11 シャーロット
シャーロットは叔母の話し相手をしたり教会で奉仕をしながら、病院においてはソシアルワーカーの仕事についた。生きて退院する人々はシャーロットから社会福祉制度について説明を受けて安心して社会に出てゆけた。死にゆく人々はシャーロットを聖母のようにあがめ、「大丈夫ですよ、神様はあなたの罪をお許しになるわ」となぐさめられ、安心して死出の旅へと出発できるのだ。
クリスティンはシャーロットが病院に来ることをいたく喜んだ。お互いに忙しくてなかなか顔を合わせることはなかったが、時々昼休みにベンチでサンドイッチを分け合いながら話した。クリスティンが何か心に重いしこりをかかえていることをシャーロットは見抜いていたが、本人が自主的に話すまで、気づかないふりをしていた。
しかしシャーロットはクリスティンの話を聞いたとき、「神様の許しがある」という話はできなかった。それくらい驚いたのだ。凌辱されて妊娠するという、おおよそ女の人生に起りうることの中で最悪の経験をしたことをなぐさめるのをすっかり忘れてしまうほどだった。クリスティンに命令して薬をすりかえさせた赤軍の将校。なんという歪んだ愛情だろう。シャーロットは会ったこともないアレクセイ・ジューコフ少将を恐ろしく思った。しかし同時にジューコフ少将に対して非常に興味がわき、ベルリンに行って二人の姿を見てみたいという思いにもかりたてられた。どんな顔をしてエリザベートはジューコフの隣に立っているのだろう。
「シャーロットさん」
庭のベンチに座っていると後ろから名前を呼ばれてシャーロットは驚いた。看護師に車椅子を押してもらいながら初老にも見える男が近づいてきた。この日もシャーロットはジューコフ少将のことを想像してぼんやりしていたのだ。
「まあ、フィッシャーさん。ごきげんよう。今日は少し涼しいですね」
シャーロットは笑顔を作った。外科病棟に入院しているギュンター・フィッシャーはまだ50にもならないのに、全身をむしばむ癌のせいで容貌が衰えてずっと年を取って見え、歩行も困難になっていた。
「今日は珍しく気分がいいんで、外に連れ出してもらいました。頭のほうもはっきりしてるし、あんたに話を聞いてもらいたくて探してたんだ」
ああ、また最期の告白か、とシャーロットは考えた。元軍人の告白などみんな同じだった。非戦闘員を殺しただとか、盗んだ、強姦したとかどうせそんなところだろう。この男は国防軍の伍長だったというから話なんて聞かなくてもわかるようだった。だいたい、罪を犯して後から謝って許されるなんてありえないのだ。そんなことがあるなら被害者はどうすればいいのだろう。
シャーロットはそんな心をおくびにも出さず、
「いいですよ。お話になって」
と微笑んだ。しかしフィッシャーの話は意外なものだった。
「隣人に対して偽証するのは罪だと十戒にも書いてあるけんど……わしは人から頼まれてある人が死んだと証言したことがあるんです」
「まあ……どうしてそんなことを?」
「その人の未亡人に夫の死を納得させるためだと聞きました」
「なんだかよく分からないんですけど……フィッシャーさん、もう少し具体的に話してくださいますか? 固有名詞などは秘密を守りますから」
フィッシャーは話はじめた。ミュンヘンで工場に勤めていたら徴兵されたこと、いきなりハンブルクへ送られたことなど。
「てっきりアメリカ軍を相手に戦うんだと思ってたら、SSのお偉方を何人かスイスまで送れっていう命令だったんですよ」
彼らは何台もの車に別れて四方八方へ逃げた。SS隊員はみな国防軍の制服に着替えていた。シャーロットは黙って聞いていたが、彼女の心の中にはある疑念がうずまき始めた。
「わしはSSのリヒテンベルク中尉付きということでした。ミュンヘンの近くまで来たところで米軍と鉢合わせして撃ちあいになり、山の中に逃げ込んだときも一緒でした。中尉は撃たれて死にました。中尉を埋めた後、わしは3日ほど山の中をさまよいましたが、そのうち米軍につかまって捕虜収容所へ入れられたんです」
ところが1946年3月、収容所内に「ベルリンの国家保安本部勤務のジークフリート・フォン・リヒテンラーデSS大佐の終戦前後について知っているものがあれば証言を求める」という告示が行われた。
「別の車だったけど、そういう名前の大佐がいたことは覚えてました。若いのに大佐なんてすごいなあって思ったし、きれいな金髪で男前だったもんでね」
彼のいた米軍の収容所までソ連軍の士官が来ていた。若い赤軍士官はフィッシャーの話を聞くとひどくがっかりした様子を見せた。
「じゃあリヒテンラーデ大佐とは米軍と鉢合わせした時までしか知らないんですね、死んだところは見てないんですか……」
赤軍士官は頭をかかえていた。
「つかまってないんですかい、リヒテンラーデ大佐は」
「見つからないからこうして探してるんですよ。うちの国の捕虜収容所はくまなく探したし、英軍からも仏軍からも回答はないんです。あなただけが希望だったのに……」
赤軍士官は頭を抱えて落ち込んだ様子をしていた。それを見るとフィッシャーは自分が何か悪いことをしたような気がした。やがて赤軍士官は部屋からどこかへ電話をかけた。そしてフィッシャーに言った。
「ベルリンまで同行して証言していただきます。手数料ははずみますよ。」
拒めるわけのない「命令」だった。そしてフィッシャーはベルリンへ連れていかれた。ソ連軍の司令部で「黒髪の背の高い将校」から入念な尋問をされ、頼みごとをされた。
「わしが看取って埋めたのをリヒテンベルク中尉ではなくてリヒテンラーデ大佐ってことにしろって言うんですよ。米軍と遭遇したところまで一緒だったのなら、大佐だって同じ運命をたどっていてもおかしくないからって」
シャーロットはかたずを飲んで聞いていた。
「どうしてそんなことをするんだってわしは聞きましただ。やつらはとにかくリヒテンラーデ大佐が死んだっていう証拠がほしいらしかった。ある人の前でその話をしてほしいって……」
「ある人って……」
「若い婦人が連れてこられました。黒髪の将校が後ろから抱きかかえるように支えてました。青い顔をしていておびえていたけれど、金髪にきれいな緑の瞳をしていました。ちょうどシャーロットさん、あなたのように」
リヒテンラーデ夫人だ、とシャーロットは確信した。
「大佐はRSHAのえらい人だったから赤軍のほうでも探して見つけ出して尋問でもしようっていうのなら分かりますだ。けんど、生きているかもしれないものを死んだことにするっていうのは、どう考えてもわしには納得いかねえ」
「彼らの目的はなんだったんでしょう……」
分かりきったことをシャーロットは口に出した。
「あの可哀想な若い未亡人に夫の死を納得させて、彼らに何か得なことでもあるんでしょうかねえ」
フィッシャーは咳き込み、看護師が彼の背をさすった。
「でもねえ、シャーロットさん。戦争が終わる前まであんなにたくさんいて、いばりくさってたSSの連中がすっかりいなくなってるんですよ。捕虜収容所だって国防軍ばかりだった。リヒテンラーデ大佐だって秘密のルートを使ってどこかに逃げるか隠れるかしてるんですよ」
フィッシャーが去った後もシャーロットはベンチに座っていた。フィッシャーの演じた茶番劇、脅かされて薬をすりかえたクリスティン。裏で手をひいていたのは「黒髪の背の高い赤軍将校」だった。彼の目的はただ一つ、リヒテンラーデ夫人を手に入れることなのだろう。子供を抱えて路頭に迷う女性に対し、戦勝国の将校が好意を抱き、「保護と食糧」の提供を申し出る。女はその礼として自らの貞操と家事奉仕を提供する。時間をかければ愛情がうまれてもおかしくはないだろう。だが、男の心には彼女を愛すれば愛するほど不安が高まったのだ。もし「夫」が生きて戻ってくれば彼女は確実に夫の元へ帰っていってしまうという不安だ。そこで彼は考えたのだ。絶対に女を放さなくて済む方法を。彼女がもう夫の元へ戻れなくなる方法を。自分との「正式な結婚」だ。もちろん彼女はすぐには承知しないだろう。そのために「夫の死」と「自分との間の子供」を作り上げた。
しかしシャーロットは、はたと考えた。もし本当にリヒテンラーデ大佐がどこかで生きていて手紙がくるとか、ひょっこり帰ってきたらどうなるのだろう。もちろん戦争犯罪人として裁判にかけられるだろうけど、死刑にはならないかもしれない。いや、あの赤軍将校なら手を回して死刑にしてしまうことくらいやってのけるだろう。いやいやそれ以前に大佐が夫人に連絡を取ろうものなら、当局が捕まえる前にいくらでも殺す方法はある。
彼らが見つけ出す前になんとしてでもリヒテンラーデ大佐を見つけたい、とシャーロットは考えた。彼女は今やっと22歳で大佐が独身だったころにはまだ子供だったため花嫁候補にはなれなかった。けれどずっと大佐に憧れ、見つめ続けてきたのだ。
シャーロットは教会に戻るとすぐに地下墓地の一角の秘密の扉から階段を下りて小さな小部屋に入った。机の上には彼女が先日から少しずつ整えた書類がたくさんあった。アルゼンチン政府が発行してくれた「白紙」のパスポート、SSの印刷所が終戦間際に作成した偽造身分証明書、米ドル、地図……いよいよ始まるんだわ、とシャーロットは武者震いをした。
「戦争中あんなにいばりくさった連中」とフィッシャーが評した人々の命綱を握っているのはいまや彼女であった。シャーロットは一覧表を手に取った。本名、SS隊員ナンバー、SS階級の横に新しい偽名と偽造旅券の国籍、ナンバーが記入してあった。本名欄を縦に見ていったがリヒテンラーデ大佐の名前はなかった。大佐はどこに潜伏しているのだろう。終戦間際に私たちの組織のことは聞いているだろう。私の所に来てくれたら、いくらでも便宜を図ってあげられるのに、と彼女は考えた。
足音がして、神父が姿を現した。
「シャーロット、こちらでしたか」
「神父様、準備はすべて整いましたわ」
「あなたの事務能力には感心いたします。いよいよこの秋、南米へ向けてこの方々を送り出します。イタリアまでつけばあちらの方がつきそってくださる手はずです」
「私の知っている方で、行方不明の方がいるんです。こちらにもその名前はなくて……どうしてらっしゃるんだろうと」
「それではその方は捕虜収容所に隠れていらっしゃるのかもしれません。すべての国防軍兵士は収容所で2年間労役につくことになっています。アメリカの戦犯追及の激しかったこの2年を世間で過ごすよりは……見方を変えれば捕虜収容所は最も安全な場所ですからね。」
神父はこともなげに言った。なるほど、とシャーロットは思った。いったん国防軍兵士と認定されれば、だれもSSとは疑わないだろう。
「もうすぐ『さる大物』が収容所から出てくるのでよしなに、という連絡がありました。これからもっと忙しくなりますよ」
神父はそういって出て行った。
「もっともうかりますよ、でしょうが」
シャーロットは小さな声で独り言を言った。こんな教会での奉仕なんてやめて自分も早く南米に行きたかった。そしてそこで第四帝国の建設に人生をささげるのだ。
「死んだ婚約者に人生をささげるなんてこと、私もおかしなことを言ったものだわ」
シャーロットはクリスティンに話した作り話をおかしく思った。シャーロットが勤労奉仕中に看取った兵士は山のようにいた。その多くは名前も顔も覚えていなかった。世界で最も優れた男はSSに入隊するものなのだから、私が国防軍の徴兵組になんて心惹かれるわけがないじゃないの……そう、恋をするならあのリヒテンラーデ大佐のような方がよかったのに。
「過去形で考える必要なんてないんだわ。リヒテンラーデ夫人は大佐を裏切って劣等民族のスラブ人の兵士の情婦になって子供まで作った娼婦のような女よ。大佐が夫人を許すわけがないわ。そうすれば……」
アメリカのCIAよりもロシアのアレクセイ・ジューコフよりも早くリヒテンラーデ大佐を見つけてみせる、とシャーロットは決心した。大佐を見つけたら、今度こそ絶対に離れないでおこう。自分と共に南米へ逃げて新しい生活をするよう大佐を説得するのだ。
クリスティンの元にベルリンのマルタから手紙が届き、ある折に彼女はその内容をシャーロットに話した。アレクセイ・ジューコフがライプチヒに転勤になったのでリヒテンラーデ夫人と子供たちも同行することになったということであった。
「じゃあ、大佐が戻ってきても連絡の取りようがないじゃない」
シャーロットの言葉にクリスティンは驚いた。
「え、だって大佐はもう亡くなっているって……」
クリスティンはシャーロットの青緑の瞳をまじまじと見た。なぜシャーロットが大佐の生存を信じているのだろう。妻であるエリザベートはとっくに諦めて他の男のもとにいるというのに。
「上の子供たちもジューコフ少将に懐いているんですって。あなたの言ったとおり少将はいい方みたいね。悪い人なら子供に好かれたりはしないでしょうよ」
しかしシャーロットは別のことを考えていた。エリザベートのことは気に入らないが、リヒテンラーデの残された子供たちはドイツアーリアンの優秀な血統なのだ。ロシア人の義父になど育てられたら、ドイツの魂が失われてしまうのではないだろうか。
「そのマルタって人の待っているエルヴィン・クルーゲという人の階級は知ってる?」
「さあ……ゲシュタポ勤務だったってことしか知らないけど、どうして?」
シャーロットは「別に」とだけ短く答えた。SS将校でまだつかまっていないなら、逃亡者リストに入れなければならないかもしれない。神父の言った「さる大物」のことも気になっていた。裁判に出ていなかった副首相のマルティン・ボルマンかゲシュタポ長官のハインリッヒ・ミュラーだろうと彼女は考えていた。彼らはまだつかまっておらず、遺体も発見されないので行方不明のままなのだ。ボルマンに至っては、欠席のまま裁判が行われ、有罪判決まで下りていた。
「きっと大佐は私のところに来て下さる」
シャーロットは心の中でそう叫び、大きく深呼吸した。大佐はミュンヘンまで来ていたのだ。だったら米軍の捕虜になっているはずだ。そこから一番近い残党組織はこの教会なのだから。
戦争が終わって2年。この夏、捕虜の解放は目前に迫っていた。
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