第2話 塩湖と謎の豆
(帰るだけだったはずなのに、なぜ公爵家の食卓にいるんだ……)
その夜、ブルーム・ザルツは、アグリコーラ公爵邸の晩餐の席にいた。
ローザリアの農園を診たあと、辞去しようとしたところを、ロレンツォ・アグリコーラ公爵に「娘を助けてもらった礼だ」と引き留められたのである。
断れる相手ではなかった。
長い食卓には、ロレンツォとローザリアのほかに、ローザリアの母である公爵夫人ビアンカの姿もあった。
柔らかな物腰の、美しい人だった。
だがその目は、ローザリアの足元を、表情を、そしてブルームの所作を、静かに見ている。
ブルームは背筋を伸ばし、田舎子爵家で叩き込まれた作法を、ひとつずつ思い出しながら食事を進めた。
運ばれてきた皿のひとつに、南瓜の煮込みがあった。
「今年はあまり数が採れませんでしたけれど、ローザリアの南瓜は甘く育ちましたの」
ビアンカが、ごく自然にそう言った。
自慢するのでも、取り繕うのでもない。
当たり前の食卓の話題として、娘の農園が語られている。
「香りがよく、煮崩れもしていません。よく熟してから収穫されたのだと思います」
ブルームが丁寧に答えると、ローザリアの口元が、少しだけ緩んだ。
「まあ! そこまで分かるのね」
ビアンカが小さく微笑む。
「いえ、ザルツ領でも南瓜を扱うことが多かっただけです」
「ザルツ領は、農業が盛んなのかね?」
ロレンツォが静かに尋ねた。
「はい。豊かな土地ではありませんが、麦や豆、根菜を工夫して育てています。痩せた畑を休ませながら使うことも多く……その、子どもの頃から畑を見る機会はありました」
ブルームは慌てて答えたが、ロレンツォの目には、わずかな興味が宿っていた。
やがてロレンツォは、静かに杯を置いた。
「ザルツ君。君の見立てを、もう少し聞いてみたくなった」
ロレンツォの声が、食卓の父親のものから、領主のものへと、少しだけ変わった。
「実は今、領の南部が荒れている」
そこでロレンツォは、南部で起きている三つの問題を語った。
塩湖の周囲に塩が吹き、土が白く荒れていること。
抜いても抜いても生える、正体の知れぬ豆があること。
そして、周辺の小麦畑が痩せ、収穫が年々落ちていること。
説明を終えると、ロレンツォはまっすぐブルームを見た。
「君なら、どう見る?」
試されている、と分かった。
だが、ブルームは即答しなかった。
「実際の土と水を見なければ、軽々には申せません」
ロレンツォはしばらく黙り、それから、わずかに頷いた。
「明日、南部を視察する。同行を願えるか?」
「わたくしも参ります」
すかさず言ったのは、ローザリアだった。
ビアンカが、娘の足首へ視線を落とす。
軽く挫いたばかりの足である。
本来なら、無理はさせたくない。
だが、前を向いた娘の目を見て、夫人は何も言わなかった。
◇
翌朝、視察の馬車が二台、公爵邸を発った。
公爵夫妻が一台。
そして、もう一台にはブルームとローザリアが乗ることになった。
「ローザリアの記録を見るなら、君たちは同じ馬車の方がよかろう」
ロレンツォは淡々とそう言った。
ブルームは固まった。
ローザリアも一瞬だけ目を伏せた。
その様子を見て、ビアンカが扇の陰で小さく微笑む。
「スージー。あなたも同じ馬車に乗りなさい。ローザリアをお願いね」
「かしこまりました」
控えていたスージーが、静かに頭を下げる。
ブルームは、ようやく少しだけ息をついた。
二人きりではない。
それだけで、いくらか心臓に優しかった。
◇
馬車の中で、ローザリアは一冊の帳面を開いた。
農園の記録だという。
向かいにはブルームが座り、少し離れた扉側にはスージーが控えている。
侍女としての同乗であり、同時に、令嬢の体裁を守るための付き添いでもあるのだろう。
二人きりではない。
そのことに少しだけ安堵しながら、ブルームはローザリアから帳面を受け取り、紙面に目を落とした。
日照。
雨。
水やりの量。
土の湿り具合。
収穫の数。
不調の出た畝の位置。
細かな文字が、几帳面に並んでいた。
「ここまで記録を……」
ブルームは思わず声を漏らした。
「分からないことばかりでしたから。せめて、見たことだけは残そうと思いましたの」
ローザリアは少し照れたように言った。
この方は、本気で土と向き合ってきたのだ。
ブルームは、帳面をめくる手に自然と敬意がこもるのを感じた。
そのとき、馬車が轍で大きく揺れた。
膝の上の記録帳が滑り落ちかける。
二人が同時に手を伸ばした。
帳面の上で、指先がほんの一瞬、触れた。
「……失礼しました」
「いえ。ありがとうございます」
扉側で、スージーが小さく咳払いをした。
「……お嬢様、記録帳は落とされませんように」
「え、ええ。分かっています」
ローザリアは慌てて手を引き、帳面を抱え直した。
ブルームは姿勢を正し、必要以上に真剣な顔で記録へ視線を戻した。
その様子を見て、スージーは何も言わず、ただ静かに目を伏せた。
見て見ぬふりをするのも、侍女の務めだった。
だが、その後ローザリアは同じ行を二度読み違え、ブルームは塩害の記録を追っていたはずの目を、少しだけ泳がせた。
◇
公爵領南部。
馬車を降りたローザリアは、言葉を失った。
湖の周囲は、白かった。
土は固くひび割れ、風が吹くたび、乾いた白い粉が舞い上がる。
草の一本も、まともに育っていない。
村人たちはここを「呪われた白い湖」と呼ぶのだという。
――泥遊び。
皇子の言葉が、不意に蘇った。
裏庭の農園なら、まだ手を入れられる。
けれど、これは違う。
塩に負けた土地。
民の暮らしそのものを脅かす荒れ地。
小さな農園の記録をつけて喜んでいるだけで、この土地を救う力など、わたくしには何もないのではないか……。
胸が沈みかけたとき、視界の端で、ブルームが動いた。
彼は笑わなかった。
顔をしかめはしたが、それで終わらなかった。
湖の水をすくい、岸辺の白い結晶をつまみ、固い土を指で崩す。
その背中を、ローザリアは見つめた。
この人は、また笑わない。
荒れた土地を、駄目な土地として切り捨てない。
「食卓にそのまま出す塩には向かないかもしれません。苦みや混じり物が強い可能性があります」
結晶を確かめたブルームが言った。
ローザリアは少し俯いた。
「では、やはり使えませんの?」
「いいえ。保存用や漬け込み用なら、使えるかもしれません。まずは少量を取り、煮詰め方と沈殿の分け方を試すべきです」
ローザリアは、白い湖を見直した。
呪いではなく、使い道。
そんな見方があるのだと、彼女は初めて知った。
◇
塩湖から少し離れた荒れ地には、膝ほどの高さの豆草が、群れをなして生えていた。
細い茎から三枚に分かれた葉が広がり、葉の陰には、産毛を帯びた小さな莢がいくつも下がっている。
人の手で植えられたものではない。
それなのに、乾いた土へ根を張り、抜いても抜いてもまた芽を出すのだという。
家畜も好んで食べないため、村では厄介な雑草と呼ばれている。
ブルームはその一本を根元から掘り起こし、莢を割った。
中には、丸みを帯びた豆が並んでいる。
「しぶといですね」
そう言いながら、彼は根の張り方と豆の硬さを確かめた。
「抜いても抜いても生えるそうです。家畜も好みません。畑の邪魔にしかならないと……」
苦い顔のローザリアに、ブルームは静かに言った。
「家畜が食べないからと言って、人も食べられないとは限りません」
「食べられるのですか?」
「まだ分かりません。ですが、水にさらし、茹でこぼし、もう一度火を通せば変わる豆もあります。ザルツ領にも、昔は誰も食べなかった豆がありました。けれど、扱い方を変えると、冬場の貴重な食べ物になったのです」
ローザリアは、足元の豆の群れを見た。
さっきまでは、抜くべきものだった。
今は、何かに使えるかもしれないものに見えた。
◇
だが、その先の小麦畑が、ローザリアの心を再び沈ませた。
茎は細く、穂は軽い。
ところどころ黄ばみ、力なく倒れかけている。
塩湖は特殊な場所だった。
豆は厄介者だった。
けれど、小麦は違う。
小麦は、民の暮らしそのものだ。
裏庭の農園で葉野菜が育ったからといって、何になるのだろう。
民が食べる麦を守れないなら、わたくしの農園など、やはり小さな慰めでしかないのではないか。
皇子の言葉を否定したかった。
けれど今、目の前の痩せた麦畑が、その言葉をもう一度突きつけてくるようだった。
ブルームは畑に入り、土を確かめていた。
水の流れた跡。
塩の残り方。
土の固さ。
やがて彼は立ち上がり、言った。
「今すぐ小麦を戻す土地ではありません」
ローザリアは息を呑んだ。
「では、この土地はもう……」
「いいえ。終わった土地ではありません」
ブルームは、はっきりと首を振った。
「ただ、無理にすべてを小麦畑へ戻そうとすれば、また土を傷めます」
「すべてを……?」
「はい。すべてを小麦畑に戻す必要はないのかもしれません」
ブルームは、塩湖を、豆の群生地を、痩せた小麦畑を、順に見た。
「塩を取る場所。豆を試す場所。土を休ませる場所。そして、いずれ小麦を戻す場所。それぞれ役割を分ければ、この土地はまだ使えます」
ローザリアは、目を見開いた。
「水が滞れば、塩も土に残ります。まずは水を逃がす道を作るべきです。低い場所は畝を高くし、塩の強い場所は無理に麦を植えず、白詰草や豆で土を養う。麦を戻すのは、そのあとです」
同じ景色のはずだった。
白く荒れた湖。
邪魔な豆。
痩せた小麦畑。
けれど今、その景色の中に、道筋が見える。
塩を取る場所。
豆を試す場所。
土を休ませる場所。
小麦を戻す場所。
「……この土地は、まだ終わっていないのですね……」
「はい。無理に急がせなければ、土はまだ応えてくれると思います」
皇子の「泥遊び」という言葉が、胸の中で薄れていくのが分かった。
代わりに残ったのは、ブルームの言葉だった。
終わった土地ではない。
役割を変えれば、まだ使える。
裏庭の小さな土と、民が暮らす大きな土地。
どちらも同じように疲れ、休み、手を入れれば応えてくれる。
ローザリアは初めて、自分の農園と領地が、一本の線でつながったように感じた。
◇
塩湖のほとりへ戻る途中だった。
白く固まった土に、ローザリアが足を取られかけた。
「ローザリア様、お手を」
ブルームが反射的に手を差し出す。
ローザリアはその手を取った。
引き寄せられるように、ほんの少し距離が近づく。
支えられた拍子に、ローザリアの視線がブルームの顔へ上がった。
ローザリアの青い瞳が、近い距離でブルームの瞳と合う。
一瞬だけ、風の音が遠のいたような気がした。
「……ありがとうございます」
先に声を出したのは、ローザリアだった。
「い、いえ……」
ブルームは慌てて視線を逸らした。
二人とも手を離すタイミングを失っていた。
少し離れたところで、ビアンカが扇の陰で小さく微笑んだ。
ロレンツォが、無言で咳払いをする。
「し、失礼いたしました」
ブルームはようやく我に返り、慌てて手を離した。
「いいえ。助かりました」
ローザリアも少しだけ頬を染め、視線を足元へ落とした。
白い土の上に、気まずい沈黙が落ちる。
ロレンツォが、もう一度だけ咳払いをした。
「……それで、ザルツ君」
低い声に、ブルームの背筋が伸びる。
「先ほどから、何か考えているようだが?」
「は、はい……」
ブルームは一度だけローザリアの方を見た。
ローザリアも、まだ少し赤い顔でこちらを見ている。
ブルームは慌てて視線を荒れ地へ戻した。
「失礼いたしました……もしかすると、この土地の厄介者は、厄介者ではないかもしれません」
ローザリアが振り向く。
「塩があります。この豆も、ただの雑草とは限らない。麦は……ザルツ領から運べます」
「それで、何か作れるのですか?」
「まだ、作れるとは申せません」
ブルームは慎重に言葉を選んだ。
「ですが、古い交易記録に似たものがありました。豆と麦と塩を使い、長く寝かせて作る黒い調味液です」
「黒い、調味液……?」
「はい。記録では、肉や魚の臭みを抑え、野菜の味を深くするとありました。ただ、詳しい作り方までは残っていません」
「この土地から、そんなものが……?」
ローザリアの碧い瞳に、はっきりと光が宿った。
「まだ作れるとは申せません。ですが、試す価値はあります」
ロレンツォは、領主の顔になって荒れ地を見渡した。
「……塩湖を封じるだけではなく、使う道を探す、か」
その声は低く、静かだった。
娘と若い令息を見守る父ではなく、領地と民の暮らしを預かる公爵の声だった。
「ザルツ君。戻ったら、古い帳簿と交易記録を調べさせよう。必要なものがあれば申し出なさい」
「よろしいのですか?」
「君が試す価値があると言うのなら、試せるだけの場は用意しよう」
ブルームは背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。できる限りのことをいたします」
その横で、ビアンカはローザリアを見ていた。
「ローザリア」
「はい、お母様」
「今朝より、ずっといい顔をしているわ」
ローザリアは一瞬、言葉に詰まった。 けれどすぐに、荒れ地へ視線を戻す。
「……はい。まだ何も始まっていないのに、不思議ですわ。先ほどまで恐ろしく見えていた土地が、今は少しだけ、違って見えます」
ビアンカは静かに微笑んだ。
「それなら、来てよかったわね」
ロレンツォもまた、娘の横顔を一瞥した。
何も言わなかったが、その目元はほんの少しだけ和らいでいた。
◇
皇城、アレクシス皇子の執務室。
「アグリコーラ公爵令嬢は、公爵領南部の視察へ出ているとのことです」
側近の報告に、アレクシスは書類から顔を上げた。
「視察?」
「はい。ザルツ子爵家の次男を伴っていると」
アレクシスは不快そうに眉を寄せた。
婚約破棄を言い渡せば、ローザリアは泣いて謝り、頭を下げて自分の隣に戻ってくる。
そのはずだった。
それなのに、あの女は田舎令息を連れて、泥まみれの視察に出ているという。
「ローザリアは、意地を張っているだけだ」
アレクシスは、書類の端を指で弾いた。
側近は同意も否定もできず、目を伏せる。
「……少し頭を冷やせば、戻ってくるはずだ」
アレクシスはそう吐き捨てると、再び書類へ視線を落とした。
だが、その文字はもう、ほとんど目に入っていなかった。




