第二章 束の間の安寧
放牧場では、昨日と同じように、プリムローズが栗毛の愛馬マロンに跨り散歩していた。その後ろをエヴァンが芦毛の馬グレースに乗り、ついていく。
昨日と違うのは、王女の表情に曇りがないことである。その飴色の瞳は、どこまでも続くススキ野原を、淀みなく映していた。
「昨晩はよく眠れました」
悩みから解き放たれたプリムローズは、心身ともに軽くなったような気持ちがしていた。
「それは何よりです」
エヴァンは朗らかに目を細めた。しかしその声色がいつもより暗いのを、プリムローズは察した。
「……貴方は少し元気がなさそうですね」
王女は騎士のほうへ振り向き、まじまじと顔を見つめた。彼の目の下にはクマができていた。
「今日はここまでにしておきましょう。晩餐会の準備もありますから」
プリムローズはマロンの胴を両足で押さえて止まるよう促すと、手綱をしっかり握り、厩の方角へ方向転換した。
「いえ、お気遣いなく。自分ならどうってことありません」
エヴァンは何でもない、という風に首を横に振った。
「しかし……」
プリムローズは疲れているエヴァンを案じた。騎士として、体調が悪いにもかかわらず、乗馬したがる自分の護衛をしてくれているのでは、と申し訳なくなり、眉をハの字に下げた。それに対し、エヴァンは和やかに微笑んだ。
「自分にとって、プリムローズ様とのお散歩は、何物にも代えがたき至福の時ですから。疲れなど吹き飛んでしまいますよ」
「そんな、いつも楽しくお散歩できるのはエヴァンのお蔭です。私がマロンに乗れるようになったのは、貴方が教えてくれたからではありませんか」
プリムローズが乗馬を始めたのは10歳の頃である。王家の子女として、乗馬は教養の一環として習得するものである。何故なら有事の際には、馬に乗って逃げる必要があるからだ。
父王バクストン6世にマロンを与えられたばかりのプリムローズは、なかなか悪戦苦闘していた。当時、馬番だったエヴァンはそんな彼女を応援していたのである。
「恐れ多く存じます。自分は大それたことはしておりません。プリムローズ様がご自身でマロンの世話をされているから、こうしてマロンとお心が通じ合って乗れるようになられたのですよ」
幼きプリムローズはある日、馬番のエヴァンにマロンの世話がしたいと願い出た。最初、エヴァンも戸惑ったが、彼女の真剣な眼差しに押されて渋々承諾した。ところが意外にもプリムローズはマロンの世話を怠らず、手順を教えると、清掃や便の処理さえ真面目に取り組んだのだ。
父ニコラスの裏切りによる戦死が原因で、他人に懐疑的だったエヴァンも、プリムローズのひたむきさに心打たれ、進んで乗馬の特訓に付き合うようになり、今の友好関係がある。
「プリムローズ様の優しいお気持ちは、この乾いた心に安らぎをくださいます。どうかいつまでも素敵な貴女様でいてください……」
エヴァンは疲れ目のせいか、切れ長の瞳を潤ませた。その真に迫った表情と口説き文句にも似た言葉に、プリムローズは顔を赤らめてそっぽ向いた。
「や、やっぱり貴方、疲れていますよ! 買い被りすぎです……!」
「プリムローズ様!」
城のほうからアイヴィーが駆けてやってきた。
「アイヴィー!」
プリムローズは目を丸くして驚いた。今朝は昨日と違い、朝食には戻ってくると部屋に置き手紙を残したからだ。
「今日はこれから、晩餐会の御支度があるのですよ……!」
息を切らしながらアイヴィーはプリムローズにずんずんと近寄る。
「えっ、もうこんな早くから?」
「当然ですわ、さぁ戻りましょう! ――ああエヴァン様、どうか晩餐会の当日ぐらいは、プリムローズ様の外出を引き留めてくださいませ」
侍女は王女を急かしつつ、馬上の騎士へ抗議した。
「すまんな、アイヴィー。……くれぐれも今晩は、プリムローズ様の御傍に離れないでくれ」
エヴァンの表情からふっと微笑みが消え、神妙な面持ちに変わった。
「おっしゃるまでもなく」
アイヴィーも青い瞳を氷のように光らせ、真顔で応じた。そして一礼し踵を返すと、マロンに乗って厩へと遠のいていくプリムローズを追った。
「……」
(娘だてらにあの勇ましさ、どこぞのエルフに爪の垢でも煎じて飲ませようか)
エヴァンがそんなことをぼんやり考えていると、ヒュウ、と一迅の寒々しき風が、彼の前髪をなびかせた。ススキがざわざわと揺らめきだす。澄み切った秋空は、みるみる濁った灰色の雲に覆われていった。




