零度の再会。……聖女はただ、静かに怯える
凍りついた廊下。
魔族ヴァルガスの肉体は爆発の寸前で静止し、サキュバス・ルナリスはフェリクスの放った「絶望の数式」にその身を縛られ、身動き一つ取れない。
そして、守護者たるフェリクス、ミリー、テオの三人もまた、限界を超えた魔力の代償により、その場に力なく倒れ伏していた。
静寂が支配する戦場。
その中心にある寝室の扉が、ゆっくりと開いた。
「……あら? ……何ですの、この騒ぎは……?」
現れたのは、リリアーナ・ベルシュタインだった。
銀髪を乱し、眠たげな目を擦りながら現れた彼女は、かつての「筋肉への狂気」を完全に失った、純度100%の、どこにでもいる(ただし絶世の)可憐な令嬢。
彼女の瞳には、フェリクスの背後に立つ「45歳の化学者の幻影」など見えていない。
見えているのは、ただ一つ。
「……ひっ……! な、なんですの、その……その、血管の浮き出た、赤黒い……岩のような、恐ろしい肉の塊は……っ!!」
リリアーナは、凍りついたまま膨張しているヴァルガスの姿を見て、顔を真っ青にして震え上がった。
「……リ、リリアーナ様……。お逃げ……ください……。……こいつらは……私が……っ」
床に這いつくばったまま、フェリクスが血反吐を吐きながら声を絞り出す。
彼は今、リリアーナの深淵と同期し、精神が崩壊する一歩手前だ。彼はこの美少女を守るために、己のすべてを差し出した。
しかし、今のリリアーナに、その献身は届かない。
「……フェリクス様! 貴方も、ミリーもテオも、……こんな不気味なものに囲まれて、一体何を遊んでいらっしゃるの!? ……怖い、怖いですわ! 筋肉……筋肉の化け物が、あんなに大きく……!!」
リリアーナは涙を浮かべ、寝室にあった高価な花瓶を、反射的にヴァルガスの「凍りついた急所」へと投げつけた。
「……来ないで! 近寄らないでくださいまし、この……タンパク質の暴力!!」
ガシャァァァン!!
フェリクスが緻密な計算と命を懸けた魔力で「封印」していたヴァルガスの均衡が、リリアーナが放った「物理的な花瓶」という、あまりにもマヌケな外圧によって、呆気なく崩壊した。
凍結していた魔力が、変な方向へ霧散する。
「……ガ、……ハッ……!?」
ヴァルガスは、致命的な一撃を受けたわけでもないのに、リリアーナの「心底嫌そうな拒絶」の波動と、花瓶の破片が刺さったショックで、魔力の制御を失い、霧のように消滅し始めた。
「……え? ……あら? ……消えましたわ?」
リリアーナは、キョトンとして首を傾げる。
「(……バカな……。私の……私の命を懸けた『終焉の数式』を、……花瓶(物理)一つで……無効化しただと……!?)」
フェリクスは、そのあまりにも理不尽な「結末」に、絶望を超えた虚脱感に襲われた。
自分が命を懸けて向き合っていたのは、一体何だったのか。
リリアーナは、倒れているフェリクスに駆け寄ることもなく、ただスカートの裾を握りしめ、半泣きで訴えた。
「……フェリクス様。……もう嫌ですわ。……お庭のひまわりはマッチョになるし、廊下には肉の塊が落ちているし。……私、もう……、普通の女の子に戻りたいですわ……っ!!」
シリアスな戦場に、リリアーナの「普通のわがまま」が響き渡る。
命懸けで戦った者たちの努力は、彼女の「筋肉嫌悪」という圧倒的な無関心によって、すべてがコントへと塗り替えられてしまった。




