第4話 発酵蔵と、皇子の召喚状
初冬の風が、南部の畑を渡っていく。
かつて仮設の桶置き場だった作業場は、いまや簡素ながら発酵蔵と呼べる建物になっていた。
壁には通気用の小さな窓が開けられ、床は固く叩きしめられている。
壁際には清潔な布が畳まれ、桶ごとに記録帳が下がっている。
温度と日付を記す板札。
塩の配合、豆の処理、麦の炒り方、置き場所、日数。
失敗を書き残すことから始まった帳面は、いまでは蔵全体を動かす仕組みになっていた。
◇
けれど、蔵を整えたからといって、すべての桶が応えてくれるわけではなかった。
酸えた臭いを放つ桶。
表面に黒ずんだ黴が広がった桶。
塩が強すぎて、ただ苦いだけになった桶。
捨てるしかないものも、少なくなかった。
「これは……駄目ですね」
ブルームは、桶の縁に手をかけ、慎重に香りを確かめてから言った。
「……腐っていますか?」
「はい。これは待っても変わりません」
ローザリアは頷き、帳面に書き込んだ。
黒い黴。
酸臭強し。
廃棄。
だが、すべてが失敗ではなかった。
別の桶では、麦の表面に、白い花のような黴が薄く広がっていた。
ローザリアが身を乗り出す。
「こちらも、駄目でしょうか?」
ブルームは少しだけ黙り、香りを確かめた。
「……いいえ。これは、腐敗の臭いではありません」
豆と麦が、ゆっくりと別のものへ変わっていく香り。
まだ頼りなく、荒い。
けれど、確かにそこには、待つ価値のある変化があった。
ローザリアは、息を詰めるようにして帳面に記した。
白い黴。
腐敗臭なし。
捨てずに経過を見ること。
◇
ローザリアとブルームは、毎日のように発酵の記録を確認した。
公爵家とザルツ家の協力は深まり、領内でも帝都でも、二人の名を並べて噂する者が増えていた。
中には、すでに内々の縁談が進んでいるのではないかと囁く者さえある。
だが、二人の間に、そのような約束はまだ何もない。
ブルームは、自分がザルツ子爵家の次男であることを忘れていなかった。
ローザリアは、いまは領地事業を軌道に乗せることが先だと、自分に言い聞かせていた。
だからこそ、近くにいながら、踏み込めなかった。
◇
その夜も、二人は遅くまで蔵に残っていた。
仕込みの時期が重なり、夜のうちに確かめておくべき桶が多かったのである。
特に、白い黴の出た桶は、日ごとに香りが変わる。
見落とせば、腐敗へ傾くか、旨みへ進むかの境目を逃してしまう。
蔵の外には灯番の使用人が控え、少し離れた戸口には侍女のスージーも待っている。
公爵家公認の、夜間作業だった。
木桶の中で眠る黒い調味液から、かすかに甘く、深い香りが立ちのぼっている。
腐敗のそれではない。
時間だけが作れる香りだった。
ふと、ブルームが顔を上げると、ローザリアが記録帳を抱えたまま、こくりと頭を揺らしていた。
連日の作業の疲れが、出たのだろう。
ブルームは少し迷った。
それから、自分の外套を脱ぎ、彼女の肩にそっとかけた。
「……ありがとうございます」
小さな声がした。
「起きておられたのですか」
「……今、起きました」
あまり上手な嘘ではなかった。
ローザリアは目を伏せたまま、外套の端を、ほんの少しだけ握った。
「……ブルーム様の外套は、温かいのですね」
ブルームは、返す言葉を失った。
踏み込んではいけない。
そう思うほど、彼女の肩にかけた外套の重みが、自分のものではなくなっていく気がした。
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
静かな蔵の中で、黒い調味液の香りだけが、ゆっくりと深まっていった。
やがて、戸口のスージーが控えめに声をかけるまで、外套はローザリアの肩にあった。
◇
数日後、最初の桶のひとつが、試作品として搾れる段階に達した。
完全な完成品ではない。
香りはまだ荒く、塩気も強い。
色も澄みきってはいない。
けれど、あの腐敗臭とは違う。
塩の奥に、豆と麦の深い香りがあった。
搾り出された黒い液体を、焼いた肉にほんの数滴。
薄いスープに、ほんの少し。
煮込みには、香りづけ程度。
そうして、領民たちに試食の皿が配られた。
領民たちは、疑っていた。
腐った桶を見ている者たちである。
無理もなかった。
一人の男が、焼いた肉を口に運んだ。
すぐには、何も言わなかった。
ただ、もう一度、皿の上の肉を見た。
「……塩辛いだけじゃない」
別の女が、スープを一口飲んだ。
「味が、奥に残る」
「あの豆が……これになるのか」
呪われた白い湖の塩。
厄介者と呼ばれた豆。
役に立たないと見捨てられかけた土地。
そのすべてが、皿の上で別の顔をしていた。
歓声は、上がらなかった。
誰かが黙って、もう一口食べた。
その顔には、まだ疑いが残っていた。
けれど、諦めだけではなくなっていた。
その沈黙が、何より雄弁だった。
◇
ロレンツォ公爵は、試作品の小瓶と、積み上げられた記録帳に、時間をかけて目を通した。
豆の処理。
塩の量。
麦の炒り方。
腐敗した桶の失敗の記録。
成功した桶の条件。
排水を整えた試験畝の、発芽の記録。
そこにあるのは偶然ではなく、幾度も繰り返された試行錯誤の跡だった。
やがて公爵は、顔を上げて言った。
「これはもう、ローザリア個人の試みで終わる話ではない。アグリコーラ公爵領の事業として扱う」
その日から、南部領地で進められていた塩害地の再生と発酵の試みは、正式な領地事業として扱われ始めた。
ザルツ家との関係も、小麦の輸入、技術協力、人材の派遣、塩害地の再生計画、黒い調味液の改良と、噂ではなく実務として深まっていった。
◇
蔵の前で、ローザリアは改めてブルームに向き直った。
「ブルーム様がいなければ、ここまで来られませんでした」
ブルームは、少し困ったように微笑んだ。
「私は、ローザリア様が見ていたものを、隣で見ただけです」
ローザリアは、言葉を失った。
ブルームも、それ以上は言えなくなった。
ただの協力者ではない。
互いに、それには気づいている。
けれど、その感情にはまだ名前がつけられない。
仮婚約の噂はある。
だがそれは周囲が勝手に囁いているだけで、二人の間に交わされた約束ではないのだ。
だから、言えない。
沈黙が落ちた。
それは、これまでの沈黙とは違っていた。
遠いから黙るのではない。
近すぎるから、黙るしかなかった。
◇
皇城、アレクシス皇子の執務室。
ローザリアは、泣いて戻ってこなかった。
それどころか、あの田舎令息と共に領地事業を成功させつつあるという。
黒い調味液とやらの評判は、帝都の貴族たちの間にも届き始めていた。
アレクシスは焦っていた。
だが、その焦りを認めなかった。
ローザリアは本来、皇子妃として僕の隣にいるべき女だ。
泥と豆に夢中になるなど、公爵令嬢として間違っている。
僕が、正してやらなければならない。
彼の中で、ローザリアは騙されている女性だった。
あの田舎令息は、婚約を失って弱った公爵令嬢の心につけ込んだ、卑しい男なのだった。
ならば、救い出すのは自分の務めである。
歪んだ正義が、静かに形を固めていった。
◇
異変は、報告として公爵邸に届き始めた。
ザルツ家からの小麦輸送が、街道の検査を理由に不自然に止められた。
公爵家と取引のある商会に、皇子の側近を名乗る者から圧力がかかった。
ザルツ子爵家には「公爵家との関係を控えるように」という、忠告の形をした脅しが届いた。
帝都では、ローザリアがザルツ家の次男に入れ込み、公爵令嬢の務めを忘れているという悪評が流れ始めた。
「なんという……」
ローザリアは帳面を握りしめた。
ブルームも、実家にまで害が及んだと知り、顔を強張らせた。
だが、ロレンツォはすぐには反撃に出なかった。
「怒るなとは言わぬ」
公爵は静かに言った。
「だが、怒りだけで皇子を相手にしてはならない。残すのだ。日付を、相手を、言葉を、すべて」
◇
その日から、公爵家は静かに記録を積み上げ始めた。
農園の記録。
発酵の記録。
試作品の配合と成果。
領民の証言。
商会との書簡。
輸送停止の日付と、告げられた理由。
皇子側近の接触の記録。
ザルツ家へ届いた文面。
悪評の出所。
ローザリアは、焦りを飲み込みながら帳面を閉じなかった。
ブルームも、怒りを飲み込んで記録を整えた。
相手は皇子である。
証拠なしに動けば、公爵家の方が不忠を疑われかねない。
だから、耐える。
ただ耐えるためではない。
正しく反撃するために、書き残すのだ。
◇
そんな矢先だった。
公爵邸に、皇城からの使者が立った。
届けられたのは、一通の書状。
ブルーム・ザルツ宛の、正式な出頭命令だった。
表向きは、皇城内務局を通じた呼び出しである。
だが、末尾に記された名を見れば、誰の意図によるものかは明らかだった。
アレクシス皇子。
ブルームは、静かに手紙を畳んだ。
ローザリアの顔から、血の気が引いた。
……行かないでください。
そう言いかけた唇を、彼女は噛みしめた。
自分には、彼を引き止める立場がない。
正式な婚約者ではない。
ただの仕事仲間と言うには、もう遠すぎる。
けれど、彼を縛れる言葉を、まだ持っていない。
ブルームは、そんな彼女を見て、少しだけ笑った。
「皇城から帰ってきたら、また一緒に、あの桶を見ていただけますか?」
仕事の約束の形をした、帰還の約束だった。
ローザリアは、頷いた。
頷くことしか、できなかった。
その夜、冬の風が、発酵蔵の屋根を鳴らして過ぎていった。
その約束が簡単には守れないものになることを――その場にいた誰もが、口には出さぬまま、どこかで感じていた。




