第二章 奴は晩餐会にいる
(ええい、退け。退け、俺に道を譲れ。木偶の坊どもめ……)
紺色の礼服を着た赤茶髪の男――エヴァンは、周囲に自分の存在を悟られないように、スタスタと早歩きし、会場の全貌を見回せる東口方面の壁沿いに向かった。
ちらほらといる警備中の同僚たちを見つける。慣れぬ晩餐会の優雅な雰囲気に飲まれて、ただ同じ場所をぐるぐる巡回しているだけの者や、ムードなどどこ吹く風かといわんばかりに肩肘張っては踏ん反り歩き、楽しげに談笑する貴族たちの間を横切って白い目で見られる者もいた。「ゆめ臆すること勿れ、ゆめ驕ること勿れ」という騎士団の鉄則を忘れているらしい。
(まるで上流階級の作法を心得ていない……。やはり、あんな奴らより俺のほうが晩餐会の警備に適任だな)
鈍くさい人間や粗野な振る舞いが副団長の次くらいに嫌いなエヴァンは、壁を背にして腕を組みながらフン、と煩わしげに鼻を鳴らした。向こうはまさか同僚が招待客に紛れているとは思いもよらないだろう。気づかれたら不利になる状況にもかかわらず、自分を見逃してしまう他の騎士たちの詰めの甘さに、エヴァンはますます苛立ちを募らせていた。
すると傍らから何者かに声をかけられた。
「ああ、これはこれは。エヴァン〝君〟」
喧騒の中から、聞き覚えのあるねっとりとした声音を耳にしたとき、エヴァンの背筋にぞくりと悪寒が走った。まずい、と一単語だけ脳裏によぎると、一瞬思考停止してしまった。その隙を狙ったかのようにエヴァンと同世代の青年貴族が2人、彼の元へニタニタと馬鹿にしたような笑みを浮かべて近寄ってきた。
「しばらくぶりじゃないか。最後に会ったのはいつだっけ? ……ああ、御母堂が亡くなられた葬儀以来か」
血縁を尊ぶ貴族社会において、親亡き子は卑しき侮蔑の対象である。
「君が招待されているとはね。まだ爵位を返上していなかったのか」
「……」
二人の挑発に何も言わず、エヴァンは組んだ両腕を解いて踵を返そうとしたが、青年貴族の一人が腕を掴みかかってきた。
「おい、何か言ってみろよ」
「逃げるなんて一門の名が廃るぞ。エヴァン・レオビカウント卿」
何度も書き表してきたが、エヴァンの一族――レオビカウント家は代々騎士を輩出しているため、国家に尽くした功績が認められ、戦前より副伯の爵位を受け賜わった。末端ながら、国中の貴族が集う晩餐会へ招待される資格はある。
しかし、ベリロナイトの貴族制度は本来、地方豪族が領地を管理する義務と引き換えに与えられる特権なので、レオビカウント家は特殊な立場にあるといえる。より多くの富を欲する者にとっては、もとは平民のくせにパイを奪うような目障りな存在なのだ。
エヴァンは掴まれた手首を、相手に向かって押しだすように内側に回して難なく振りほどき、彼らに向かって爽やかな笑顔を返した。
「あいにくですが、人違いです」
すると青年貴族たちは舌打ちをして、エヴァンを壁沿いへ追い込むように取り囲み、そのうち一人は彼を逃がさないよう壁に手をついた。
「とぼけるなよ、エヴァン……! また子供の頃のように仕置きされたいのか」
顔を近づけて凄む青年は、こめかみに青筋を立てていた。対するエヴァンは、今は任務中であるぞと己を律し、貼り付けた無表情の内に憤りを押し殺した。
父ニコラスが亡くなり、母が流行り病で倒れると、エヴァンは親族を頼りながら暮らしていた。この2人の貴族は、叔父叔母の紹介で知り合ったのだ。だが彼らは甚だしく意地の悪い性分で、周囲の大人の目を盗んでは、準貴族で立場の弱いエヴァンに嫌がらせを繰り返していた。ときには命に関わるようなひどい虐めもあった。
「父親がいなくとも、貴族社会で孤立しないように、同世代の貴族の息子たちと親睦を深めてほしい」という、恩のある叔父の厚意を無下にすることはできず、病床で苦しむ母に弱音をこぼすこともできず、エヴァンはいつも一人きりで陰湿な虐めに耐えていた。彼が他人に対して懐疑的な面があるのは、少年時に受けた虐めも一因している。
「僕たちは知ってるんだからな……お前、義勇十字団のメンバーなんだろう……?」
吐息がかかるほど近い青年の言葉に、エヴァンは何を言っているんだこの猿ども、と灰色の目を見開いた。しかしもう一人の青年は、その表情を図星と受け取ったらしく、鼻で笑う。
「噂になってるんだよ。お前がちょくちょく奴らの集会所へ出入りする姿を、夜の街で目撃した貴族がいるんだ」
「……」
どうやら潜入捜査の件を勘違いしているようだ。そしてエヴァンが騎士になったということを知らないらしい。それもそのはず、彼は自分の来歴からストレートに騎士団に入ると目立ってしまい、先の戦争の裏事情を握り潰したい人間に足を引っ張られるだろうと考え、警備兵からの人材抜てきという体で入団したのだ。誰かに指摘されたときは、騎士たるもの下積み経験を重ね己を研鑽すべき、と半ば本音も込めて言い訳している。
「まただんまりを決め込む気か。今、この場にいる騎士を呼んできてもいいんだぞ」
青年たちにとって、エヴァンは未だ子供の頃の、後ろ盾のない好都合なフラストレーションの捌け口に過ぎないらしい。
右手で赤茶色の髪を掻き上げると、礼服の騎士はジャケットの胸ポケットから、一通の封筒を取り出した。四隅を百合の花の囲いが描かれた、上等な紙である。さらに注目するべきは、インクで綴られた差出人の名前である。
「クレメンス・オブ・ハミルトン……宰相閣下だと!」
ベリロナイトで国王に次ぐ有力者からの推薦状に、青年貴族たちは目を白黒させた。
「嘘だ、なぜ弱小貴族のお前に、そんな大物のつてが…っ?」
壁に手をついていた青年は、焦るようにエヴァンの襟首を掴みかかる。
「……王家にお招きされた場で、このような無粋な振る舞いをなさるのはお里が知れますよ」
しかし、この程度の暴力では怯みようがないほど、エヴァンは彼らに数々の嫌がらせを受けてきたのだ。
「減らず口を……!」
青年が手を振り上げた瞬間、彼のうなじにポタリ、と上から水滴が滴り落ちた。
「つめたっ! 水? 雨漏りか? クッ……」
不快感に耐えられない青年は、首の後ろを掌で何度も擦りながら天井を睨んだが、豪華なシャンデリアの明かりが眩しく、目がくらみそうだった。
「覚えとけよ!」
もう一人も雨漏りと思われるアクシデントに白けたのか、捨て台詞を吐きながら二人してエヴァンのもとを立ち去った。
「……」
エヴァンの眼は、窓際に佇む不審な人物をすでに捕らえていた。青年貴族たちをあしらいながら、周囲に怪しい者がいないか窺っていたのだ。その人物は窓の向こうを、ちらりちらりと気にしながら、右手に持った絹のハンカチを口元に当てている。
「そうだ、行ってこい」
天井の回廊から、マシューは欄干の上に右腕で頬杖をつき、真下の様子をまるで競技観戦するように呟いた。その節くれだった左手の指先は濡れている。先ほどの青年貴族に落ちた水滴は彼によるもので、ズボンの裾がびしょ濡れのフィリポが報告しに来た際にできた、床の小さな水溜まりから掬ったのだった。
「しっかし、居所が悪いな……」
マシューは濡れた指先を拭うように、やや薄くなった白髪交じりの頭を掻いた。エヴァンが発見した窓際の不審人物の近くに、老若男女の貴族に囲まれ、和やかに挨拶を交わす二人の王女がいるのだ。




