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第3話 失敗の桶と、令嬢の決意

南部の塩湖を視察した日の夜、ブルーム・ザルツはロレンツォ公爵の許しを得て、実家であるザルツ子爵家へ手紙をしたためた。


頼みたいことは多い。

けれど、どれも軽々しく書ける内容ではなかった。


試作用の小麦を融通してほしいこと。

塩害地で麦作を戻すには、何から手をつけるべきか。

水路や排水に詳しい職人、堆肥作りや土壌改良に慣れた者を、少人数でよいから貸してもらえないか。

そして、古い交易記録に残る「黒い調味液」の試作について。


数日後、ザルツ家から公爵領南部へ荷が届いた。


試作用の小麦だけではない。

排水に使う測り縄や杭、畑の状態を記すための板札。

そして、ブルームが想像していた以上に頼もしい顔ぶれ。


麦作に詳しい年配の農夫。

土地の傾斜と水路を見極める職人。

堆肥の完熟具合を匂いで嗅ぎ分ける者。

土壌改良の現場を長年差配してきた代官補佐。


少人数ではある。

けれど誰もが、ザルツ領の第一線で泥にまみれてきた、叩き上げの実務家たちだった。

荷物には、家族からの手紙も添えられていた。


父からは、水と土についての短い助言。

「塩の土地を急かすな。まず水の逃げ道を見よ。畑のことは、畑だけに聞くな。古い水路を知る者、雨の日の流れを覚えている者にも話を聞け」


母からは、息子の礼儀と体調を案じる文。

「公爵家に失礼のないように。けれど、畑では靴が汚れるものです。ローザリア様も、どうか無理をなさいませんように」


兄からは、いかにも次男をからかうような軽口。

「お前のことだから、畑の話を始めたら止まらないだろう。公爵令嬢様の前で、豆と水路の話だけで日が暮れないようにな」


手紙を読ませてもらったローザリアは、ふっと目を細めて小さく微笑んだ。

「温かいご家族なのですね」

「……田舎の家ですから。余計なことまで書くのです」

ブルームは少し耳を赤くして、手紙を畳んだ。


ブルームという青年の後ろには、こうして土を見て、人を気遣い、失敗を笑い飛ばす家族がいる。

ローザリアは初めて、そのことを知った。



だが、新しく始まった作業は、すぐには歓迎されなかった。

ザルツ家の者たちが南部の村へ入ると、領民たちは遠巻きに眺め、口々に言った。


「よそ者に何が分かる」

「前にも、都から偉い学者が来た。結局、何も変わらなかった」

「今度こそ成功するって言って、また失敗したらどうするんだ。俺たちはもう、期待して落胆するのは懲り懲りなんだよ」


その声に、悪意だけがあるのではない。

何度も期待し、何度も裏切られてきた者たちの、乾いた諦念と深い不信だった。


ローザリアは胸を痛めた。

けれど、逃げなかった。


ロレンツォは領主として資金と人手を投じ、政治的な許可を出した。

ビアンカは記録用の帳面、清潔な布、桶や器具の管理体制を整え、裏方から支えた。

ローザリアは現場の泥の中に立ち、記録を取った。

ブルームは古い資料とザルツ家の実務知識を照らし合わせ、日々の作業に移していった。


まず手をつけたのは、水だった。

水が滞る場所を調べ、塩の強い区画から水を逃がすための排水溝を掘る。


次に、すべての土地を一律に扱うのではなく、休ませる場所、試作する場所、いずれ麦を戻す場所を分けて記録した。


そして、あの謎の豆も、ただ抜き捨てるのではなく、利用できるかを試すことになった。


水にさらし、茹でこぼし、火を通す。

柔らかくなった豆を潰し、塩と合わせる。


ローザリアは、ビアンカが若い頃に使っていた古い乗馬服を作業着代わりに下ろしていた。

裾も革靴も泥で汚れていたが、彼女は気にせず、帳面をつけ続けた。


日付、天気、水の量、塩の量、豆の処理、麦の炒り方、匂い、色、泡の出方。

領民の視線は冷たい。

それでも彼女は、書くことをやめなかった。



その日、ローザリアは麦を炒る竈の火を見ていた。

「ローザリア様、お顔に煤が」

ブルームに言われ、頬に触れる。

だが、場所が少しずれていたらしい。


ブルームは反射的に自分の手拭いを取り、手を伸ばしかけて――ハッとして止まった。

公爵令嬢の顔に、軽々しく触れてよいはずがない。


「……失礼しました」

慌てて差し出された手拭いに、ローザリアは少し目を瞬かせ、それから小さく笑った。

「ありがとうございます」

受け取って、自分で頬を拭う。


もし皇城での出会いの直後であったなら、気まずさだけが残ったかもしれない。

けれど今は、同じ作業場に立ち、同じ土を見て、同じ失敗を恐れている。


その距離の近さが、二人の間の空気を、少しだけ柔らかくしていた。



最初の試作用の桶の様子を見る日が来た。

完成には、まだ遠い。

それでも、匂いや泡の出方を見れば、仕込みがよい方向へ進んでいるかは分かるはずだった。


作業場に、期待と不安の入り混じった緊張感が満ちる。

ブルームが、慎重に重い蓋を開けた。


立ち上ったのは、期待した香りではなかった。

鼻を容赦なく刺すような、重く濁った腐敗臭だった。


作業場が、静まり返った。


領民の間から、乾いた声が漏れた。

「やっぱりな。こんな雑草の豆と呪われた塩で、うまいものができるはずがないんだ」

「前にも、都から来た者が似たようなことを言った。結局、畑は戻らなかった」

「……結局、貴族様のお遊びだったのか」


――泥遊び。


あの白い荒れ地で、少しだけ薄れたはずだった。

ブルームの言葉に、打ち消されたと思っていた。

それなのに皇子の言葉は、腐った臭いと乾いた笑いの中で、もう一度、胸を刺した。


「……わたくしは、また、遊びだと笑われるようなことをしているのでしょうか」



ブルームは、すぐには慰めなかった。

彼は腐敗した桶から顔を背けることなく、むしろ身を乗り出し、木べらで底を静かに探った。


「……豆の水分が多すぎたのかもしれません。塩の量も、足りなかった可能性があります。麦の炒り方も浅かった。温度も、高すぎたのかもしれない」


原因の候補を一つずつ挙げ、それから、泥だらけの手のまま静かに頭を下げた。


「申し訳ありません。私の見立てが甘かったのだと思います」

ローザリアが息を呑む。

ブルームは顔を上げると、ぽつりと話し始めた。


「私も、土を急がせて失敗したことがあります」

かつてザルツ領で、痩せた畑を早く戻そうとした。

よかれと思って水路を変え、肥料を入れ、作付けを急がせた。

結果は失敗だった。

収穫は減り、農民たちに頭を下げることになった。


「よくしようとしたはずなのに、土の都合を見ていませんでした」

ブルームは、桶ではなく、ローザリアが胸に抱える帳面を見た。


「ですが、失敗を記録したから、次は少しだけ間違えずに済みました」


そして、真っ直ぐにローザリアの碧い目をとらえた。

「ローザリア様。失敗を記録しているのなら、それは遊びではありません」



腐敗した匂いが、作業場に重く残っている。


領民たちの諦めのため息も、自分の無力感も、ローザリアの耳には遠く聞こえた。


ローザリアは、ゆっくりと記録帳を開いた。

塩の量。

豆の煮方。

麦の炒り方。

水の量。

置いた場所。

日数。

匂いの変化。

失敗に至るまでの記録は、すべてそこに残っている。


失敗したから、終わりなのではない。

失敗したから、次にどこを変えればよいかが分かるのだ。


ローザリアは、ゆっくりと顔を上げた。

一瞬の静寂が、作業場を包む。


「続けます」

その声に、領民たちのざわめきが止まった。

「もう一つ、試作用の桶を用意してください。今度は塩の量を変えます。豆の煮方も、麦の炒り方も、記録を取り直します」

それからローザリアは、ブルームへ向き直った。


「謝らないでください、ブルーム様。失敗したということは、このやり方では駄目だったと分かったということです」

彼女は、泥のついた記録帳を胸に抱いた。


「農園と同じですわ。土が一度で応えないなら、やり方を変えて、もう一度手を入れればいいのです」

彼女は続けた。

「お父様には、追加の桶と材料の許可を願います。お母様には、作業場の清潔を整えるためのお力をお借りします。そして皆様には、疑ったままで構いません。けれど、もう一度だけ見ていてください」


誰かの後ろに隠れて守られるのではない。

自分で決めて、前へ進む。


ブルームは、言葉を失っていた。

失敗の前で顔を上げる彼女から、どうしても目を逸らせなかった。

胸の奥に生まれた感情は、ただの尊敬だけでは片づけられなかった。


けれど、それに名前をつけるには、二人の距離はまだ少し遠かった。



作業は続いた。

新しい桶を用意し、豆の処理を変え、塩の濃さを調整する。


排水溝作りも進んだ。

雨の翌日、作業場の周りはぬかるんでいた。

ローザリアが足を取られ、身体が傾く。

ブルームは、とっさに腕を伸ばした。


肩口を支えた瞬間、彼女の息が、すぐ近くで止まった。


「……ありがとうございます」

「いえ……足元が悪いので」


それだけ言って、ブルームはすぐに手を離した。

ローザリアも、礼儀正しく一歩下がった。

塩湖のほとりで手を取られた時とは、違う近さだった。


ふと視線を向けると、スージーはなぜか、排水溝の奥を熱心に覗き込んでいた。

なぜ、今そこまで念入りに確かめる必要があるのかは、ローザリアにも分からなかった。


けれど、声をかける気にはなれなかった。


離したはずなのに、手袋越しに残った温度だけが、しばらく消えなかった。



すべてが失敗で終わったわけではなかった。

塩湖の塩は、職人の知恵を借りて煮詰め方と沈殿の分け方を変えることで、特有の刺すような苦みが少し抜けた。


豆は、何度も水にさらして茹でこぼすことで、家畜すら嫌がった臭みが弱まるものが出てきた。


そして――排水を整え、白詰草をまいた最初の試験用の畝に、小さな芽が出た。


まだ風が吹けば倒れてしまいそうな、細い白詰草の芽だった。

すぐ隣には、まだ片づけられていない失敗の桶があり、微かに腐敗の臭いが残っている。


それでも、同じ場所に、緑が顔を出していた。


ローザリアは泥の中にためらいなく膝をつき、帳面を開き、震える指で記した。

「試験畝、白詰草発芽。水はけ改善後、三日目」


見ていた領民たちの表情が、少しだけ変わった。

疑いは、まだある。

長年の不信を、簡単に消し去ることなどできない。

それでも、領民の一人が、小さく呟いた。


「……本当に、芽が出たのか」


その一言が、ローザリアには、何より大きく聞こえた。



同じ頃。

皇城、アレクシス皇子の執務室。


「ザルツ子爵家より、アグリコーラ公爵領へ小麦が運び込まれたとのことです」

側近の報告に、アレクシスは書類から顔を上げた。


「小麦?」

「はい。それだけではありません。麦作に詳しい農夫、水路を見る職人、土壌改良に慣れた者も数名、同行しているようです」


アレクシスの手が、椅子の肘掛けを強く握った。


ただの取るに足らない田舎者では、なかったのか。

あの男の家の麦が、公爵領へ入っている。

あの男の家の者たちが、公爵領の畑を歩いている。


婚約破棄を言い渡せば、ローザリアは泣いて謝り、自分の隣に戻ってくるはずだった。

それなのに、彼女は泥にまみれ、田舎令息と並んで畑を歩いているという。


「……騙されているのだ」

アレクシスは低く呟いた。


あの狡猾な田舎者が、婚約を失ったローザリアの弱った心につけ込んでいる。

そうでなければ、誇り高き公爵令嬢が泥にまみれて畑を歩くはずがない。


まるで、二つの家が少しずつ根を絡めていくようだった。


「認めない……」

握りしめた羽ペンが、ミシリと軋んだ。

「ローザリアは、僕の隣に戻るべきだ」

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