表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/5

第1話 婚約破棄と、農園を笑わない田舎令息

婚約破棄から始まる、農園令嬢と田舎子爵令息の、土と発酵とじれじれ恋愛のお話。


全五話、毎朝7時に投稿予定です。

最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

皇城の回廊は、ザルツ家の屋敷とは比べものにならないほど広かった。

高い天井には精緻な装飾が施され、磨き上げられた大理石の床が、微かな靴音を反響させる。

ブルーム・ザルツは受領印つきの控えを抱え直し、背筋だけはきちんと伸ばした。


(用は済んだ。あとは帰るだけだ。)


農務局に近い小応接室の前を通りかかったとき、扉の向こうから鋭い声が響いた。


「何度言えばわかるんだ! 公爵令嬢が土に触れるなど皇子妃としての自覚がない!」


若い男の声だった。

ブルームは足を止めるつもりはなかった。

だが、続く言葉が耳に入ってしまった。


「畑いじりなど庭師にやらせておけ。泥遊びに時を費やす婚約者を、私がどんな思いで見ていると思っている!」


アレクシス皇子である。

彼は、ローザリアを嫌っていたわけではない。

むしろ、自分の隣にいるべき婚約者が、いつも農園と領地と民の暮らしばかりを見ていることが、許せなかった。

皇子妃とは、民と同じ土に降りる者ではない。

上に立ち、秩序を示す者だ。

アレクシスはそう信じていた。


「殿下」

応じた声は、静かだった。


「畑いじりではありません」

凛と澄んだ声だった。

「土を見ることは、民の暮らしを見ることです。畑が痩せれば、民は飢え、税も納まりません。わたくしは、それを知らぬ皇子妃にはなりたくありません」


廊下で、ブルームは思わず立ち尽くしていた。


変わった令嬢だ、とは思わなかった。

――この方は、土の向こうに、人の暮らしを見ている。

それは、彼が領地で毎日やっていることと、同じだった。


「口答えをするな!」

激昂した声と共に、何かが動く気配がした。

扉はわずかに開いていた。


皇子がローザリアの腕を強く掴んでいる。

ローザリアが身を引く。

苛立った皇子が突き放すように手を離した、その拍子だった。


もともと扉の近くに立っていたローザリアの体が大きくよろめき、開いた扉から廊下へ――。


考えるより先に、ブルームの手が伸びていた。

倒れかけた細い体を、腕で受け止める。

小麦のような金の髪が、目の前でふわりと揺れた。

振り仰いだ瞳は、雲ひとつない青空のような碧だった。


「……お怪我は?」


「ありません。ありがとうございます」


腕の中の令嬢は、すぐに姿勢を正した。

碧い目が一度だけ、わずかに眇められた。

足首。

痛みを堪えている、とブルームには分かった。

だが彼女は、何事もなかったかのように背筋を伸ばしている。


「誰だ、貴様は」


皇子の声が飛んだ。

値踏みするような、見下す目だった。

ブルームは緊張した。

だが、礼だけは崩さなかった。


「ザルツ子爵家の次男、ブルーム・ザルツと申します。農務局への提出書類の件で、皇城へ参っておりました」


「田舎子爵の次男か」

皇子は吐き捨てるように繰り返した。

それからローザリアへ向き直り、勢いのままに言い放った。


「ちょうどいい。ローザリア・アグリコーラ、貴様との婚約は破棄する! そんなに土が好きなら、そこの田舎令息とでも婚約すればいい!」


侮辱のつもりだった。

公爵令嬢に、名も知れぬ田舎子爵家の次男をあてがってやる。

これ以上の屈辱はあるまい――皇子は、そう信じて疑わなかった。


ローザリアは、ほんの一瞬だけ瞼を伏せた。

傷つかなかったわけではない。

けれど、皇子に縋る言葉は出てこなかった。


ただ、隣で自分を支えている青年を巻き込んでしまったことにだけ、わずかな申し訳なさが胸をよぎった。


「お嬢様!」

騒ぎを聞きつけ、控えていた侍女が駆け込んできた。

ローザリア付きの侍女、スージーである。

彼女は主の顔色と、かすかに右足を庇う仕草を見て、すべてを察した。



皇子は側近の制止も聞かず、荒い足音を残して去っていった。


スージーはためらいなく、ブルームへ頭を下げた。


「恐れ入ります。お嬢様を馬車までお支えいただけますでしょうか」

ブルームは一瞬、ためらった。


相手は公爵令嬢である。

自分とは、家格が違いすぎる。

だが、彼女は足を痛めている。

ブルームは黙って一礼し、必要以上に距離を詰めぬまま、腕を貸した。


ローザリアは気丈に歩いた。

ブルームは「大丈夫ですか」とは聞かなかった。

何度も聞かれる方が、この方には辛いだろうと思ったからだ。

ただ、彼女の歩幅に、自分の歩幅を合わせた。


婚約破棄。

それも、あのような言葉で。

傷ついていないはずがない。

だが、その横顔には何の色も浮かんでいなかった。

ブルームはそれに気づいたが、不用意な慰めは口にしなかった。


馬車の前まで来たところで、スージーが再び頭を下げた。


「公爵閣下へのご報告のため、恐れ入りますが、屋敷までご同行願えませんでしょうか。私も同乗いたします」


断れる空気ではなかった。

というより、目撃者として、ここで断る方が不誠実だと、ブルームにも分かった。



アグリコーラ公爵邸に着いたとき、ブルームは一度だけ、静かに息を呑んだ。

ザルツ家の屋敷も、貴族家として恥ずかしいものではない。

だが、アグリコーラ公爵家の屋敷は、屋敷というより小さな城だった。


「平気です」と言い張るローザリアは、スージーに押し切られて医務室へ連れて行かれた。


残されたブルームは、ほどなく現れた執事に案内され、公爵のもとへ向かうことになった。


執事の態度は、終始丁重だった。

丁重すぎて、断る隙がない。

本人の感覚としては、ほぼ連行である。


通されたのは、公爵の執務室だった。


アグリコーラ公爵は、重厚な机の向こうに座っていた。

ブルームが入室すると、公爵は静かに立ち上がった。


「ザルツ子爵家の次男、ブルーム・ザルツと申します」

名乗って頭を下げたブルームに、公爵はゆっくりと頷いた。

そして、わずかに頭を下げる。


「閣下……!?」

「娘を助けてくれたそうだな。父として礼を言う」

「い、いえ。どうか、お顔をお上げください」


公爵に頭を下げられるなど、田舎子爵家の次男には心臓に悪い。

ブルームは慌てて背筋を伸ばした。

公爵はその反応を責めるでもなく、淡々と席を示した。


「皇城で何があったか、聞かせてくれ」

ブルームは、見たことだけを話した。

誇張はせず、皇子を必要以上に悪く言わず、ローザリアを庇って話を盛りもしなかった。


ただ、皇子が婚約破棄を宣言したことを告げた瞬間、公爵の指が机の上でぴたりと止まった。


「……婚約破棄、と。殿下は確かに、そう仰せになったのだな」

「はい。私が聞いた限りでは、そのように」

「分かった。続けなさい」


ブルームが皇子の最後の言葉を伝えると、公爵は一瞬だけ目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。


やがて執事が茶と焼き菓子を運んできた。


「それは、ローザリアの農園で採れたものを使わせたものだ」

説明したのは、公爵だった。

その口ぶりに、恥じる響きはかけらもなかった。


娘の育てた作物を客人に振る舞うことを、この父は当然のこととしている。

一口食べて、ブルームは動きを止めた。


「……南瓜ですか?」

「分かるのかね」

「はい。甘みが強いですが、香りが残っています。よく熟したものを使われたのだと思います」


公爵の目に、わずかな興味が宿った。

この人は、娘の農園を恥じていない。


ブルームはそのことに、なぜか少しだけ、ほっとした。



手当てを終えたローザリアが、スージーを伴って戻ってきた。

足首は軽く挫いた程度で、歩けはするが、少しだけ庇っている。


「先ほどは、ありがとうございました」


ローザリアは改めて礼を述べたあと、静かに名乗った。

「ローザリア・アグリコーラです。どうぞ、ローザリアとお呼びくださいませ」


ブルームは一瞬だけ戸惑った。

公爵令嬢を名で呼ぶなど、自分のような田舎子爵家の次男には恐れ多い。

だが、彼女の青い瞳はまっすぐだった。


「ザルツ子爵家の次男、ブルーム・ザルツと申します。では、ローザリア様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」


「ええ。もちろんです。ブルーム様とお呼びしてもいいでしょうか?」

「はい。光栄です」


その後、ローザリアは卓上の菓子が自分の南瓜だと知ると、思わずブルームの感想を求めた。

ブルームは、南瓜の熟し方や貯蔵の仕方を、実家での扱いを交えて少しだけ話した。


ローザリアは、まだ少し痛む足首を意識しながら、南瓜の香りを語る青年の言葉に耳を傾けていた。


――皇子殿下は、泥遊びだと言った。

けれど、この人は南瓜の香りを確かめ、熟し方を語っている。


まるで、わたくしの農園で採れたものを、令嬢の遊びではなく、一つの作物として見ているかのように。


気づけば、言葉が口をついていた。


「ブルーム様。よろしければ、わたくしの農園を見ていただけませんか?」


公爵は少しだけ呆れた顔をした。

しかし、娘の足元へ一度だけ視線を落とすと、何も言わずに頷いた。


娘がようやく前を向いたのを、止める気にはなれなかったのだ。



案内されたのは、公爵邸の裏庭の一角だった。

整えられた畝が並び、支柱には蔓が伸びている。


「立派な菜園ですね」

感心したようにブルームが言うと、ローザリアはすぐに振り向いた。

「菜園ではありません。農園です」

その声は、先ほど皇子に向けたものよりも、ずっと柔らかかった。

けれど、訂正だけは譲らない。


見ると、入口には小さな木の看板が立っていた。

そこには、丁寧な字でこう書かれている。


『ローザリアの農園』


「……失礼いたしました。これは、農園ですね」


ブルームが真面目な顔で言い直すと、ローザリアの表情が、ほんの少しだけ誇らしげになった。

「ええ。まだ小さな農園ですけれど」

ローザリアは表情を綻ばせてそう言うと、畝の並ぶ方へ視線を向けた。


「はじめのうちは、葉野菜や根菜もきちんと育っていたのです。収穫も、少しずつですができていました」

そこで、ローザリアは眉を寄せた。


「ですが、最近はうまくいきませんの。根が細くて、葉ばかり茂って。同じ場所だけ、何を植えても育ちません。水はけも悪くなって、収穫も落ちています」


真剣な説明だった。

ブルームも、真剣に聞いた。

そして返事の代わりに畝の間へ入り、しゃがみこんだ。


公爵邸では硬かった男の背中から、ふっと力みが抜けていた。


土を一握り取る。

指で崩す。

湿り気を確かめ、匂いを嗅ぐ。

育ちの良い畝と悪い畝を、黙って見比べる。

その手つきには、一切の迷いがなかった。


やがて、ブルームは言った。

「土が、少し疲れていますね」

ローザリアは目を丸くした。

「……疲れるのですか? 土が?」

「はい。人と同じです。同じものばかり育てさせれば、弱ってしまいます」

ブルームは畝の端に視線を移した。


「まずは、育ちの悪い場所を一度休ませた方がよいでしょう。白詰草を植えて、土を少し養うのです。それから、同じ野菜ばかりではなく、根菜、葉野菜、豆類を順に替えて植えていくのです」


「白詰草を……?」


「はい。畑を休ませている間に育てる草です。花が咲いたら刈り取って、土に戻してやる。そうすれば、少しずつ土が力を取り戻します」


「同じ野菜ばかり続けては、いけませんの?」


「避けた方がよいですね。土にも、得手不得手があります。一つの野菜を植えたあとに、次に何を植えるかで、次の育ち方が変わります。水はけの悪いところは、畝を少し高くした方がいいですね」


ブルームは土を指で崩しながら、穏やかに続けた。


「作物が悪いわけではありません。ローザリア様の手入れが間違っていた、と言いたいわけでもありません。ただ、土を少し休ませて、使い方を変えてやればいいのです」


ローザリアは、土を見つめるブルームの横顔から、目を離せなかった。


――皇子殿下は、土を汚れたもののように言った。

けれど、この人は「土が疲れている」と言った。

まるで、土にも休ませ、労わるべき命があるかのように。


この人は、わたくしの農園を笑わない。

本気で、農園として見てくれている。


胸の奥で固く結ばれていた何かが、静かにほどけていくのを感じた。

同時に、ローザリアは気づいてしまった。


自分はもう、農園を泥遊びと呼ぶ人の隣には立てないのだと。


その表情が、ほんの少しやわらぐ。


顔を上げたブルームは、その表情から、なぜか目を逸らすのが遅れた。

慌てて土へ視線を戻す。

理由は、自分でもよく分からなかった。



ブルームはさらに、育ちの悪い畝の土を確かめていった。

そして指先に残った土を見つめ、それから、ごくわずかに舌先で確かめた。

味わうためではない。土の偏りを見るための、慣れた者だけがする見立てだった。


「……やはり、少し偏っていますね」

ローザリアの目が、輝いた。

「舌で分かるのですか?」

「まあ多少は……しかし、これは慣れた者が、状態を選んで確かめるだけで――」

「では、わたくしも」


白い手が、迷いなく土へ伸びた。

真剣そのものの顔だった。

「ローザリア様、お待ちください!」

ブルームは血相を変え、反射的に声を上げた。

伸びかけたローザリアの手が、土の上でぴたりと止まる。


「公爵家のご令嬢が土を口にするなど、あってはなりません! それに、これは、その……慣れた者が状態を選んで確かめるものでして、むやみに真似をしてよいものでは……!」

「ですが、わたくしの農園ですもの」

「お気持ちは分かります。ですが、ローザリア様がなさる必要はございません」

「わたくしの土ですのに……」

「私が確かめますから!」


ローザリアは不満げに手を引っ込めた。

それでも土を見つめる碧い目は、まだ諦めていない。

その手がもう一度、そっと土へ――。

「ローザリア様、それはおやめください!」


皇子の前でも声を荒らげなかった田舎令息が、その日初めて、ひどく慌てた声を出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
〉「それは、ローザリアの農園で採れた南瓜を使わせたものだ」 〉一口食べて、ブルームは動きを止めた。 「……南瓜ですか?」 「分かるのかね」 南瓜を使ったものと言ったあとに「南瓜ですか?」「分かる…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ