」
たった今、夜の草原に低く唸るような断末魔が聞こえた。
(誰かがやられた……このまま逃げ回るだけでは死ぬ!)
義勇十字団の男は、膝下まで伸びた草叢やススキを踏みつけながら走り続けていたが、体力の消耗から、追いつかれるのは時間の問題だと悟った。
彼はいったん立ち止まると、懐から爆竹に使った火打ち石を出し、自分のいる場所から遠くへ向かって、放射線状を描くように投げた。石はガササッと大きな音を立てて着地する。そして草叢に紛れるように屈みこんで、石の投げられた方向へ走るユリエルの様子を、息を潜めて窺った。
ユリエルは草を掻き分けながら、大きな物音のしたほうへ近づくと、辺りをきょろきょろと見回した。頭を動かすたびに、髪を結んだ大きなリボンが揺れる。
その華奢な背中を見てにやりとほくそ笑みながら、男は袖の下から短剣を取り出して、鞘から鋭利な刃を抜いた。極力足音を立てずに、中腰の姿勢のまま一歩ずつ、ユリエルに近寄る。微かな虫の音や秋風のざわめきが、彼の息遣いや足音を掻き消した。
男は数歩先にいる騎士へ、今だ、と短剣を構えながら襲いかかった。鈍く光る短剣が、ユリエルのうなじを斬ろうとした瞬間。
「エイヤッ」
ユリエルは振り向きざまに、右手に携えたスモール・ソードで短剣の斬撃をガードした。
「なにッ!」
義勇十字団の男は渾身の一撃が失敗に終わり、剣を交わしながら動揺した。見るとユリエルの左手には、掌ほどの手鏡が握られている。周囲を探索しているふりをして、ポーチから取り出した手鏡で、後ろから襲いかかる男を確認していたのである。真夜中とはいえ、雲間からぼんやりと月明かりが差していたのが功を奏でた。
「タアアッ」
ユリエルはそのまま剣を握る手に力を込めて、男を押し出した。
男は左右にスウェイしながら、短剣をヒュッ、ヒュッと風を切るように振り回す。ユリエルが一歩後退すると、彼は逆に一歩踏み込み、短剣を突き出した。
するとユリエルは、ナイフの軌道から逸れるように上半身を捻り、両手を剣ごと地面に着けて、半円を描くように側転して回避した。両足を宙へ上げたとき、男の顎を蹴り上げようとしたが、すんでのところで避けられてしまい、惜しくも狙いを外してしまった。
義勇十字団の男は額から汗を流しながら、口端を片方だけ釣り上げた。
「やるじゃねぇか、お嬢ちゃん」
「フフッ……」
ユリエルは天真爛漫な笑みを絶やさず、剣を構えたまま、じりじりと男と間合いを詰める。だが敵は、一人だけではなかった。
「ドリャッ!」
突然、ユリエルの背後からもう一人の男が現れたかと思うと、サーベルを振り上げて襲いかかった。
「きゃあっ」
素早い騎士はとっさに脇へジャンプし、背後からの攻撃を回避した。
「今更2対1は卑怯と言うなよ? こっちはもう、二人やられているんだからな」
二人の男はククク……と嫌らしい笑い声を上げて、ユリエルを挟み撃ちするように近寄ってきた。その表情の醜さたるや、戦士としての矜持は持ち合わせておらず、生娘に舌なめずりする暴漢のそれである。痛めつけた後に手を出してやろうという下心がありありとしていた。
ところが、窮地に立たされているはずの騎士は、なおも晴れ渡る空の下の木漏れ日のような、朗らかな笑顔を浮かべている。彼はさりげなく、膝上まで丈を詰めたズボンの、左ポケットに手を突っ込んだ。
「ありがとう。わざわざまとめて出てきてくれて」
ユリエルの呟きに、彼らはハア? アアン? とこめかみに青筋を立てて凄んだ。後ろからやってきた男が顔を近づけて、脅し文句の一つも浴びせようかという直前、ユリエルはポケットから蓋を緩めた香水瓶を取り出し、中の液体をバシャッと彼の顔にぶちまけた。
「ぎゃああああああ!」
小さな香水瓶の液体をかけられた男は目に染みたのか、顔を手で覆いながら悶え始めた。ユリエルはその隙を狙い、スモール・ソードで彼の胴をハアッ! と一突きする。
ドサリ、と倒れる仲間を目の当たりにし、もう一人の男は警戒心をむき出しにして、後ずさりしながら短剣を構えた。
「劇薬か……!」
「ううん、ただのジャスミンのコロン。ほんのり華やぐ香しさ、どんなメンズもひとふりでイチコロ」
ユリエルは何となしに剣を一振りし、血を払った。確かに、倒れた男から微かな甘い香りが漂う。それは毒よりも魅惑的な、死へと誘う一滴であったことだろう。
「ほざけ!」
義勇十字団の男は短剣のグリップをくるりと回すと、刃の反った部分がユリエルに直撃するよう逆手に持ち直し、勢いをつけて突進した。それでもこの騎士は造作もなく、すれ違うような形で彼の攻撃をかわす。しかし、彼の本当の狙いは他にあった。
義勇十字団の男は直進し、屠られた仲間のサーベルを拾い上げると、短剣を捨てて持ち替えた。サーベルのほうがスモール・ソードより刀身が長いので、リーチの差からユリエルが不利である。草原を一迅の風と共に、緊張感が走った。
男が凶悪な笑みを浮かべて、ユリエルへ斬りかかった。
「これでどうだッ! 死ね、死ね!」
ユリエルは男の繰り出す斬撃をスウェイして避けるが、その表情は先程より疲労感が見えている。長期戦は体力を著しく消耗するようだ。
「うぅ~! ボク、フットワークには自信あるんだけどスタミナないんだよなぁ」
このまま防戦一方では、彼の得意とする敵の懐へ飛び込んで急所を刺す戦法が不可能である。
「避けてばっかいんじゃねぇぞ糞雑魚がぁ!」
男は追撃を仕掛けんと剣を振りかざすと、頭部めがけて刺突しようとしてきた。ユリエルは腰を落として隙間を潜りぬけるように避けたが、髪に結んだ大きなセピア色のリボンが剣の刃を掠め、そのまま力任せにビリビリと破かれてしまった。
「ああっ!」
ユリエルは悲鳴を上げると、左腕を後頭部へ回し、リボンが解かれているのを手探りで確認した。
「ダアアアアア!」
義勇十字団の男は再び彼を刺そうと、サーベルを持つ右腕を引いて、前方へ突き出した。
ユリエルは差し迫る剣を飛び越えるように高くジャンプすると、男の突き出した右腕を足掛かりにし、さらに跳躍した。二段ジャンプである。そのまま男の頭頂部に踵落としを決めて着地した。
「ウオッ……」
男はあまりの衝撃と激痛に唸りながらよろめき、頭を抱えて地面に膝をつく。
「リボンがボロボロになっちゃった……」
小柄な騎士はひとまず草叢から、ぼろきれと化したセピア色のリボンを拾って、悲しげな茶色の瞳を曇らせたまま佇んでいた。
「こ、降参だ。もう俺は何もできない……頼む、殺さないでくれ」
義勇十字団の男は弱々しい声で命乞いを始めた。気付いたユリエルが振り返ると、彼はまだ踵落としのダメージが残っているらしく、地面に腰を落としたきり立ち上がれないでいた。
「あ、お前、手鏡だの香水だの揃えて、金が要るんじゃないのか? 金をやるから、見逃してくれ……!」
男の目は揺らいでいて、焦点が合っていなかった。意識の朦朧とした状態であっても、生に縋りつくように言葉を紡いでいるのだ。
ユリエルは罪悪感から深刻な面持ちになり、ぼろぼろになったリボンを強く握りしめた。そして首を真横に振る。
「……駄目。僕は騎士だから、ワイロを受け取らない。国を脅かす貴方たちを見逃すわけにはいかないんだ」
普段より暗めのトーンでそう言い放つと、碌に動けずに座り込んだ男に向かって、剣を振り上げた。
「死にたくない」
「冥府の女神ミハトの御許で懺悔して」
騎士のスモール・ソードが、義勇十字団の男の心臓を貫いた。
寂寞たる草原の上、志半ばで敗れた兵が、此処こそ終の臥所と横たわる。彼らの傷痕から溢れる血溜まりを大地がみな吸い上げるなら、地中深く根を張り、咲くのは時代の徒花だろう。
騎士ならば、王にまつろわぬ徒花を刈り取らねばならない。その虚しさは、剣を翳すたび身を震わせた。しかし、散る覚悟で咲き誇る花に憐れみを覚えるのは、かえって奢りである。ならば戦いの場では涙を堪え、辛ければ、辛いときこそ笑顔で出迎えてみせよう。手向けの花は彼ら自身の命なのだ。――と、ユリエルは常々そう心に誓っていた。
(ボクはいつでもお洒落が楽しめるような、平和な世の中を守りたくて騎士になったけど……。そのために事情はどうあれ、他人の命を奪っていることを忘れてはいけない……)
小柄な騎士はぽっかり空いた虚ろな瞳で、男たちの亡骸の前に屈むと、ズボンのポケットから畳まれた白いリボンを取り出し、おもむろに広げた。
「また染めなきゃ……」
血溜まりに浸された白いリボンは、月明かりの下で赤く染まっていく。一面染め上げた後、真っ赤になったリボンを掬いあげて、草叢の上に置いた。
ユリエルはリボンを前に、目を瞑りながらしばらく手を合わせた。




