新たなる一歩
王都。
冒険者ギルドの朝は、今日も騒がしかった。
依頼を探す冒険者たちが掲示板の前に集まり、受付では手続きや報告をする声が飛び交っている。そんな中、マドカとリゼットはいつものように受付カウンターの前に立っていた。
「……やっぱり、もう少し頑張ってもらった方がいいと思うんですよね」
受付嬢が困ったように二人を見る。
「何を?」
「ランクです」
「面倒くさい」
マドカは即答した。
「即答しないでくださいよ!」
受付嬢が思わず声を上げる。
二人の実力を知っている彼女からすれば、今のランクはどう考えても釣り合っていなかった。普通ならもっと上のランクにいてもおかしくない。むしろ、今まで低いランクのままでいたことの方がおかしいくらいだ。
「でも、上げても面倒な依頼が増えるんでしょ?」
「それは……まあ、そういう依頼もありますけど」
「じゃあ今のままでいいよ」
「よくありません!」
そんなやり取りをしている二人の姿を、少し離れた場所から眺めている冒険者たちがいた。
「なあ、あの二人って何者なんだ?」
「さあ……でも、受付嬢があんなにランクを上げろって言うくらいだから、相当なんじゃないか?」
本人たちはまるで気にしていない。
その頃、ギルドの入口から一人の少女が入ってきた。
少女は、周囲の冒険者たちとは明らかに雰囲気が違っていた。
きちんと整えられた髪に、上質な服。立ち姿にもどこか育ちの良さが滲んでいる。けれど、その服には少し汚れがついていて、持っている荷物も驚くほど少なかった。
少女は受付へ向かうと、静かに口を開いた。
「冒険者登録をしたいのですが」
「はい。もちろんです」
受付嬢が笑顔で応じる。
「お名前をお願いします」
「アリシア・フォン・――」
そこまで言って、少女は言葉を止めた。
一瞬だけ視線を落とし、それから小さく息を吐く。
「……すみません。アリシア、と呼んでください」
「わかりました。では、アリシアさんですね」
受付嬢は、それ以上何も聞かなかった。
「職業はどうしますか?」
「ありません」
迷いのない返事だった。
「……ありません?」
「はい。今は」
少女――アリシアは、まっすぐ受付嬢を見る。
「今日から、自分の力で生きていきたいんです」
その言葉には、強がりだけではない決意があった。
受付嬢は少しだけ驚いた顔をしたものの、すぐにいつもの仕事へ戻る。
「では、冒険者として登録しますね。こちらに必要事項を――」
手続きを終えると、アリシアはギルドの隅にある椅子へ向かった。
そこに腰を下ろした途端、身体から力が抜ける。
周囲では冒険者たちが楽しそうに話していた。
今日の依頼は何にするか。どこへ行くか。昨日の討伐は大変だった――そんな会話が聞こえてくる。
アリシアは、その一つ一つをぼんやりと聞いていた。
昨日までなら、こんな場所に自分がいるなんて考えもしなかっただろう。
食事も、服も、住む場所も。
必要なものは、誰かが用意してくれていた。
自分で稼ぐ必要なんてなかった。
けれど、それはもう過去の話だ。
昨日、自分は家を失った。
名前も、立場も、財産も。
今まで当たり前だったものが、一度に全部なくなった。
「……っ」
気がつけば、頬を涙が伝っていた。
慌てて袖で拭う。
「泣いてるの?」
「えっ?」
突然声をかけられ、アリシアは顔を上げた。
そこにはマドカが立っていた。
その隣にはリゼットもいる。
「……すみません」
「なんで謝るの?」
「いえ、その……」
アリシアは慌てて涙を拭った。
「泣くくらい、いいんじゃない?」
「でも……」
「今までと全然違う生活になるんでしょ?」
マドカは、アリシアの隣に座った。
「だったら、泣きたくなるのも普通だよ」
あまりにもあっさり言われて、アリシアは少し戸惑う。
「……お二人は、冒険者なんですよね?」
「そうだよ」
「強いんですか?」
マドカは少し考えた。
「私は普通かな」
隣でリゼットが呆れたような顔をする。
「その答えはどうかと思うわ」
「じゃあ、リゼットちゃんが答えて」
「私たちより強い冒険者は、この国でもそう多くないと思うわよ」
「……え?」
アリシアは目を丸くした。
マドカを見る。
どう見ても、自分とそれほど歳が離れているようには見えない。
「そんなに……?」
「まあ、そうらしいよ」
マドカは他人事のように答えた。
その様子がおかしくて、アリシアの口元がほんの少し緩む。
昨日から初めて、自然に笑えた気がした。
「……私、家を追い出されたんです」
しばらくして、アリシアがぽつりと言った。
「そうなんだ」
マドカはそれだけだった。
理由を聞かない。
何があったのかも聞かない。
それが、今のアリシアにはありがたかった。
「だから、冒険者になろうと思いました。自分で働いて、自分で生活して……ちゃんと、自分の力で生きていきたいんです」
「うん。いいんじゃない?」
「……簡単に言いますね」
「だって、冒険者なら新しく始められるでしょ?」
マドカは笑った。
「今からの方が長いじゃん」
「……今からの方が」
「過去のことは変えられないけど、これからは変えられるよ」
その言葉を聞いて、アリシアはしばらく黙っていた。
胸の奥に溜まっていたものが、ほんの少しだけ軽くなった気がする。
「……ありがとうございます」
「うん」
マドカは立ち上がった。
「じゃあ、またね」
「はい」
アリシアも小さく頭を下げた。
二人が離れていくのを見送ったあと、アリシアはもう一度、自分の手を見つめる。
何も持っていない。
頼れる家もない。
以前のような生活に戻ることも、もうできない。
それでも――。
「……やってみよう」
アリシアは、そう呟いた。
昨日までの自分ではなく。
今日からの自分として。
ここから、始めてみようと思った。




