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辺獄の王  作者: 笑う閑古鳥
序章
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2/12

1 誕生

 これは夢だ。そうに違いない。

 そう思い込むことはありがちな現実逃避の方法だ。

 彼も例に漏れず、これを夢かなにかと思い込むことで現実から逃避した。



  怪物だ。俺は怪物になった。

  きっと悪い夢だ。


 

 しかし耳に届く木々のざわめきはあまりにも現実的で。むしろ以前までに聞いたどんな音よりも正確な音だった。遥か遠いだろう、獣の足音、水のせせらぎすらも耳を震わせる。いや、耳など無いがなぜか聞こえるのだ。

 ないと言えば、目もないはずであるのに、視界は随分遠くまで見えるほど鮮明だ。逆に目がないのに見えているからか、まばたきが出来ない。



  クソ。何も見たくない。見えるな!!



 彼がそう思うと、フッと視界に闇の帳が降りた。

 一瞬、目が覚めたのかと思ったが、聴覚は変わっていない。本当に何も見えなくなったのだ。



  なんだ?何が起きてる。



 彼が視界を気にすると、再び世界が戻ってきた。同じことを数度繰り返しているうちに、彼は気付いたように1枚の木の葉に意識を向けた。



  あれが欲しい。こっちへこい!!



 彼がそう心で叫ぶと、木の葉がちぎれ、直線を成して手元へ飛んできた。明らかに偶然ここへ飛んできたのではない。



  そういえば、手も届かないはずの魚もとれた。

  なんだ、この力は。まるで…



 まるで魔法のようだ、と彼は心中で零した。

 そしてハッとした。

 見るからに悪魔のような姿である自分は、ある種魔法のような、”超常的”な力を身につけたのではないかと。


 立ち上がり、空を見上げる。

 体を撫ぜる風は、木々の隙間を射す光は、踏みしめる大地は。どれも本物でしか無かった。



  獣はどこだ。肉が食いたい。



 彼がそう考えると、辺りの気配が手に取るように分かった。辺りと言っても、それは相当に広い範囲だ。

 自分の意思で歩き出してみると、人間だったときには考えられないほど体が軽かった。

 飢餓感に襲われていたときのように、駆け出してみる。恐ろしく長い一歩で、車のように走れるではないか。

 わざわざ木をなぎ倒すような真似をしなくとも、木々の間を風のように駆け抜けられた。

 木を壁のように蹴って飛べば、どこも地面かのように立体的に動ける。

 実際に数えてもいないが、たった数秒で何kmも走り抜けただろう。そしてついに立ち止まった彼の目の前に、一頭の鹿がいた。彼の恐ろしい気配に気付いたのか、鹿は女性の悲鳴のような声をあげる。


「 ──────!!!?─────ッ!!!!!」

 

 見たこともない種類の鹿だった。ここは日本ではないのだろうか。そのような疑問を抱きながら、容赦なく腕を振り下ろす。

 次の瞬間には、鹿の首は地面に転がっていた。

 断面から血が噴き出すが、それを気にもとめず、彼はその体に齧り付いた。皮を引き裂き、血を啜り、肉を噛みちぎる。魚などよりはるかに満たされる感覚がした。


「ハ、ハハ…ハハハハハハハッ!!!!!」


 彼は血の海の中で笑った。腹の底から愉快だった。

 かつてない全能感が全身に満ち満ちている。

 その恐ろしい鳴き声が辺りに響いたのか、周囲から命の気配が遠ざかって散っていった。


  彼は黒い手を眺めながら握り込み、この日が新たな自身の生誕の日だろうとほくそ笑んだ。

 この力でなにをしようか、そう思うだけで心が踊る。



  まずはこの森を出るか。むちゃくちゃに走ればそのうち出られるかもしれないが…



 急ぐ理由はない。鼻歌でも歌い出しそうなほど機嫌のいい彼は、再び生き物の気配を探して歩き出した。


 森はただ静かに、この怪物が去るのを待つばかりだった。

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