4
ターナー男爵家がアルダーノフ侯爵領と隣接していたのは、偶然か必然か。
リディアにとって幸いだったのは、間違いない。
オースティ公爵家は姉であるカティナが継ぐとはいえ、いずれ高位貴族に嫁すために、リディアも幼い頃から厳しい教育を受けてきた。そうして決まった嫁ぎ先は、アルダーノフ侯爵家だ。
10歳のときに顔合わせして問題ないと判断され、婚約が正式に決まってからも学びは欠かさなかった。
だから、領地の広さは爵位で、ある程度決まっていること。伯爵領ほどの領地がないと、警備も兼ねた騎士団が常駐しているわけではないこと。孤児院だけでなく、避難所としての修道院も。
領地周辺の情報含め、そういった知識があるのは当然だった。
ターナー男爵家が所有する領地は狭く、領主の裁量に任されている。基本は自領自治。
だとすれば、この領で訴えても無意味。むしろ有耶無耶にされかねない。連れ戻されでもしたら、どんな罰を受けるか。
暴力も辛いが食事抜きがまた堪える。ただでさえ、質も量も望めない食事だというのに、回数まで減らされては。空腹というものを、リディアは味わったことがなかったから尚更。自分は本当に恵まれていたのだなと実感した。
公正に調査してもらうためには、他の領まで行く必要があった。
リディアができることはそれだけだが、そのためにはまず体力を温存しなければならない。
この身体になって2週間もすると、与えられた仕事はおおよそ理解できたので、力の抜き加減も分かってくる。何事も全力でこなしていたのでは疲労が蓄積するばかりだから、余力を残すためにも要領よく立ち回った。
そして、皆が寝静まった深夜、リディアが解放されるのは元々そんな時間帯だったので、実行に移した。この屋敷に使用人の数が少ないこと、門番もいないのは好都合だった。
失敗は許されない。機会は1度だけ。
なるべく音を立てないよう、周囲を警戒しながら、男爵家の裏口から抜け出したのが3日前。
何とか侯爵領に辿り着いたときは、疲労困憊だった。何せ徒歩である。
人目を避けながら、周囲を警戒しながらで精神的にも疲れ切っていたので、詰所に着く前に、巡回中の騎士に拾われたのは幸運だった。
順を追って説明し、男爵家に捜査が入るまで騎士団で保護されていたのだが。
「君が”リディア”だね?」
面会希望と聞き、まさか男爵家の人間ではないだろうしと、首を傾げながら応接室に向かったリディアが目にしたのは、婚約者のライドだった。
『リディア』として最後に会ったのが、言うまでもなくこの身体になる前。
ここは侯爵領ではあるが、リディアの件は、領主の子息がわざわざ来るほどの事件というわけではない。
けれど、何故という疑問より先に、ライドの顔を見ただけで安堵して。たった数週間ほどなのに懐かしさに泣きそうになった。
男爵家で、蔑まれ怒鳴られ、牛馬のように働かされながら、ふとしたときに浮かぶ顔。
会いたくて、会いたくて、会えなかったひと。
「…お初にお目にかかります。リディアと申します」
しかし、今は『リディア』ではない。元の私ではない。
平民である今の私が、侯爵令息に少しでも親し気な態度をとることなど許されない。無礼打ちでその場で斬られても文句は言えないのだ。
それが、身分制度というもの。
すっと下がり、略式のカーテシーをすると、ライドは驚いた表情を見せる。
「君は……」
ああ、こんな姿、見せたくなかったな。別人という意味ではなく。
纏っているのは簡素なワンピース。靴はボロボロ。化粧もできず、飾りひとつなく、髪すら整えられていない。お洒落なんてできる環境ではなかったにしても。
彼には、できうる限り、綺麗な姿を見せていたかった。たとえ、今は違う姿であったとしても。
思わずじわりと涙が浮かんできそうなのを、何とか堪える。淑女たるもの、涙は簡単に見せるものではない。
それに、ライドにとって今の”リディア”は見知らぬ他人。そんな他人にいきなり泣かれても困らせるだけ。
「君は男爵家の庶子で、使用人よりひどい扱いをされていたと聞いている」
「…はい」
「最低限の教育すら、受けていないはずだ」
「……」
おそらくそうだろうが、断言できるほど”リディア”を知らない。独学で学べる環境になかったことは、確かであるが。
どう答えたものか迷っているリディアに、ライドの呟きが聞こえる。
「…やはりそうなのか」
? なにが?
「──ねえリリー。どうして、そんなことになってるんだい?」
リリー。
『リディア』、私の、愛称。
弾かれたように顔を上げると、困惑した顔の優しい目が見ている。
「……なぜ…」
「ん? 何故分かったのかって?」
問われて、戸惑いながらこくりと頷く。
色彩が同じでも、外見に相似点はなく、面影すらない。まったくの別人なのに。
「分かるよ。あちらのリディアのこともあるけど、4年間、君を見てきたんだ。傍で、ずっとね。
表情の作り方、仕草、カーテシーのときの間の取り方…」
不確定なことを安易に言わないところも、とライドは続けながら、近づいてくる。
「それに、僕はまだ名乗ってさえいなかったのに、君は礼をとった。貴族式のね」
リディアとの距離は縮まり、手を伸ばせば触れられる位置で止まった。
「君は、誰が何と言おうと、リディア=オースティだ。公爵令嬢として努力してきた、誇り高い女性。僕が見てきた、僕の好きな、たったひとりの」
そう言って、ライドはリディアの手を取り、口付ける。いつもの挨拶。そう、いつもの。
正直に言うと、誰も信じてくれないのではないかという、不安があった。
家族は信じてくれるかもしれない。でも他のみんなは? …ライドは?
リディアがどう言い募っても、この身体は『リディア』ではない。証明する術はない。詐称していると咎められても、仕方ないのだと。
誰が信じてくれる?
男爵家の庶子の中身が、公爵令嬢などと。
誰が信じられる?
同じ名前の人間の、中身だけ入れ替わったなどと。
願望だとか、妄想だとかで笑われる、もしくは最悪の場合、不敬罪で裁かれることも覚悟しなければならなかった。
ライドは、そんな私の不安など知るはずもないのに、まるで内心を読んだかのように。
何を言わなくても、私が『リディア』だと、信じてくれた。ほんの数分、話しただけで。
他の誰より信じてほしかったひとが。
それが、嬉しくて。
堪えていた涙が、今度こそ溢れてしまった。
ライドの一人称は、公式などは「私」ですが、私的には「僕」です。




