第7話 泣きたい時は泣いた方がいい
女を連れて、隠し通路を戻る前に、俺はひとつ試してみた。
自分の胸を指差す。
「ガル」
女は俺の顔をじっと見ていた。
「ガル」
もう一度繰り返す。
女の赤い瞳が、俺の口元に向いた。
「……人間……、ガル……」
俺と同じ発音で、俺の名前を呟いた。
「そうそう!俺はガル!」
思わず前のめりになった。
女はグローの方を見る。
「……鉱矮人……」
「そうそう!こいつは鉱矮人!」
「グローだ」
「グロー……?」
「そう、グローだ」
「鉱矮人、グロー」
名前を覚えた。
片言だが、俺達の言葉を真似している。
「頭がいいな」
「当たり前だ!古代耳長人だぞ!その知性の高さは今の耳長人すら遥かに凌ぐ!」
俺は女を指差し、身振りで「あんたの名前は?」と問いかける。
女の表情が少し曇った。
名前が分からないのか、それとも思い出せないのか。
しばらく沈黙した後、女はふと自分の胸元に目を落とした。
そこには、美しく輝く銀色の小さなアミュレットがあった。
女はそれをゆっくりと手に取り、眺める。
「エルウィン……」
俺とグローが黙って待つ。
「俺……は……、エルウィン……」
思い出したというより、今この瞬間に自分で付けたような言い方だった。
長い眠りで記憶をなくしたのか、アミュレットに刻まれた名前を自分のものにしたのか、俺には分からない。
どちらにしても、今この女はエルウィンだ。
「エルウィンか。よろしくな」
女——エルウィンは小さく頷いた。
そのタイミングで、腹の虫が鳴った。
「腹の虫か?」
「俺じゃないぞ?」
エルウィンの顔を見ると、尖った耳まで真っ赤に染まっていた。
「1000年も寝てたらそりゃ腹も減るだろ!」
「うむ、腸詰がまだある。飯にするかの」
「血生臭い礼拝堂で食うのもあれだし、外に出るか」
「そうだの。日差しも浴びたいだろうしな」
女を連れて、隠し通路を通り、礼拝堂へ向かう。
「グロー、礼拝堂の死体、片付けてないけど大丈夫か?」
「うーん、分からん。しかし、武器が置いてあったという事は、この耳長人も戦えるのであろう?」
「まぁ、そうかもしれんが……」
礼拝堂に戻ると、相変わらず血の匂いが充満していた。
エルウィンの方を見ると、特に表情も変えずに歩いている。
ふと、エルウィンが足を止めた。
近くに転がっていた矮鬼の死体に近付き、中腰になってそれを見下ろす。
一匹を観察し終えた後、すっと立ち上がり、礼拝堂を見回した。
そして俺とグローに向き直り、軽く膝を曲げながら頭を下げる。
その所作の美しさに、思わず見入ってしまった。
「◎◆%〇$……」
聞き取れない言語だ。
しかしその所作から、礼を言われているのは分かる。
「仕事のついでだ、お礼を言われるほどの事じゃねーよ」
「なぁに照れとるんだ」
「うるせ。さっさと外に出るぞ」
†
外に出ると、太陽がかなり高い位置に上っていた。
神殿の外は鬱蒼とした森に囲まれていた。
かつてここに街があったのだろうが、今は木々と草むらしかない。
石造りの建物の跡らしきものが、苔に覆われて点在しているだけだ。
俺は焚き火の準備を始め、グローが水を汲みに行った。
腸詰は一度煮てから焼くのが旨い。
鍋を吊るして、腸詰を取り出した。
その瞬間、エルウィンが俺を押しのけた。
「うわっ」
手から腸詰が飛んだ。
放物線を描いた腸詰は、矮鬼の血で黒ずんだ地面に落ちた。
「……」
俺は落ちた腸詰を見つめた。
「……もったいな」
俺は腸詰を拾い上げ、手のひらで汚れをはたいて落とした。
スラム育ちには、食い物を捨てるという選択肢がない。
エルウィンは数歩前に出て、立ち尽くした。
その視線がゆっくりと周囲を巡っていく。
森を見る。苔に覆われた石の残骸を見る。何もない地平を見る。
エルウィンの肩が、小刻みに震え始めた。
そして声を上げながら、膝から崩れ落ちた。
「……そうか」
グローがポツリと呟いた。
「恐らく、自分が1000年以上眠っていたとまだ分かっていなかったんだ。街は当の昔に滅んでおる。それがエルウィンにとっては、今この瞬間に知らされた事実だ……」
俺は黙って、泣き崩れているエルウィンの隣にしゃがんだ。
背中にそっと手を当てる。
何も言えなかった。言葉も通じないし、気の利いた事も思い浮かばない。
故郷を失った悲しみが、どんなものかは俺には分からない。
しかし、大切なものを奪われる辛さなら、少しは分かる。
グローも黙ったまま、傍に立っている。
俺達は、エルウィンが泣き止むのを静かに待った。




