第二章 謎の客人
キャンディス城の塔はいつも見張り番がいるのだが、晩餐会の影響で警備兵の配置が換わったのか、不思議なことに誰一人としておらず、忽然としていた。無鉄砲なプリムローズは違和感を持たず、むしろ寄り道を誰にも咎められないのは好都合なので、そのまま釣り鐘のある高台へ上った。
城壁の回廊を渡れるプリムローズも、流石に地上600メートル近い高所では足がすくむ。自分の肩程の高さのある欄干を越える気にはならなかった。
(やっぱり中庭のあたりが夜空に反射するほどまぶしい。灯火というより、全体的に光放っているというか……晩餐会だからって薪を消費しすぎじゃない?)
欄干を両手でしっかり掴んで、プリムローズは中庭の方角をまじまじと見つめた。高台に吹く風は強く、冷たく、彼女のラベンダー色のドレスの袖を揺らした。見渡せば城下町のほうはホタルのように点々とした明かりが灯っている。その一つ一つの光の中に人々の日常が営まれているのだ。
すると、どこからともなく黒い蝶が飛んできて王女の視界を遮った。
(こんな季節に蝶が?)
彼女が欄干越しに蝶へ腕を伸ばそうとしたとき、突風がヒュウウウと吹き込んで思わず目を閉じた。
強い風は冷たく頬をさすり、不躾に髪を引っ張る。ドレス姿で立っているのも精一杯で、空の彼方へさらわれそうになる。
風がやむのを肌で感じると、プリムローズは恐る恐る目を開いた。
「貴女だったか。尻がどうこう叫んでいたのは」
誰もいないはずの背後から低く、抑え気味だが若い男性の声がした。プリムローズは驚いて肩をすくめ、飴色の瞳を見開きながら振り向いた。
藍色の正装を纏った、病的と言えるほどに細身の青年が、釣り鐘の下に佇んでいる。物陰でその表情を読み取ることはできないが、服装からアルカネット帝国の人間だとわかる。
「……聞こえていらしたの」
プリムローズは窓を開けて叫んだ言葉を思い出し、頬を赤らめた。謎の人物は挨拶どころか名乗る素振りも見せないが、胸元の勲章の多さから、若くしてアルカネットの高官ではないかと彼女は推測した。
「今宵はせっかくの満月の日ですのに、曇り空で残念ですね」
彼女も王家としての威厳を保つため、自らを名乗らない人物に挨拶はせず、取り留めのない世間話で済ませようとした。相手だって自分のことを王女だと知っているだろう、という自負がある。
「貴女は、世界に何を思うの?」
唐突に投げかけられた彼の質問に、プリムローズは小首を傾げた。
「この世界はもう滅茶苦茶だ。歪んで、捻じれて、誰もが自分のエゴイズムを押し付けあっては、いがみあっている」
アルカネットの客人は、摺り足じみた足取りで、一歩ずつプリムローズに近寄る。
「貴女だって生まれて間もなく、望んでもいない婚約をとりつけられたんだろう。あの晩餐会もさ、女王になる妹君ばかり注目されて、修好条約の要であるはずの貴女はないがしろにされていたじゃないか……多くのエゴの犠牲になって、人柱にされて不満はないのか」
「……」
次第にまくしたてるような語気になっていく彼の言葉に、プリムローズは動揺しながら何も言えずにいた。彼女自身すら気付けなかった――否、気付いていても知らんぷりをしたかった胸の内にかかる靄の正体を、いきなり暴かれたからだ。
「僕はもう……世界を見限ることにしたよ」
彼は釣り鐘の下から、とうとうプリムローズの前までやってきて、その容貌を露わにした。
血の気のない青白い顔に鷲鼻が出っ張り、痩せこけた頬と尖った顎の輪郭に収まっている。唇は乾いてひび割れ、一応梳いたであろう黒髪に艶はなく、落ち窪んだ黒い眼に光はなく、この世のすべてを諦めたように虚ろだった。身に纏う正装と比べると、あまりにも貧相な顔立ちである。
プリムローズはその不健康そうな外見を心配したが、初対面の人間の顔をじっと見るのは礼を欠くだろうと思い、自分の足元へ視線を落とした。
「……世界に、何を思う……。それは――その問いは、この度の国交正常化について私個人の意見をお聞きになりたい、ということでよろしいしょうか……?」
そして彼女なりにうんうん悩みながら、彼の難解な質問の真意を探った。
「……」
顔を上げて目を合わせても、対面する人物は何も答えない。プリムローズはその態度を肯定と受け取った。




