第二章 塔の上へ
プリムローズたちは城の最上階にある居館の、シャーロットの部屋まで着いた。
「かしこまりました。あとはマドンナにお任せください」
こうなることを予想していたのか、侍女頭のマドンナは心配そうに眉をㇵの字にしつつも、顔色の悪いシャーロットを見るなり、寝巻きにお召し替えしましょう、とさっそく彼女に近づいた。
しかし、シャーロットは相変わらず浮かない顔のまま、晩餐会へ戻ろうとするプリムローズの手を引いた。
「行かないで……」
「シャーロット……」
消え入りそうなか細い妹の声に、単に弱って甘えているだけではない、何か事情があるようだとプリムローズは悟り、耳を傾ける。
「黒いモヤモヤがね、城の周りをうろついているの。それは、よくわからないけどとても怖いの……今戻っては駄目……」
マドンナは震えるシャーロットの肩に、皺だらけの手をそっと添えた。
(……シャーロット……。黒いモヤモヤ? よくわからないけど、ずっと怖い思いをしていたのね……)
プリムローズは胸の前で作った拳に、いっそう力を入れた。自分のことで頭がいっぱいで、妹の不安に気付けなかったのを悔やんだ。そして膝を屈むと、シャーロットを両腕でぎゅっと抱き締めた。
「お姉様……」
「いいの。もう大丈夫よ」
「いやそうじゃなくて、力強すぎ……私もう具合悪くて吐きそうだから」
プリムローズは微笑みながらシャーロットの華奢な背に回した腕をほどくと、待ってて、と言って部屋の窓を開け放った。白いレースのカーテンが夜風になびく。
はためくカーテンに手招きされたように、プリムローズは窓の桟に両手をつき、外へ半身を乗り出した。
「黒いモヤモヤやーい! シャーロットを虐めると、お尻を百回ぶちますよ!」
突然、窓の外へ大声で叫びだした姉に、シャーロットは飴色の瞳を丸くした。プリムローズは振り向きざま、勝ち誇ったような笑みを浮かべて彼女に目配せした。
「きっとお化けは私に恐れをなして逃げていくわ。シャーロットも大きな声で言ってごらんなさい――黒いモヤモヤめ! 来るならお尻を千回ぶちますよ!」
「ぶ、ぶちますよっ!」
戸惑いながらも幼い妹は姉の言葉を復唱した。すると、打つ、という強い言葉を発した瞬間、今までの恐怖が薄らいでいくように感じた。
プリムローズは納得したように頷きながら窓を閉め、シャーロットたちのほうへ向き直る。
「これで良し。もう大丈夫よ。あとはマドンナが傍にいてくれるから、怖いものなんてないわよね」
マドンナは笑い皺を深く刻みながら目を細めた。
「はい。もしお化けがシャーロット様のお部屋に入ってきたら、お尻を一万回ぶちます」
「頼もしいわ」
プリムローズは表情にいっそう笑みを深めた。
「……なんだかお姉様って、何があっても大丈夫な気がするわ」
シャーロットは先程まで怯えていたのを忘れてしまったように、ぽかんと立ち尽くした。
シャーロットをマドンナに託した後、プリムローズはビロードの敷かれた回廊を、重たいスカートを擦りながら一人で歩いていた。居館内に騎士は有事以外立ち入れないのである。
『――今戻っては駄目……』
「……」
妹の言葉が気懸かりなのか、プリムローズはふと、このまま晩餐会へ戻るのを躊躇った。歩幅が一歩ずつ狭まり、やがて立ち止まる。
(なぜかしら私、晩餐会に戻りたくない。シャーロットを部屋へ連れて行くのを口実に、あの場から逃げてしまったような、そんな気さえする。でもどうして……?)
黒いモヤモヤが城にいるとシャーロットは言った。しかし、プリムローズには取り払えない靄が胸の内に立ち込めていたのである。
回廊の小窓から風が吹き、プリムローズの結った髪をなびかせた。侍女たちが整髪のため施した、ハーブを抽出したオイルがふわりと香る。
(いい風……)
プリムローズは外の景色に視線をやった。
(あれ? 中庭のほうが異様に明るいような……)
中庭はこの場所からだと遠く、まるで火を囲んでいるかのように強い光が、木々の合間から漏れているのを見つけることしかできない。
(中庭は今晩だけ公開されていると聞いたわ。その明かりかしら? 一番高いところ……塔の上から見てみましょう)
プリムローズは踵を返し、塔への階段を目指した。




