第二章 さらば貴婦人
惚れさせて利用するつもりが、いつの間にか、エヴァンのほうこそ彼女にほだされていた。普段、怠惰で軽薄な人間をとことん忌み嫌うからこそ、ゆるぎない信念を持った女に弱いのかもしれない。胸の内にある同情のような気持ちを、どう始末してくれようか、と考えあぐねていた。
そうこう思案しているうちに、エヴァンたちは一階の回廊にたどり着いてしまった。逢瀬の終わりを惜しむような、そんなロマンチックな感傷に浸れる立場ではない、とエヴァンはわかりきっていた。騎士として、義勇十字団である彼女をこのまま逃すわけにはいかないのだ。だが、国王暗殺に反対する穏健派を屠ってもいいのだろうか、と答えの出ない葛藤は、彼の心を戸惑わせる。
そんなエヴァンの心情を知らず、貴婦人は振り向きざまに髪をなびかせ、スッと上品に一礼してみせた。出会った時のあだっぽさとは違った魅力のある、清々しい笑顔を浮かべた。
「ここから先は一人で大丈夫よ。本当にありがとう。私、貴方のこと忘れないわ……。 またどこかでお会いしましょうね」
待ってくれ、とエヴァンを言いかけたが堪え、延ばしかけた手を引っ込めた。回廊の向こう、玄関口へ向かう彼女は、開け放たれた窓から差し込む月明かりで輝いている。
(そうだ。このまま、彼女が城の外へ出てしまえば……!)
エヴァンの脳裏に、騎士道にあるまじき妥協がよぎった。
そのとき。
二人の背後から、緋色の軍服をまとった男が駆けつけ、瞬く間に距離を縮めながら、エヴァンを押しのけるように剣を振り上げ、貴婦人の背中をザンッと斬りつけた。
刃の弧を描く動きに合わせ、男の括った長い黒髪が大きく揺れる。彼もまた騎士の一人、ハンフリーである。
斬りつけられた貴婦人は衝撃で前のめりに倒れこんだ。ドレスの布が破れ、露わになった背中の、義勇十字団の証である黒い刺青が、縦一直線に真っ赤に切り裂かれ、血飛沫が飛び散る。
ハンフリーはサーベルに滴る血をヒュンッと振って落とすと、鞘に納めた。なんてことはない作業のようである。
「仕事中にアバンチュールとは良いご身分だな」
そしてエヴァンに向けてそう言い捨てた。さらに向こうから階段を下りてやってくる騎士二人が、惨状を目前にして慌てふためく。
「……ッ!」
エヴァンはとっさに貴婦人に駆け寄り、両膝をついて屈んだ。背中の大怪我に障らぬように、彼女を腹ばいの状態にしたまま、顔を近づける。
おびただしい血を流し、土気色の顔色になった貴婦人は、脂汗をかいた頬に乱れた髪を貼りつけ、息も絶え絶えになりつつも、顏を上げて唇を動かそうとした。
「う、そつ、き」
エヴァンに向けられたその表情は、信じていたのに裏切られたことへの失望か、それとも騙されたがゆえの自嘲なのか、激痛に歪みながらも悲しげな笑みだった。
(なぜ、笑う)
蔑まれるより罵られるより、エヴァンの心に深く突き刺さった。
貴婦人はそのままうつ伏せになったまま、息を引き取った。エヴァンは血溜まりで礼服を汚しても、しばらくその場から動けずにいた。
漂う血の臭いと生温かさを感じながら、彼はやっと思い出した。義勇十字団もまた、自分と同じ人間なのだ、と。




