14.巻きずしと悪意をほぐす
オレはその時、未だかつて経験したことの無い、理解不能な異常事態に直面していた。
な、なんだ、これは? 一体、何が起こっているんだ?
巻きずしの一つは結構でかい。でかくて嚙み切れない物体が、オレの口の中を占拠している。非常事態だ。
「お箸が刺さらない……?」
箸を使ってお上品に食べていたお姉さんが、驚きの声を上げた。
「え?」
お姉さんの巻きずしを美味しくいただいていた母親が、あわててかけちゃんの巻きずしを皿に取った。
「本当だ、刺さらない!」
かけちゃんを見ると、さっきと同じ眉間にしわを寄せた顔をして固まっていた。これは、つまりオレと同じ状況だ。今、気づいた。
「二人とも、お茶を飲んで! お茶でほぐすのよ!」
オレとかけちゃんの苦悶の表情に気づいたお姉さんが、お茶をすすめてくれた。
水分で海苔がふやけたことで、ご飯が解放されて少しほぐれた。咀嚼して飲み込めるものは飲み込んで、今、口の中に残っているのは円柱状の5つの花びらパーツだ。これがまた、固い。
でも、お茶のおかげで大分楽になった。お姉さんがお茶のおかわりも入れてくれた。優しいなあ。もし、ここにいたのが史也だったら、笑っていただけだな。
「男の子だから、力が強いのねえ。よく見るとご飯粒が無くなって、糊状になっているわ。だから、こんなにキッチリ綺麗に形ができていたのね」
母親がかけちゃんの巻きずしのパーツを分解しながら、へこんでいるかけちゃんに追い打ちをかけるような分析をしている。
「こんなに綺麗なんだから、巻きずしじゃなくて飾れるものだったら良かったのにね」
お姉さんのフォローが優しい。
「でもね、かけちゃん。失敗するのは良いことなのよ」
母親がいつもオレに言っていることを言い始めた。
「失敗してしまったときはがっかりするんだけど、その失敗は失敗した後のかけちゃんの宝になるの。今、力いっぱいきれいに海苔巻きを巻いたら、固くって食べるのが大変だったっていう初めての経験をしたでしょう? その経験を忘れないことが大事なの。その経験は、今後いろんな物事につながっていくわ。今日、かけちゃんはとても良い経験をしたのよ」
そう言われても、かけちゃんはいまいち釈然としない顔をしている。そりゃあ今現在、自分が失敗作に苦しめられている最中なのだから、そんなことを言われたところで素直に納得なんてできるわけがないのは良く分かる。できれば早く忘れたいと思うものだ。
「一番良くないのは、よく分かっていないのに上手くできてしまうことなの。その時は嬉しいけど、何でうまくできたのか分かっていないから、あとで大事な時に失敗したりするのよ。でも、先に失敗しておけば、そんな心配はいらないでしょ? 若いうちにどんどん失敗しておくといいわ」
かけちゃんが分かったような、分からないような複雑な顔をして、残りのパーツを咀嚼している。
「それに、こんなふつうではあり得ない経験なんて、後で良い笑い話になるわよ。史也君にも、明日話してあげるといいわ」
母親がそういうと、お姉さんがハッとした。
「そうね! 今ここにあいつはいないんだもの! 教えてやらなきゃ」
お姉さんが、まさにほくそ笑んでいる。
「こんなに面白い話、あいつ、悔しがるだろうな」
オレは、即座に反応した。
「お姉さん。そういうの、やめましょう」
「はい?」
お姉さんだけでなく、みんながきょとんとしてオレを見た。
「いや、何ていうか、そういう風に史也に対してすぐ、ザマアミロみたいなことを言うのって良くないと思うんで」
「えっ、だって、あいつは普段から得しているからいいでしょ?」
「いや、史也じゃなくて、お姉さんです」
オレは、水玉さんの言っていたことを頑張って思い出す。
「お姉さんがそういうふうに普段から考える癖がついている状態が良くないんです。そのままではお姉さんは将来、心の底にそういう他人に対して常にザマアミロと思う嫌な気持ちをたくさん抱えた、嫌な大人になってしまいます」
「はあ?」
何を言っているんだこいつは、という顔をしているお姉さん。
「お姉さんは、良い人なんですよ。史也が関わらなければ」
「あ、オレもそれは思った」
かけちゃんが同意してくれる。
「人のこと、すぐ褒めるし。いやむしろ、褒めてばっかりだし。初対面の時も確か、何か褒められましたよね?」
「え? そうだった?」
「ホラ、『よくこんな……』」
まで言って気がついた。『よくこんなのに、つきあってくれているね』と、頭をなでてくれたのは〈夢の中〉だった!
しまった、あんまり会っていない人だから、すっかり油断していた!
体中から、変な汗がドッと出る。
そうだよ、こっちの初対面では何も話さなかったではないか!
「あ、いや、えーと、ホラ! かけちゃんの! かけちゃんのクッキーを褒めていたでしょ? 『かわいいでしょ』って!」
「ああ、あれ?」
お姉さんが、褒めたことを思い出してくれた。よし、押し切れ!
「そうやって、人のことを素直に褒められる人って、絶対良い人でしょ? それなのに、一方では史也に対して悪意を溜め続けているなんて、せっかくの良い人成分がその分減ってしまうと思うと、もったいないです! って、思います!」
オレはガッツリ、押し切った。
「そうっスね、オレもお姉さんからそういう話は聞きたくないな」
かけちゃんも同意してくれる。よしよし。
「そういえば、お姉さんは自分が生まれた時に女だからがっかりされたっていう話は誰から聞いたんスか?」
「美帆たちよ」
「えっ……」
大きいお姉さん達かー!
そうか、現場をずっとすぐそばで見てきているわけだし、日常会話でそういうことが話題になるわけだ……まずいな、否定できる要素がない。
しかも、そうなると、小さい頃からそう言われ続けて育ってきたなら、お姉さんが可哀そうすぎるではないか!
オレが頭を抱えたところで、かけちゃんがサッと手を挙げた。
「オレ、思ったんスけど、ここだと日比野家と逆なんじゃないスか?」
「逆?」
皆で首を傾げる。
「オレ達3人むさ苦しい男の中に、お姉さんが1人っスよ!」
「ああ、なるほど!」
「まさに逆だ!」
言われてみればそうだ、皆で感心する。
「そういえば母上も、女の子がいると華やかで良いって言ってたよね」
「そうそう、やっぱり違うもの」
当のお姉さんは、ちょっと驚いた顔はしたものの、それほど嬉しそうという感じではない。
「えー、でも、そんなに特別な感じはしないんだけど」
という言葉に、かけちゃんが素早く反応した。
「いやいや、むちゃくちゃ特別っスよ! こんな綺麗なお姉さんがいるのといないのとじゃあ、全然違うし!」
「え? そ、そう?」
お姉さんが初めて嬉しそうに笑った。かけちゃん、グッジョブ!
「ホラ、お前も何か言えよ」
と、かけちゃんがオレを小突く。
オレはお姉さんに対してかけちゃんの様に思い入れが無かったので、何といえば良いのか分からなかったから、とりあえず、初対面の時に思ったことをそのまま言うことにした。
「えーと、オレは初めて見た時に、普通にテレビで歌って踊ってそうな感じの綺麗なお姉さんだと思いました」
「まあ、未知流くんたら!」
お姉さんが顔を真っ赤にしている。
「そう、アイドルみたいっス!」
かけちゃんにとっては、そのままアイドルなんだろうな。
「史也君もイケメンだけど、ふうちゃんはさらに可愛いわね」
母親はどっちもお気に入りだ。
「ええっ、私、家では出来損ないって言われているんで、そんな風にいわれると何か、恥ずかしいですう……」
嬉しそうなお姉さんが、ちょっと可愛い。
もしかして、お姉さんはふだん褒められることがないのかもしれない。お姉さんがいつも誰かを褒めているのは、自分が褒められたい裏返しなのか……?
「だから、お姉さんはここではオレたちのアイドルなんです! 特別な存在なんです!」
かけちゃんが、勝手にお姉さんをどんどん持ち上げてくれる。お姉さんも素直に嬉しそうだ。
「もしかして、出来損ないとか言ったのは史也ですか? そんなこと言っても、あいつ、姉弟の中で一番顔の造作が整っているのは風夏さんだって言ってましたよ」
オレが、史也からこっそり聞いていた話をお姉さんにバラしてみる。
「ナイショですけど」
「え?」
お姉さんが目を見開いて驚いた。
「でもそれを、お姉さんが自覚するのが面白くないとかなんとか言っていたから、あえてそういう言い方をしていたんじゃないかと思います」
史也はわりと性格がひねくれているのだ。
「だから、お姉さんはもっと自分に自信を持って、もう史也のことなんかどうでもいいと思って、相手にしなきゃいいんです。ここでは史也より、お姉さんの方が人気なんだから。史也が何か言ってても『下々の者が何か言っているな』と思って、放っておけば良いんですよ」
と、ちょっとそれっぽくまとめてみた。少なくとも、母親とかけちゃんに大人気なのは間違いないし。
お姉さんは下の方を向いて、何かを考え込んでいる。しばらく考え込んだ後、かけちゃんに向かって顔を上げた。
「ねえ、かけちゃんの巻きずしを一つ、あいつのお土産にしてもいい?」
「いいっスよ」
かけちゃんがホッとしたような顔をした。
「それを食べさせながら、さっきの2人のむちゃくちゃ苦しそうだった食べっぷりをあいつに教えてあげようと思うの」
「いいっスね!」
「オレたちと同じ目に合わせるわけっスね」
「それは良いわ」
お姉さんが分かってくれたことにホッとして、皆でほんわかした気分になった。
これでお姉さんが、これからはオレの苦手な史也を嫌う部分が無くなって、良いお姉さんになってくれると嬉しいなと思う。
そしてきっと今夜の史也は、ギュウギュウに固く巻かれたかけちゃんの巻きずしを食べながら、優しくなったお姉さんにかけちゃんの笑い話を教えてもらって、ほんわかと姉弟仲良くしてくれることだろう。などと考えて、勝手に幸せな気分に浸るのだった。
仲が良いのは、良いことである。




