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【蛇足追加】他の誰かにはなれない  作者: 篠月珪霞


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ターナー男爵家がアルダーノフ侯爵領と隣接していたのは、偶然か必然か。

リディアにとって幸いだったのは、間違いない。


オースティ公爵家は姉であるカティナが継ぐとはいえ、いずれ高位貴族に嫁すために、リディアも幼い頃から厳しい教育を受けてきた。そうして決まった嫁ぎ先は、アルダーノフ侯爵家だ。

10歳のときに顔合わせして問題ないと判断され、婚約が正式に決まってからも学びは欠かさなかった。

だから、領地の広さは爵位で、ある程度決まっていること。伯爵領ほどの領地がないと、警備も兼ねた騎士団が常駐しているわけではないこと。孤児院だけでなく、避難所としての修道院も。

領地周辺の情報含め、そういった知識があるのは当然だった。


ターナー男爵家が所有する領地は狭く、領主の裁量に任されている。基本は自領自治。

だとすれば、この領で訴えても無意味。むしろ有耶無耶にされかねない。連れ戻されでもしたら、どんな罰を受けるか。

暴力も辛いが食事抜きがまた堪える。ただでさえ、質も量も望めない食事だというのに、回数まで減らされては。空腹というものを、リディアは味わったことがなかったから尚更。自分は本当に恵まれていたのだなと実感した。


公正に調査してもらうためには、他の領まで行く必要があった。

リディアができることはそれだけだが、そのためにはまず体力を温存しなければならない。

この身体になって2週間もすると、与えられた仕事はおおよそ理解できたので、力の抜き加減も分かってくる。何事も全力でこなしていたのでは疲労が蓄積するばかりだから、余力を残すためにも要領よく立ち回った。


そして、皆が寝静まった深夜、リディアが解放されるのは元々そんな時間帯だったので、実行に移した。この屋敷に使用人の数が少ないこと、門番もいないのは好都合だった。

失敗は許されない。機会は1度だけ。

なるべく音を立てないよう、周囲を警戒しながら、男爵家の裏口から抜け出したのが3日前。


何とか侯爵領に辿り着いたときは、疲労困憊だった。何せ徒歩である。

人目を避けながら、周囲を警戒しながらで精神的にも疲れ切っていたので、詰所に着く前に、巡回中の騎士に拾われたのは幸運だった。

順を追って説明し、男爵家に捜査が入るまで騎士団で保護されていたのだが。


「君が”リディア”だね?」


面会希望と聞き、まさか男爵家の人間ではないだろうしと、首を傾げながら応接室に向かったリディアが目にしたのは、婚約者のライドだった。

『リディア』として最後に会ったのが、言うまでもなくこの身体になる前。

ここは侯爵領ではあるが、リディアの件は、領主の子息がわざわざ来るほどの事件というわけではない。

けれど、何故という疑問より先に、ライドの顔を見ただけで安堵して。たった数週間ほどなのに懐かしさに泣きそうになった。

男爵家で、蔑まれ怒鳴られ、牛馬のように働かされながら、ふとしたときに浮かぶ顔。

会いたくて、会いたくて、会えなかったひと。


「…お初にお目にかかります。リディアと申します」


しかし、今は『リディア』ではない。元の私ではない。

平民である今の私が、侯爵令息に少しでも親し気な態度をとることなど許されない。無礼打ちでその場で斬られても文句は言えないのだ。

それが、身分制度というもの。

すっと下がり、略式のカーテシーをすると、ライドは驚いた表情を見せる。


「君は……」


ああ、こんな姿、見せたくなかったな。別人という意味ではなく。

纏っているのは簡素なワンピース。靴はボロボロ。化粧もできず、飾りひとつなく、髪すら整えられていない。お洒落なんてできる環境ではなかったにしても。

彼には、できうる限り、綺麗な姿を見せていたかった。たとえ、今は違う姿であったとしても。

思わずじわりと涙が浮かんできそうなのを、何とか堪える。淑女たるもの、涙は簡単に見せるものではない。

それに、ライドにとって今の”リディア”は見知らぬ他人。そんな他人にいきなり泣かれても困らせるだけ。


「君は男爵家の庶子で、使用人よりひどい扱いをされていたと聞いている」

「…はい」

「最低限の教育すら、受けていないはずだ」

「……」


おそらくそうだろうが、断言できるほど”リディア”を知らない。独学で学べる環境になかったことは、確かであるが。

どう答えたものか迷っているリディアに、ライドの呟きが聞こえる。


「…やはりそうなのか」


? なにが?


「──ねえ()()()。どうして、そんなことになってるんだい?」


リリー。

『リディア』、私の、愛称。

弾かれたように顔を上げると、困惑した顔の優しい目が見ている。


「……なぜ…」

「ん? 何故分かったのかって?」


問われて、戸惑いながらこくりと頷く。

色彩が同じでも、外見に相似点はなく、面影すらない。まったくの別人なのに。


「分かるよ。あちらのリディアのこともあるけど、4年間、君を見てきたんだ。傍で、ずっとね。

 表情の作り方、仕草、カーテシーのときの間の取り方…」


不確定なことを安易に言わないところも、とライドは続けながら、近づいてくる。


「それに、僕はまだ名乗ってさえいなかったのに、君は礼をとった。貴族式のね」


リディアとの距離は縮まり、手を伸ばせば触れられる位置で止まった。


「君は、誰が何と言おうと、リディア=オースティだ。公爵令嬢として努力してきた、誇り高い女性。僕が見てきた、僕の好きな、たったひとりの」


そう言って、ライドはリディアの手を取り、口付ける。いつもの挨拶。そう、いつもの。


正直に言うと、誰も信じてくれないのではないかという、不安があった。

家族は信じてくれるかもしれない。でも他のみんなは? …ライドは?

リディアがどう言い募っても、この身体は『リディア』ではない。証明する術はない。詐称していると咎められても、仕方ないのだと。

誰が信じてくれる?

男爵家の庶子の中身が、公爵令嬢などと。

誰が信じられる?

同じ名前の人間の、中身だけ入れ替わったなどと。

願望だとか、妄想だとかで笑われる、もしくは最悪の場合、不敬罪で裁かれることも覚悟しなければならなかった。


ライドは、そんな私の不安など知るはずもないのに、まるで内心を読んだかのように。

何を言わなくても、私が『リディア』だと、信じてくれた。ほんの数分、話しただけで。

他の誰より信じてほしかったひとが。


それが、嬉しくて。

堪えていた涙が、今度こそ溢れてしまった。








ライドの一人称は、公式などは「私」ですが、私的には「僕」です。

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