第二章 靄の正体
「そうですね……両国は和睦の第一歩を踏み出したばかりです」
プリムローズは欄干の上に右手を添え、遠くにある城下町の小さな光を一瞥した。
「今回の件では、貴方のおっしゃる通り実利目的の側面が大きく、ベリロナイトの国民はまだアルカネットに対するわだかまりを拭いきれていません……。でも私は、今はまだ、それでいいと思います」
「どういう意味だ?」
蒼白の客人は怪訝そうに尋ねた。
「だって10年も戦争をしていて、まだ20年しか経っていませんもの。今すぐに仲良くしなさいと言われても無理があります」
王女はパッと向き直り、困ったような笑顔を浮かべる。
「まずは交易を通じて、お互いのことを知り合うのが何よりかと……。アルカネット人は損得勘定に長けていると聞くので、お金の力は期待できます。ベリロナイト人はアルカネットを敵国ではなく商売相手と考え直すことから始めるべきですわ」
プリムローズはアイヴィーと豊穣祭へ出かけてから、金銭は人々を繋ぐ大事な道具だと考えていた。民が富を得て豊かな生活を送るために、より多くの人間と商売をするからだ。
しかし、客人は信じられないといわんばかりに、頭を横に振った。
「……貴女は憎しみすら受け入れるというのか」
「ええ。だって、いつかベリロナイト人のアルカネットへの憎しみは薄れていくと信じています。たとえ時間がかかっても、一歩ずつ……。私は人柱ではありません。両国を繋ぐ架け橋になりたいのです」
「かつて敵国だった人間同士が、親睦を深めるなどあり得ない。夢物語だ」
「えっ? でも現に私達、こうやってお話できるじゃありませんか」
プリムローズがきょとんとした顔で言い返すと、彼は黒い目を見開いて絶句する。
「貴方が、晩餐会で私がないがしろにされてるぞ~って仰っていたとき、私の中でモヤモヤしていた気持ちが晴れたんです。ちやほやされている妹を妬んでしまったとか、自分の汚い感情がわかってちょっと恥ずかしかったけど……ああ、そうだったんだってすっきりしました。ありがとう」
礼を言って微笑みかけるプリムローズに、客人はたじろいで半歩後ずさった。
「そう、今のベリロナイトにも、靄が立ち込めています。外から新しい風が吹かないと、この靄を払い去ることはできません。私は霞がかった道をいく、すべての人達の道標となりましょう」
「……」
プリムローズの話を聞き、客人は俯きながら何か考えた後、諦めたようにフッと小さく笑った。そしてさらに前へ進み、プリムローズの隣に立つ。
「……小さな国だ……」
先程より幾分穏やかな表情に変わった、鷲鼻の高い横顔に、王女は少し胸が高鳴った。
「山と畑しかない、凡庸な……。こんな小国相手に、我が国は躍起になっていたというのか……」
「観光を整えれば、手軽に旅行できる国として親しまれますわ」
城下町の点々とした小さな光は、星の瞬きのようであった。二人は言葉を交わさず、しばらくその光景を眺めた。
「……邪魔をした。もう、ここに用はない。妹君の体調もじきによくなるだろう」
客人は筋の浮いた青白い手を欄干にかけた。
「えっ、どちらに行かれるのですか――キャッ!」
またもや突風が吹いて、プリムローズはよろけそうになっても、腕を風よけとして顔の前に掲げながら、薄目を開けた。すると既に隣にあの痩身の客人はおらず、雲間からやっと覗かせた満月の光の下、形状のはっきりしない真っ黒な煙のような塊が西へ飛んでいくのを目撃した。
「真っ黒なモヤモヤ……」
プリムローズは呆然として立ち尽くし、それを見送った。
「プリムローズ様!」
アイヴィーが階段を上がって高台へやってきた。冷や汗をかき、慌てて飛び出した様子である。
「アイヴィー」
呆然としていたプリムローズはハッと我に返り、侍女の元まで駆け寄った。
「どうなされたのです。晩餐会の途中にこんなところまで……!」
怒るというより取り乱しているアイヴィーに、プリムローズはごめんなさい、と手を合わせて悪戯っぽく笑った。
「何でもないわ。月が綺麗だったから、見惚れていたの」
アイヴィーは宵空に浮かぶ満月を睨む。
(不穏な気配が消えた……)
プリムローズの部屋で待機していたアイヴィーは胸騒ぎを感じてここまで来たのだが、杞憂というには生々しいほど存在感のある邪気であった。




