フェリクスの再教育。……猛毒よりも、薔薇の香りがお似合いですわ
「……計算外だ。これほどまでに『令嬢プロトコル』が強固だとは……!」
フェリクスはベルシュタイン邸の地下実験室で、髪を掻きむしっていた。
彼の前には、以前のリリアーナなら狂喜乱舞したであろう、最高級の実験器具と、禁忌の劇物、そして「筋肉合成用触媒」が並んでいる。
しかし、そこに立つリリアーナは、フリルたっぷりのエプロンを締め、困惑したように小首を傾げていた。
「フェリクス様。こんな物騒な薬品ではなく、お庭の薔薇を蒸留して、素敵な香水を作りましょう? ……お兄様や殿下も、きっと喜んでくださるわ」
「……リリアーナ様。貴女は以前、その薔薇の棘を見て『……ふにゃ、この鋭利な先端に超回復ポーションを塗って兄様に刺せば、歩く自動筋肥大機になりますわ』と宣ったのですよ!? 思い出してください、あのドス黒い情熱を!」
「……まぁ。……私、そんな野蛮なことを? ……フェリクス様、冗談が過ぎますわ。おーほっほっほ」
上品に口元を隠して笑うリリアーナ。
フェリクスは戦慄した。彼女は単に記憶を失ったのではない。「45歳の化学者の魂」が、あまりに完璧な「15歳の侯爵令嬢」というガワに、完全にハッキングされ、システムダウンしているのだ。
「(……いけない。このままでは、彼女の非凡な知識が失われる。それは学術界にとっても、私の知的好奇心にとっても……国家的な損失だ!)」
焦ったフェリクスは、最後の手段に出る。
「……これならどうだ! 貴女の『前世』が化学者なら、この化学式の不備を見過ごせるはずがない!」
彼は黒板に、リリアーナがかつて考案した『強制肥大ゼリー』の、意図的な**「計算ミス」**を含んだ数式を書きなぐった。
Muscle_Synthesis = Amino_Acid + Magic_Catalyst / (Sister_Love - 0)
「……どうです? この式では『愛』がゼロになればエラーが発生し、筋繊維は崩壊する! これを見て、貴女の理系回路が黙っていられるはずがない!」
リリアーナはその式をじっと見つめた。
一瞬、彼女の瞳の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
フェリクスは勝利を確信し、唾を飲み込む。
しかし、リリアーナから出た言葉は、彼の予想を遥か斜め下に突き抜けていた。
「……あら。……ハートの形に見えなくもありませんわね。……この部分にリボンを描いたら、もっと可愛くなりますわよ?」
「……リボンだと……っ!?」
フェリクスは膝から崩れ落ちた。
数式を「論理」ではなく「図形」として、しかも「可愛いかどうか」で判定する。それは化学者としての死、あるいは完全なる敗北を意味していた。
一方で、廊下で聞き耳を立てていたカシアンとお兄様は、複雑な表情を浮かべていた。
「……なあ、殿下。リリアーナが普通に可愛くなっちまって、俺は嬉しいはずなんだが……」
「……ああ。……胸の奥(大胸筋の裏側)が、ポッカリと穴が空いたような気分だ。……僕は……僕はあの『ふにゃにゃにゃ』と笑いながら僕の筋肉を解剖しようとする、あの不気味な彼女に、……恋をしていたのだろうか……」
彼らはまだ、中身がおっさん化学者であるという事実を、完全に咀嚼できていない。
しかし、「筋肉を愛さないリリアーナ」という存在が、これほどまでに自分たちの心を削るのだという事実に、ようやく直面し始めていた。
「(……殿下。……俺は決めたぞ。リリアーナが『おっさん』だろうが、化け物だろうが……あいつのあの、狂ったような笑顔を……もう一度見たい。……例え、俺の体が実験台になろうともな!)」
お兄様の瞳に、ある種の「覚悟」が宿った。
それは、家族愛を超えた、……「信仰」に近い何かへと進化しようとしていた。




