表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/4

第2話 塩湖と謎の豆

(帰るだけだったはずなのに、なぜ公爵家の食卓にいるんだ……)


その夜、ブルーム・ザルツは、アグリコーラ公爵邸の晩餐の席にいた。


ローザリアの農園を診たあと、辞去しようとしたところを、ロレンツォ・アグリコーラ公爵に「娘を助けてもらった礼だ」と引き留められたのである。


断れる相手ではなかった。


長い食卓には、ロレンツォとローザリアのほかに、ローザリアの母である公爵夫人ビアンカの姿もあった。

柔らかな物腰の、美しい人だった。

だがその目は、ローザリアの足元を、表情を、そしてブルームの所作を、静かに見ている。


ブルームは背筋を伸ばし、田舎子爵家で叩き込まれた作法を、ひとつずつ思い出しながら食事を進めた。


運ばれてきた皿のひとつに、南瓜の煮込みがあった。

「今年はあまり数が採れませんでしたけれど、ローザリアの南瓜は甘く育ちましたの」


ビアンカが、ごく自然にそう言った。

自慢するのでも、取り繕うのでもない。

当たり前の食卓の話題として、娘の農園が語られている。


「香りがよく、煮崩れもしていません。よく熟してから収穫されたのだと思います」


ブルームが丁寧に答えると、ローザリアの口元が、少しだけ緩んだ。


「まあ! そこまで分かるのね」

ビアンカが小さく微笑む。


「いえ、ザルツ領でも南瓜を扱うことが多かっただけです」

「ザルツ領は、農業が盛んなのかね?」

ロレンツォが静かに尋ねた。

「はい。豊かな土地ではありませんが、麦や豆、根菜を工夫して育てています。痩せた畑を休ませながら使うことも多く……その、子どもの頃から畑を見る機会はありました」


ブルームは慌てて答えたが、ロレンツォの目には、わずかな興味が宿っていた。

やがてロレンツォは、静かに杯を置いた。


「ザルツ君。君の見立てを、もう少し聞いてみたくなった」

ロレンツォの声が、食卓の父親のものから、領主のものへと、少しだけ変わった。


「実は今、領の南部が荒れている」

そこでロレンツォは、南部で起きている三つの問題を語った。


塩湖の周囲に塩が吹き、土が白く荒れていること。

抜いても抜いても生える、正体の知れぬ豆があること。

そして、周辺の小麦畑が痩せ、収穫が年々落ちていること。


説明を終えると、ロレンツォはまっすぐブルームを見た。

「君なら、どう見る?」


試されている、と分かった。

だが、ブルームは即答しなかった。

「実際の土と水を見なければ、軽々には申せません」

ロレンツォはしばらく黙り、それから、わずかに頷いた。

「明日、南部を視察する。同行を願えるか?」

「わたくしも参ります」

すかさず言ったのは、ローザリアだった。


ビアンカが、娘の足首へ視線を落とす。

軽く挫いたばかりの足である。

本来なら、無理はさせたくない。


だが、前を向いた娘の目を見て、夫人は何も言わなかった。



翌朝、視察の馬車が二台、公爵邸を発った。


公爵夫妻が一台。

そして、もう一台にはブルームとローザリアが乗ることになった。


「ローザリアの記録を見るなら、君たちは同じ馬車の方がよかろう」

ロレンツォは淡々とそう言った。


ブルームは固まった。

ローザリアも一瞬だけ目を伏せた。


その様子を見て、ビアンカが扇の陰で小さく微笑む。

「スージー。あなたも同じ馬車に乗りなさい。ローザリアをお願いね」

「かしこまりました」


控えていたスージーが、静かに頭を下げる。

ブルームは、ようやく少しだけ息をついた。

二人きりではない。

それだけで、いくらか心臓に優しかった。



馬車の中で、ローザリアは一冊の帳面を開いた。

農園の記録だという。


向かいにはブルームが座り、少し離れた扉側にはスージーが控えている。

侍女としての同乗であり、同時に、令嬢の体裁を守るための付き添いでもあるのだろう。


二人きりではない。

そのことに少しだけ安堵しながら、ブルームはローザリアから帳面を受け取り、紙面に目を落とした。


日照。

雨。

水やりの量。

土の湿り具合。

収穫の数。

不調の出た畝の位置。


細かな文字が、几帳面に並んでいた。


「ここまで記録を……」

ブルームは思わず声を漏らした。

「分からないことばかりでしたから。せめて、見たことだけは残そうと思いましたの」

ローザリアは少し照れたように言った。


この方は、本気で土と向き合ってきたのだ。

ブルームは、帳面をめくる手に自然と敬意がこもるのを感じた。


そのとき、馬車が轍で大きく揺れた。


膝の上の記録帳が滑り落ちかける。

二人が同時に手を伸ばした。

帳面の上で、指先がほんの一瞬、触れた。


「……失礼しました」

「いえ。ありがとうございます」


扉側で、スージーが小さく咳払いをした。

「……お嬢様、記録帳は落とされませんように」

「え、ええ。分かっています」

ローザリアは慌てて手を引き、帳面を抱え直した。

ブルームは姿勢を正し、必要以上に真剣な顔で記録へ視線を戻した。


その様子を見て、スージーは何も言わず、ただ静かに目を伏せた。

見て見ぬふりをするのも、侍女の務めだった。


だが、その後ローザリアは同じ行を二度読み違え、ブルームは塩害の記録を追っていたはずの目を、少しだけ泳がせた。



公爵領南部。


馬車を降りたローザリアは、言葉を失った。


湖の周囲は、白かった。

土は固くひび割れ、風が吹くたび、乾いた白い粉が舞い上がる。

草の一本も、まともに育っていない。


村人たちはここを「呪われた白い湖」と呼ぶのだという。


――泥遊び。


皇子の言葉が、不意に蘇った。


裏庭の農園なら、まだ手を入れられる。

けれど、これは違う。


塩に負けた土地。

民の暮らしそのものを脅かす荒れ地。


小さな農園の記録をつけて喜んでいるだけで、この土地を救う力など、わたくしには何もないのではないか……。


胸が沈みかけたとき、視界の端で、ブルームが動いた。


彼は笑わなかった。

顔をしかめはしたが、それで終わらなかった。


湖の水をすくい、岸辺の白い結晶をつまみ、固い土を指で崩す。

その背中を、ローザリアは見つめた。


この人は、また笑わない。

荒れた土地を、駄目な土地として切り捨てない。


「食卓にそのまま出す塩には向かないかもしれません。苦みや混じり物が強い可能性があります」


結晶を確かめたブルームが言った。


ローザリアは少し俯いた。


「では、やはり使えませんの?」


「いいえ。保存用や漬け込み用なら、使えるかもしれません。まずは少量を取り、煮詰め方と沈殿の分け方を試すべきです」


ローザリアは、白い湖を見直した。


呪いではなく、使い道。

そんな見方があるのだと、彼女は初めて知った。



塩湖から少し離れた荒れ地には、膝ほどの高さの豆草が、群れをなして生えていた。


細い茎から三枚に分かれた葉が広がり、葉の陰には、産毛を帯びた小さな莢がいくつも下がっている。

人の手で植えられたものではない。

それなのに、乾いた土へ根を張り、抜いても抜いてもまた芽を出すのだという。

家畜も好んで食べないため、村では厄介な雑草と呼ばれている。


ブルームはその一本を根元から掘り起こし、莢を割った。

中には、丸みを帯びた豆が並んでいる。


「しぶといですね」

そう言いながら、彼は根の張り方と豆の硬さを確かめた。

「抜いても抜いても生えるそうです。家畜も好みません。畑の邪魔にしかならないと……」

苦い顔のローザリアに、ブルームは静かに言った。


「家畜が食べないからと言って、人も食べられないとは限りません」

「食べられるのですか?」

「まだ分かりません。ですが、水にさらし、茹でこぼし、もう一度火を通せば変わる豆もあります。ザルツ領にも、昔は誰も食べなかった豆がありました。けれど、扱い方を変えると、冬場の貴重な食べ物になったのです」


ローザリアは、足元の豆の群れを見た。

さっきまでは、抜くべきものだった。

今は、何かに使えるかもしれないものに見えた。



だが、その先の小麦畑が、ローザリアの心を再び沈ませた。


茎は細く、穂は軽い。

ところどころ黄ばみ、力なく倒れかけている。


塩湖は特殊な場所だった。

豆は厄介者だった。

けれど、小麦は違う。

小麦は、民の暮らしそのものだ。


裏庭の農園で葉野菜が育ったからといって、何になるのだろう。

民が食べる麦を守れないなら、わたくしの農園など、やはり小さな慰めでしかないのではないか。


皇子の言葉を否定したかった。

けれど今、目の前の痩せた麦畑が、その言葉をもう一度突きつけてくるようだった。


ブルームは畑に入り、土を確かめていた。


水の流れた跡。

塩の残り方。

土の固さ。


やがて彼は立ち上がり、言った。

「今すぐ小麦を戻す土地ではありません」

ローザリアは息を呑んだ。

「では、この土地はもう……」

「いいえ。終わった土地ではありません」

ブルームは、はっきりと首を振った。


「ただ、無理にすべてを小麦畑へ戻そうとすれば、また土を傷めます」

「すべてを……?」

「はい。すべてを小麦畑に戻す必要はないのかもしれません」


ブルームは、塩湖を、豆の群生地を、痩せた小麦畑を、順に見た。


「塩を取る場所。豆を試す場所。土を休ませる場所。そして、いずれ小麦を戻す場所。それぞれ役割を分ければ、この土地はまだ使えます」


ローザリアは、目を見開いた。


「水が滞れば、塩も土に残ります。まずは水を逃がす道を作るべきです。低い場所は畝を高くし、塩の強い場所は無理に麦を植えず、白詰草や豆で土を養う。麦を戻すのは、そのあとです」


同じ景色のはずだった。


白く荒れた湖。

邪魔な豆。

痩せた小麦畑。


けれど今、その景色の中に、道筋が見える。


塩を取る場所。

豆を試す場所。

土を休ませる場所。

小麦を戻す場所。


「……この土地は、まだ終わっていないのですね……」

「はい。無理に急がせなければ、土はまだ応えてくれると思います」


皇子の「泥遊び」という言葉が、胸の中で薄れていくのが分かった。

代わりに残ったのは、ブルームの言葉だった。


終わった土地ではない。

役割を変えれば、まだ使える。


裏庭の小さな土と、民が暮らす大きな土地。

どちらも同じように疲れ、休み、手を入れれば応えてくれる。


ローザリアは初めて、自分の農園と領地が、一本の線でつながったように感じた。



塩湖のほとりへ戻る途中だった。


白く固まった土に、ローザリアが足を取られかけた。


「ローザリア様、お手を」

ブルームが反射的に手を差し出す。

ローザリアはその手を取った。


引き寄せられるように、ほんの少し距離が近づく。

支えられた拍子に、ローザリアの視線がブルームの顔へ上がった。


ローザリアの青い瞳が、近い距離でブルームの瞳と合う。


一瞬だけ、風の音が遠のいたような気がした。


「……ありがとうございます」

先に声を出したのは、ローザリアだった。


「い、いえ……」

ブルームは慌てて視線を逸らした。

二人とも手を離すタイミングを失っていた。


少し離れたところで、ビアンカが扇の陰で小さく微笑んだ。

ロレンツォが、無言で咳払いをする。


「し、失礼いたしました」

ブルームはようやく我に返り、慌てて手を離した。

「いいえ。助かりました」

ローザリアも少しだけ頬を染め、視線を足元へ落とした。


白い土の上に、気まずい沈黙が落ちる。


ロレンツォが、もう一度だけ咳払いをした。

「……それで、ザルツ君」

低い声に、ブルームの背筋が伸びる。

「先ほどから、何か考えているようだが?」

「は、はい……」


ブルームは一度だけローザリアの方を見た。

ローザリアも、まだ少し赤い顔でこちらを見ている。


ブルームは慌てて視線を荒れ地へ戻した。


「失礼いたしました……もしかすると、この土地の厄介者は、厄介者ではないかもしれません」

ローザリアが振り向く。


「塩があります。この豆も、ただの雑草とは限らない。麦は……ザルツ領から運べます」

「それで、何か作れるのですか?」

「まだ、作れるとは申せません」

ブルームは慎重に言葉を選んだ。


「ですが、古い交易記録に似たものがありました。豆と麦と塩を使い、長く寝かせて作る黒い調味液です」


「黒い、調味液……?」

「はい。記録では、肉や魚の臭みを抑え、野菜の味を深くするとありました。ただ、詳しい作り方までは残っていません」


「この土地から、そんなものが……?」

ローザリアの碧い瞳に、はっきりと光が宿った。


「まだ作れるとは申せません。ですが、試す価値はあります」


ロレンツォは、領主の顔になって荒れ地を見渡した。

「……塩湖を封じるだけではなく、使う道を探す、か」


その声は低く、静かだった。

娘と若い令息を見守る父ではなく、領地と民の暮らしを預かる公爵の声だった。


「ザルツ君。戻ったら、古い帳簿と交易記録を調べさせよう。必要なものがあれば申し出なさい」

「よろしいのですか?」

「君が試す価値があると言うのなら、試せるだけの場は用意しよう」


ブルームは背筋を伸ばし、深く頭を下げた。

「ありがとうございます。できる限りのことをいたします」


その横で、ビアンカはローザリアを見ていた。

「ローザリア」

「はい、お母様」

「今朝より、ずっといい顔をしているわ」


ローザリアは一瞬、言葉に詰まった。 けれどすぐに、荒れ地へ視線を戻す。

「……はい。まだ何も始まっていないのに、不思議ですわ。先ほどまで恐ろしく見えていた土地が、今は少しだけ、違って見えます」


ビアンカは静かに微笑んだ。

「それなら、来てよかったわね」


ロレンツォもまた、娘の横顔を一瞥した。

何も言わなかったが、その目元はほんの少しだけ和らいでいた。



皇城、アレクシス皇子の執務室。


「アグリコーラ公爵令嬢は、公爵領南部の視察へ出ているとのことです」

側近の報告に、アレクシスは書類から顔を上げた。

「視察?」

「はい。ザルツ子爵家の次男を伴っていると」


アレクシスは不快そうに眉を寄せた。

婚約破棄を言い渡せば、ローザリアは泣いて謝り、頭を下げて自分の隣に戻ってくる。

そのはずだった。


それなのに、あの女は田舎令息を連れて、泥まみれの視察に出ているという。


「ローザリアは、意地を張っているだけだ」

アレクシスは、書類の端を指で弾いた。

側近は同意も否定もできず、目を伏せる。

「……少し頭を冷やせば、戻ってくるはずだ」


アレクシスはそう吐き捨てると、再び書類へ視線を落とした。


だが、その文字はもう、ほとんど目に入っていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ