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第4話 発酵蔵と、皇子の召喚状

初冬の風が、南部の畑を渡っていく。


かつて仮設の桶置き場だった作業場は、いまや簡素ながら発酵蔵と呼べる建物になっていた。

壁には通気用の小さな窓が開けられ、床は固く叩きしめられている。

壁際には清潔な布が畳まれ、桶ごとに記録帳が下がっている。

温度と日付を記す板札。

塩の配合、豆の処理、麦の炒り方、置き場所、日数。

失敗を書き残すことから始まった帳面は、いまでは蔵全体を動かす仕組みになっていた。



けれど、蔵を整えたからといって、すべての桶が応えてくれるわけではなかった。


酸えた臭いを放つ桶。

表面に黒ずんだ黴が広がった桶。

塩が強すぎて、ただ苦いだけになった桶。


捨てるしかないものも、少なくなかった。


「これは……駄目ですね」

ブルームは、桶の縁に手をかけ、慎重に香りを確かめてから言った。

「……腐っていますか?」

「はい。これは待っても変わりません」

ローザリアは頷き、帳面に書き込んだ。


黒い黴。

酸臭強し。

廃棄。


だが、すべてが失敗ではなかった。

別の桶では、麦の表面に、白い花のような黴が薄く広がっていた。


ローザリアが身を乗り出す。

「こちらも、駄目でしょうか?」

ブルームは少しだけ黙り、香りを確かめた。

「……いいえ。これは、腐敗の臭いではありません」


豆と麦が、ゆっくりと別のものへ変わっていく香り。


まだ頼りなく、荒い。

けれど、確かにそこには、待つ価値のある変化があった。


ローザリアは、息を詰めるようにして帳面に記した。


白い黴。

腐敗臭なし。

捨てずに経過を見ること。



ローザリアとブルームは、毎日のように発酵の記録を確認した。

公爵家とザルツ家の協力は深まり、領内でも帝都でも、二人の名を並べて噂する者が増えていた。

中には、すでに内々の縁談が進んでいるのではないかと囁く者さえある。


だが、二人の間に、そのような約束はまだ何もない。

ブルームは、自分がザルツ子爵家の次男であることを忘れていなかった。

ローザリアは、いまは領地事業を軌道に乗せることが先だと、自分に言い聞かせていた。


だからこそ、近くにいながら、踏み込めなかった。



その夜も、二人は遅くまで蔵に残っていた。


仕込みの時期が重なり、夜のうちに確かめておくべき桶が多かったのである。

特に、白い黴の出た桶は、日ごとに香りが変わる。

見落とせば、腐敗へ傾くか、旨みへ進むかの境目を逃してしまう。


蔵の外には灯番の使用人が控え、少し離れた戸口には侍女のスージーも待っている。

公爵家公認の、夜間作業だった。


木桶の中で眠る黒い調味液から、かすかに甘く、深い香りが立ちのぼっている。

腐敗のそれではない。

時間だけが作れる香りだった。


ふと、ブルームが顔を上げると、ローザリアが記録帳を抱えたまま、こくりと頭を揺らしていた。

連日の作業の疲れが、出たのだろう。

ブルームは少し迷った。

それから、自分の外套を脱ぎ、彼女の肩にそっとかけた。


「……ありがとうございます」

小さな声がした。

「起きておられたのですか」

「……今、起きました」


あまり上手な嘘ではなかった。

ローザリアは目を伏せたまま、外套の端を、ほんの少しだけ握った。


「……ブルーム様の外套は、温かいのですね」


ブルームは、返す言葉を失った。

踏み込んではいけない。

そう思うほど、彼女の肩にかけた外套の重みが、自分のものではなくなっていく気がした。


二人とも、それ以上は何も言わなかった。

静かな蔵の中で、黒い調味液の香りだけが、ゆっくりと深まっていった。


やがて、戸口のスージーが控えめに声をかけるまで、外套はローザリアの肩にあった。



数日後、最初の桶のひとつが、試作品として搾れる段階に達した。


完全な完成品ではない。

香りはまだ荒く、塩気も強い。

色も澄みきってはいない。

けれど、あの腐敗臭とは違う。

塩の奥に、豆と麦の深い香りがあった。


搾り出された黒い液体を、焼いた肉にほんの数滴。

薄いスープに、ほんの少し。

煮込みには、香りづけ程度。

そうして、領民たちに試食の皿が配られた。


領民たちは、疑っていた。

腐った桶を見ている者たちである。

無理もなかった。


一人の男が、焼いた肉を口に運んだ。

すぐには、何も言わなかった。

ただ、もう一度、皿の上の肉を見た。


「……塩辛いだけじゃない」

別の女が、スープを一口飲んだ。

「味が、奥に残る」

「あの豆が……これになるのか」


呪われた白い湖の塩。

厄介者と呼ばれた豆。

役に立たないと見捨てられかけた土地。

そのすべてが、皿の上で別の顔をしていた。


歓声は、上がらなかった。

誰かが黙って、もう一口食べた。

その顔には、まだ疑いが残っていた。

けれど、諦めだけではなくなっていた。

その沈黙が、何より雄弁だった。



ロレンツォ公爵は、試作品の小瓶と、積み上げられた記録帳に、時間をかけて目を通した。


豆の処理。

塩の量。

麦の炒り方。

腐敗した桶の失敗の記録。

成功した桶の条件。

排水を整えた試験畝の、発芽の記録。


そこにあるのは偶然ではなく、幾度も繰り返された試行錯誤の跡だった。


やがて公爵は、顔を上げて言った。


「これはもう、ローザリア個人の試みで終わる話ではない。アグリコーラ公爵領の事業として扱う」


その日から、南部領地で進められていた塩害地の再生と発酵の試みは、正式な領地事業として扱われ始めた。

ザルツ家との関係も、小麦の輸入、技術協力、人材の派遣、塩害地の再生計画、黒い調味液の改良と、噂ではなく実務として深まっていった。



蔵の前で、ローザリアは改めてブルームに向き直った。


「ブルーム様がいなければ、ここまで来られませんでした」

ブルームは、少し困ったように微笑んだ。

「私は、ローザリア様が見ていたものを、隣で見ただけです」


ローザリアは、言葉を失った。

ブルームも、それ以上は言えなくなった。


ただの協力者ではない。

互いに、それには気づいている。

けれど、その感情にはまだ名前がつけられない。


仮婚約の噂はある。

だがそれは周囲が勝手に囁いているだけで、二人の間に交わされた約束ではないのだ。

だから、言えない。


沈黙が落ちた。

それは、これまでの沈黙とは違っていた。

遠いから黙るのではない。

近すぎるから、黙るしかなかった。



皇城、アレクシス皇子の執務室。


ローザリアは、泣いて戻ってこなかった。

それどころか、あの田舎令息と共に領地事業を成功させつつあるという。

黒い調味液とやらの評判は、帝都の貴族たちの間にも届き始めていた。


アレクシスは焦っていた。

だが、その焦りを認めなかった。


ローザリアは本来、皇子妃として僕の隣にいるべき女だ。

泥と豆に夢中になるなど、公爵令嬢として間違っている。

僕が、正してやらなければならない。


彼の中で、ローザリアは騙されている女性だった。

あの田舎令息は、婚約を失って弱った公爵令嬢の心につけ込んだ、卑しい男なのだった。

ならば、救い出すのは自分の務めである。

歪んだ正義が、静かに形を固めていった。



異変は、報告として公爵邸に届き始めた。


ザルツ家からの小麦輸送が、街道の検査を理由に不自然に止められた。

公爵家と取引のある商会に、皇子の側近を名乗る者から圧力がかかった。

ザルツ子爵家には「公爵家との関係を控えるように」という、忠告の形をした脅しが届いた。

帝都では、ローザリアがザルツ家の次男に入れ込み、公爵令嬢の務めを忘れているという悪評が流れ始めた。


「なんという……」

ローザリアは帳面を握りしめた。

ブルームも、実家にまで害が及んだと知り、顔を強張らせた。


だが、ロレンツォはすぐには反撃に出なかった。

「怒るなとは言わぬ」

公爵は静かに言った。

「だが、怒りだけで皇子を相手にしてはならない。残すのだ。日付を、相手を、言葉を、すべて」



その日から、公爵家は静かに記録を積み上げ始めた。


農園の記録。

発酵の記録。

試作品の配合と成果。

領民の証言。

商会との書簡。

輸送停止の日付と、告げられた理由。

皇子側近の接触の記録。

ザルツ家へ届いた文面。

悪評の出所。


ローザリアは、焦りを飲み込みながら帳面を閉じなかった。

ブルームも、怒りを飲み込んで記録を整えた。


相手は皇子である。

証拠なしに動けば、公爵家の方が不忠を疑われかねない。


だから、耐える。

ただ耐えるためではない。

正しく反撃するために、書き残すのだ。



そんな矢先だった。

公爵邸に、皇城からの使者が立った。


届けられたのは、一通の書状。

ブルーム・ザルツ宛の、正式な出頭命令だった。


表向きは、皇城内務局を通じた呼び出しである。

だが、末尾に記された名を見れば、誰の意図によるものかは明らかだった。


アレクシス皇子。


ブルームは、静かに手紙を畳んだ。

ローザリアの顔から、血の気が引いた。


……行かないでください。


そう言いかけた唇を、彼女は噛みしめた。

自分には、彼を引き止める立場がない。

正式な婚約者ではない。

ただの仕事仲間と言うには、もう遠すぎる。

けれど、彼を縛れる言葉を、まだ持っていない。


ブルームは、そんな彼女を見て、少しだけ笑った。


「皇城から帰ってきたら、また一緒に、あの桶を見ていただけますか?」


仕事の約束の形をした、帰還の約束だった。


ローザリアは、頷いた。

頷くことしか、できなかった。


その夜、冬の風が、発酵蔵の屋根を鳴らして過ぎていった。


その約束が簡単には守れないものになることを――その場にいた誰もが、口には出さぬまま、どこかで感じていた。

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