第二章 早朝のシュークリーム
結局、フィリポはあまり寝られぬまま、夜が明けてしまった。閉じたカーテンの隙間から朝日が差し込んでも、ビクターは掛け布団を蹴飛ばして大の字の状態で眠り、エヴァンは身を丸めて布団に抱きついて眠っていた。
「……」
騎士団の朝礼までまだ早い。ベッドを整えて軍服に着替えたフィリポは、詰所の脇にある井戸へ向かった。
フィリポは井戸から汲んだ水で口を漱ぎ、顔を洗うと、気だるい全身が芯から冷めていくような心地がして、しょぼしょぼしていた両眼も冴えてきた。
せっかくだからと、うろこ雲を照らすまばゆい朝日を拝もうと、エルフの青年は詰所の外へ散歩することにした。
騎士団の詰所から本城へ続く石畳の道を歩むと、刈り込んだ芝生の坂道に変わる。その先には、石造りの小さいコテージが2軒並んで建っていた。騎士団長と副団長の住居である。二人はヒラの騎士と違い、それぞれ個室が用意されているのだ。
一方のコテージ庭に設置されたバルコニーに、見覚えのある人影が佇んでいた。
「あっ副団長、おはようございます」
フィリポはとっさに右手の拳を掲げて敬礼した。訓練に励む生活の中で、習慣として身についているのである。
マシューは軍服姿でバルコニーの欄干に寄りかかって立ち、右手に紙袋を持っていた。
「おう、フィル。朝早いな」
ちょうどいいや、こっち来い、とマシューは手招きした。何だろうと思いつつも、フィリポはバルコニーへ上がった。
「ほい」
マシューがガサッと紙袋から取り出して、フィリポに手渡したのは、焼きたてのシュークリームだった。香ばしい生地の匂いがふわっと鼻腔をくすぐる。
「これは……?」
「ちょっと厨房のほうで今な、晩餐会のご馳走や菓子を作ってるんだよ。そんで、形が悪かったりちょっと焦げてたり、見栄えの悪いもんは捨てるっていうからさ、もったいないと言ったら貰った」
マシューはまた紙袋からシュークリームを一個出し、かじりだした。
「えっと、ありがとうございます。頂きます」
フィリポは少し焦げ目のついたシュークリームを両手で持って、口に運んだ。しっとりした生地の食感と、バニラ香るカスタードクリームのまろやかな甘さが口いっぱいに広がり、舌鼓を打つ。思わず尖った長い耳が跳ねた。
「美味いだろう? 俺これ大好物なんだが、朝っぱらには重くてな。一個で腹いっぱいになるんだよ。他の奴らには内緒だぞ? 砂糖を使った甘味なんて普段なかなか食べられないからな」
早起きで得したな、と悪戯っぽく笑うマシューを見て、フィリポはゆうべの話を思い出し、複雑な心情になった。
(……こんな、にこやかにお菓子食うおっさんが仲間殺しを……)
誰にも咎められたわけでもないのに、居た堪れない気分になって、エルフの青年はバルコニーの向こうの朝の景色へ視線を移した。ここからだと放牧場のススキ野原まで見える。
「最近はどうだ、仕事で悩みはあるか?」
突然、マシューに尋ねられてフィリポはえっ、と戸惑った。
「あぁ、えっと……うーん」
「まぁ言いづらいわな!」
アハハとマシューはまた笑いながら、フィリポの背中を軽く叩いた。フィリポは叩かれた拍子に、食べかけのシュークリームからカスタードクリームをはみ出してしまった。
「お前はよくやってると思うぞ。エルフ族の故郷からこっち来て、集団生活に戸惑うこともあったろう。うちの訓練なんて最初はしんどいが、身体が鍛えられていくとこんなもんか、とじきに慣れるからな。それでも悩みがあったらいつでも相談に乗るぞ。俺に言いづらければ、チームメイトのエヴァ――ううん、ビクターに打ち明けるといい。一番駄目なのは一人で抱え込むことだから」
副団長は笑い皺をいっそう深く刻みながら、黄ばんだ歯を見せてニッと笑った。何やらぎこちないフィリポの様子を察して、励ましているようだ。
(……エヴァンには悪いが、俺はこの人のこと嫌いになれないな)
人間は一人だとしても、さまざまな「顔」を持っている。冷酷で残忍な人物が、気の許せる相手には親切に振る舞ったり、逆に温厚な人物が、烈火の如く怒り狂うこともあるだろう。いつでも同じ思考で行動できる人間など、実は滅多にいないのだ。
フィリポは、マシューがエヴァンの父を殺害したことに、そうせざるを得ない事情があったのではないか、そう思い始めていた。
「……あっ、エヴァン」
フィリポの淡褐色の目が、数キロメートル離れた放牧場にいる、馬に乗った人影を二人捉えた。そのうちの一人がエヴァンだ。フィリポが出かけた後に起床したのだろう。
「ええっ! プリムローズ様もいます」
鷹の目を持つエルフの青年は、バルコニーから身を乗り出した。
「よく見えるな。たまにプリムローズ様は馬で散歩なさるんだよ。エヴァンが警備兵で馬番やってた頃からだから、乗馬のご趣味はかれこれ4年続いてるのかな」
エヴァンが元警備兵ということも初耳だったが、フィリポはさらに信じられない衝撃の事実を目撃した。
あの気難しくて怒りやすい、常に高慢な態度をとる同僚の男が、晴れやかな朝の秋風のように爽やかな笑顔を見せていた。正直気味が悪かった。
「だ、誰ですかあのエヴァンは……!」
「ん? だからエヴァンなんだろ?」
マシューはシュークリームをぺろりと平らげた。