Ep 3:甘いマカロンと、猛禽のシステムダウン
1.この国大丈夫か?
「……はぁ。存在自体が国家の損失だな」
王宮の重厚な大門をくぐり抜け、夕暮れ時の大通りへと足を踏み出した瞬間、俺――アルは小さくため息を漏らした。
冷徹極まりない「社交界の猛禽」としてのポーカーフェイスを維持してはいるが、その内側は呆れと疲労で満ちていた。
先ほどの御御前会議。
あの古参の重臣たちの、あまりのレベルの低さは一体なんだ。
少し複雑な帳簿を提示しただけで、顔を真っ赤にして感情論で喚き散らし、終いには枕元の秘密を暴かれてあっさりと自滅した。
(この国大丈夫か? あんな、少し揺さぶっただけで尻尾を出す無能どもが、今まで国家の上層部にのさばっていたとは……)
前世の伝説的コンサルタントとしての視点から言わせてもらえば、組織のガバナンス(統治機構)が崩壊している。監査も入らないぬるま湯で、ただ前例主義という名のお昼寝を貪っていただけの不良債権(無能重臣)たちだ。
「まあ……無能な既存経営陣こそ、外部コンサルタントにとっては格好の顧客だがな」
俺は上着の内ポケットに忍ばせた、ずっしりと重い革袋に手を触れた。
先ほど、王宮を後にする直前に、宰相から「非公式のコンサルティング報酬」として手渡されたものだ。中には、ずっしりとした手応えの最高級金貨が詰まっている。
公にできない裏タスク(重臣排除)の口止め料も含めて、かなり色を乗せてくれたらしい。
「現経営者(陛下)と共同経営者(宰相)からの特別報酬だ。有効活用させてもらおう」
俺は薄く微笑み、王都で最も華やかで、最も格式高い大通りへと優雅に歩みを進めた。
2.猛禽の真剣すぎるマイルール
俺が向かったのは、王都の貴婦人や令嬢たちが連日行列を作る、超一流の洋菓子店だった。
白を基調とした洗練された店内には、宝石のように美しい色とりどりの菓子が並んでいる。
「いらっしゃいませ。……あ、あら……!」
店内に足を踏み入れた瞬間、応対に出た若い女性店員の息が止まった。
白銀の髪に、神秘的なアメジストの瞳。仕立ての良い黒い上着をまとい、息を呑むような美貌を持つ俺の姿に、店員は一瞬で顔を赤く染め、完全に魂を奪われたように立ち尽くした。
そんな周囲の視線など、今の俺のロジカル脳には一切入ってこない。
俺はショーケースの前に立ち、ガラスの向こうに整然と並ぶ「マカロン」の山を、恐ろしいほどの熱量で凝視していた。
(……ピスタチオか、フランボワーズか、あるいは定番のショコラか。いや、柑橘系のシトロンも捨てがたい)
俺は眉間に美しい皺を寄せ、腕を組んで、国家予算の策定時よりも真剣な表情でマカロンを睨みつける。
実は、俺は前世の過労死寸前の記憶の影響から、重度の「甘党」だった。極限まで摩耗した脳の糖分を補給するために、高級なマカロンを摂取することは、俺のライフプランにおける不可欠なルーティンなのだ。
(色のバランス。そして糖度の配分。今夜のリラックスタイムに対する投資対効果を最大化する最適な組み合わせはどれだ……?)
アメジストの瞳を鋭く輝かせ、獲物を値踏みするように美しくも厳しい表情でマカロンを選ぶ美貌の貴族。
そんな俺の姿を見て、店員は勝手に胸をときめかせていた。
(まあ……なんて美しいお方……。これほど真剣なご様子でマカロンを吟味されるなんて。一体、どこの愛らしくて特別な御令嬢に贈られるのかしら? きっと、心から愛されている幸せなご令嬢に違いないわ……!)
店員の完璧な邪推など知る由もない。
「……よし。ピスタチオを二つ、フランボワーズを二つ、ショコラを二つ。この組み合わせでいこう」
俺は店員に向かって、完璧なウインクを添えて告げた。
「この組み合わせで。急ぎですので、迅速な包装をお願いします」
「は、はい! ただいまお包みいたしますわ、閣下……!」
店員は熱い吐息を漏らしながら、震える手でマカロンを丁寧に箱に詰め、リボンを結んだ。
俺は宰相からもらった金貨から、端数の釣り銭を「これで新しい茶葉でも買いなさい」と残し、美しい箱を手に颯爽と店を後にした。
どこの令嬢に持っていくのかって?
決まっている。世界で唯一、俺が無条件に甘えられる、我が家の最高経営責任者の元へだ。
3.聖域(実家)への帰巣
下町の片隅。
王宮の喧騒や、社交界の偽りに満ちた華やかさとは完全に隔離された、小さな、しかし手入れの行き届いた邸宅。
それが俺と母マリアの「安全基地」だった。
「ただいま、母さん」
ドアを開け、一歩足を踏み入れた瞬間。
社交界を怯えさせ、王宮の重臣たちを死に追いやった、冷酷な「猛禽」の仮面が音を立てて剥がれ落ちた。
俺の瞳から鋭さが消え、トロンとした、まるで帰巣した子犬のような光が宿る。
「おかえりなさい、アル。今日も偉い人たちとお仕事、お疲れ様」
キッチンの奥から、エプロンをつけたマリアがおっとりとした笑顔で姿を現した。
彼女のその柔らかい温もりに触れた瞬間、俺の脳内に残っていたわずかな警戒心が完全に融解していく。
俺は速攻で高級な外套を脱ぎ捨て、着古した、手触りの良い綿の部屋着(マリアが何度も繕ってくれたものだ)に着替えた。
そして、リビングのテーブルの上に、先ほど購入したマカロンの箱をそっと置いた。
「これ、母さんにお土産。王都で一番有名な菓子屋で買ってきたんだ」
「まあ、綺麗……! カラフルで、まるでおもちゃの宝石みたいね。ありがとう、アル。私のために、そんなに一生懸命選んでくれたのね」
マリアが嬉しそうに目を細める。
「……あ、あぁ。母さんが喜ぶと思って、一番効率の良い組み合わせを選んだんだよ」
本当は、自分がどうしても食べたかったから買ったなどとは、この聖母の前では口が裂けても言えない。だが、半分は本当だ。マリアの喜ぶ顔が見たかった。
マリアが淹れてくれた温かいカモミールティーと共に、マカロンを口に運ぶ。
サクッとした食感の後に、濃厚なピスタチオのクリームが口いっぱいに広がり、脳の疲れが一気に吹き飛んでいく。
「……美味しい。やっぱり、母さんと食べるお菓子が世界一だ……」
「ふふ、良かったわねえ。よしよし」
マリアはソファに腰掛け、自分の膝をぽんぽんと叩いた。
俺は待ってましたとばかりに、その柔らかい膝の上へと、コテン、と頭を乗せた。
4.システムダウンと、チェリーボーイのバグ
マリアの膝の上に頭を乗せ、サラサラとした白銀の髪に彼女の優しい指先が滑り込む。
この瞬間だけが、俺の、前世で裏切られ謀殺された魂が完全に救われる時間だった。
「……母さん、今日の王宮は本当にひどかったよ」
俺は目を閉じ、膝に顔をすり寄せながら、外では絶対に漏らさない弱音をぽつりとこぼした。
「まともに数字も読めないくせに、声だけは大きいおじさんたちがたくさんいてさ。僕の脳のメモリが、今日だけで八十%は摩耗した。母さんの顔を見なかったら、今頃ストレスで王国を丸ごと破綻させて、全員まとめて鉱山に売却しているところだったよ……」
「あらあら、大変だったのねえ。アルは優しくて優秀だから、みんな頼りにしちゃうのね。いい子、いい子」
よしよし、と優しいリズムで髪を撫でてくれる母。
俺は喉を鳴らす猫のように目を細め、完全にシステムダウン(リラックス)していた。
前世、信頼していたパートナーに裏切られ、毒入りの琥珀色のグラスを渡されたあの深夜。冷たいオフィスビルで独り死んでいった俺に、この温もりは得られなかった。
だからこそ、この聖域だけは、誰にも渡さない。俺を無条件で愛してくれる母だけは、この命にかえても守り抜く。
だが、そんな穏やかな聖域に、マリアの「おっとりとした天然攻撃」が炸裂した。
「ねえ、アル。マカロンを買いにいったとき、お店の人に『どこの御令嬢に贈るのかしら』って、羨ましがられたんじゃない?」
「え……?」
俺は膝の上でピクリと身体を揺らし、目を開けた。
「だって、アルは社交界で、毎日たくさんのお嬢様やマダムたちと『甘い逢瀬』を繰り返しているのでしょう? 街でも、アルに口説かれた女性たちがみんな頬を赤くして、貴方に夢中だって噂よ」
「なっ……!?」
一瞬にして、俺の脳内に「システム警告:想定外の重大なエラー」が赤文字で点滅した。
社交界では、耳元で愛を囁き、手の甲に深く熱いキスを落とし、マダムたちの理性を完璧に狂わせて情報を吸い上げている。
だが、それはすべて「ビジネス」であり、「市場調査」だ。
本当のところ、俺は前世の仕事人間時代も含めて、これまで女性と「本気の恋愛」をした経験など一秒たりともない。一線を越えるどころか、女性の柔らかな肌に触れることすら、母マリア以外には完全に免疫がないのだ。
要するに、俺の恋愛ステータスは――混じり気なしの、純度百パーセントのチェリーボーイ(童貞)だった。
「そ、それは……! 違うよ母さん! あれは、顧客満足度の最大化と、非公式情報網のパイプライン構築のための、純粋なマーケティング活動であって、け、決してプライベートな情動(恋愛)ではないんだ!」
「あらあら、アルったら。またそんな難しい言葉を使って、耳まで真っ赤にして」
マリアがおかしそうにくすくすと笑い、俺の赤くなった耳朶をやさしくつねった。
「そ、そうじゃないんだ! 私は社交界を支配する、冷徹で鋭い嘴を持つ猛禽で……特定の女性と婚姻契約を結ぶことは、既存のバランスシートを崩壊させるリスクがあって、つまり、あわ、あわわわ……!」
完全にロジックがバグり、俺はソファのクッションに顔をぎゅっと埋めて悶絶した。
社交界の猛禽、王宮の掃除屋、伝説のコンサル。
数々の異名を持つ男が、ただ一言の「女の子との噂話」で、耳まで真っ赤にして知恵熱を出すほどにフリーズしている。
「ふふ、まだ可愛いおこちゃまね。よしよし」
クッション越しに背中を優しく叩かれながら、俺は心の中で「このギャップ(脆弱性)だけは、絶対に王宮のやつらには見せられない……」と、真っ赤な顔のまま固く誓うのだった。
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