第1話 婚約破棄と、農園を笑わない田舎令息
婚約破棄から始まる、農園令嬢と田舎子爵令息の、土と発酵とじれじれ恋愛のお話。
全五話、毎朝7時に投稿予定です。
最後までお付き合いいただけましたら幸いです。
皇城の回廊は、ザルツ家の屋敷とは比べものにならないほど広かった。
高い天井には精緻な装飾が施され、磨き上げられた大理石の床が、微かな靴音を反響させる。
ブルーム・ザルツは受領印つきの控えを抱え直し、背筋だけはきちんと伸ばした。
(用は済んだ。あとは帰るだけだ。)
農務局に近い小応接室の前を通りかかったとき、扉の向こうから鋭い声が響いた。
「何度言えばわかるんだ! 公爵令嬢が土に触れるなど皇子妃としての自覚がない!」
若い男の声だった。
ブルームは足を止めるつもりはなかった。
だが、続く言葉が耳に入ってしまった。
「畑いじりなど庭師にやらせておけ。泥遊びに時を費やす婚約者を、私がどんな思いで見ていると思っている!」
アレクシス皇子である。
彼は、ローザリアを嫌っていたわけではない。
むしろ、自分の隣にいるべき婚約者が、いつも農園と領地と民の暮らしばかりを見ていることが、許せなかった。
皇子妃とは、民と同じ土に降りる者ではない。
上に立ち、秩序を示す者だ。
アレクシスはそう信じていた。
「殿下」
応じた声は、静かだった。
「畑いじりではありません」
凛と澄んだ声だった。
「土を見ることは、民の暮らしを見ることです。畑が痩せれば、民は飢え、税も納まりません。わたくしは、それを知らぬ皇子妃にはなりたくありません」
廊下で、ブルームは思わず立ち尽くしていた。
変わった令嬢だ、とは思わなかった。
――この方は、土の向こうに、人の暮らしを見ている。
それは、彼が領地で毎日やっていることと、同じだった。
「口答えをするな!」
激昂した声と共に、何かが動く気配がした。
扉はわずかに開いていた。
皇子がローザリアの腕を強く掴んでいる。
ローザリアが身を引く。
苛立った皇子が突き放すように手を離した、その拍子だった。
もともと扉の近くに立っていたローザリアの体が大きくよろめき、開いた扉から廊下へ――。
考えるより先に、ブルームの手が伸びていた。
倒れかけた細い体を、腕で受け止める。
小麦のような金の髪が、目の前でふわりと揺れた。
振り仰いだ瞳は、雲ひとつない青空のような碧だった。
「……お怪我は?」
「ありません。ありがとうございます」
腕の中の令嬢は、すぐに姿勢を正した。
碧い目が一度だけ、わずかに眇められた。
足首。
痛みを堪えている、とブルームには分かった。
だが彼女は、何事もなかったかのように背筋を伸ばしている。
「誰だ、貴様は」
皇子の声が飛んだ。
値踏みするような、見下す目だった。
ブルームは緊張した。
だが、礼だけは崩さなかった。
「ザルツ子爵家の次男、ブルーム・ザルツと申します。農務局への提出書類の件で、皇城へ参っておりました」
「田舎子爵の次男か」
皇子は吐き捨てるように繰り返した。
それからローザリアへ向き直り、勢いのままに言い放った。
「ちょうどいい。ローザリア・アグリコーラ、貴様との婚約は破棄する! そんなに土が好きなら、そこの田舎令息とでも婚約すればいい!」
侮辱のつもりだった。
公爵令嬢に、名も知れぬ田舎子爵家の次男をあてがってやる。
これ以上の屈辱はあるまい――皇子は、そう信じて疑わなかった。
ローザリアは、ほんの一瞬だけ瞼を伏せた。
傷つかなかったわけではない。
けれど、皇子に縋る言葉は出てこなかった。
ただ、隣で自分を支えている青年を巻き込んでしまったことにだけ、わずかな申し訳なさが胸をよぎった。
「お嬢様!」
騒ぎを聞きつけ、控えていた侍女が駆け込んできた。
ローザリア付きの侍女、スージーである。
彼女は主の顔色と、かすかに右足を庇う仕草を見て、すべてを察した。
◇
皇子は側近の制止も聞かず、荒い足音を残して去っていった。
スージーはためらいなく、ブルームへ頭を下げた。
「恐れ入ります。お嬢様を馬車までお支えいただけますでしょうか」
ブルームは一瞬、ためらった。
相手は公爵令嬢である。
自分とは、家格が違いすぎる。
だが、彼女は足を痛めている。
ブルームは黙って一礼し、必要以上に距離を詰めぬまま、腕を貸した。
ローザリアは気丈に歩いた。
ブルームは「大丈夫ですか」とは聞かなかった。
何度も聞かれる方が、この方には辛いだろうと思ったからだ。
ただ、彼女の歩幅に、自分の歩幅を合わせた。
婚約破棄。
それも、あのような言葉で。
傷ついていないはずがない。
だが、その横顔には何の色も浮かんでいなかった。
ブルームはそれに気づいたが、不用意な慰めは口にしなかった。
馬車の前まで来たところで、スージーが再び頭を下げた。
「公爵閣下へのご報告のため、恐れ入りますが、屋敷までご同行願えませんでしょうか。私も同乗いたします」
断れる空気ではなかった。
というより、目撃者として、ここで断る方が不誠実だと、ブルームにも分かった。
◇
アグリコーラ公爵邸に着いたとき、ブルームは一度だけ、静かに息を呑んだ。
ザルツ家の屋敷も、貴族家として恥ずかしいものではない。
だが、アグリコーラ公爵家の屋敷は、屋敷というより小さな城だった。
「平気です」と言い張るローザリアは、スージーに押し切られて医務室へ連れて行かれた。
残されたブルームは、ほどなく現れた執事に案内され、公爵のもとへ向かうことになった。
執事の態度は、終始丁重だった。
丁重すぎて、断る隙がない。
本人の感覚としては、ほぼ連行である。
通されたのは、公爵の執務室だった。
アグリコーラ公爵は、重厚な机の向こうに座っていた。
ブルームが入室すると、公爵は静かに立ち上がった。
「ザルツ子爵家の次男、ブルーム・ザルツと申します」
名乗って頭を下げたブルームに、公爵はゆっくりと頷いた。
そして、わずかに頭を下げる。
「閣下……!?」
「娘を助けてくれたそうだな。父として礼を言う」
「い、いえ。どうか、お顔をお上げください」
公爵に頭を下げられるなど、田舎子爵家の次男には心臓に悪い。
ブルームは慌てて背筋を伸ばした。
公爵はその反応を責めるでもなく、淡々と席を示した。
「皇城で何があったか、聞かせてくれ」
ブルームは、見たことだけを話した。
誇張はせず、皇子を必要以上に悪く言わず、ローザリアを庇って話を盛りもしなかった。
ただ、皇子が婚約破棄を宣言したことを告げた瞬間、公爵の指が机の上でぴたりと止まった。
「……婚約破棄、と。殿下は確かに、そう仰せになったのだな」
「はい。私が聞いた限りでは、そのように」
「分かった。続けなさい」
ブルームが皇子の最後の言葉を伝えると、公爵は一瞬だけ目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。
やがて執事が茶と焼き菓子を運んできた。
「それは、ローザリアの農園で採れたものを使わせたものだ」
説明したのは、公爵だった。
その口ぶりに、恥じる響きはかけらもなかった。
娘の育てた作物を客人に振る舞うことを、この父は当然のこととしている。
一口食べて、ブルームは動きを止めた。
「……南瓜ですか?」
「分かるのかね」
「はい。甘みが強いですが、香りが残っています。よく熟したものを使われたのだと思います」
公爵の目に、わずかな興味が宿った。
この人は、娘の農園を恥じていない。
ブルームはそのことに、なぜか少しだけ、ほっとした。
◇
手当てを終えたローザリアが、スージーを伴って戻ってきた。
足首は軽く挫いた程度で、歩けはするが、少しだけ庇っている。
「先ほどは、ありがとうございました」
ローザリアは改めて礼を述べたあと、静かに名乗った。
「ローザリア・アグリコーラです。どうぞ、ローザリアとお呼びくださいませ」
ブルームは一瞬だけ戸惑った。
公爵令嬢を名で呼ぶなど、自分のような田舎子爵家の次男には恐れ多い。
だが、彼女の青い瞳はまっすぐだった。
「ザルツ子爵家の次男、ブルーム・ザルツと申します。では、ローザリア様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「ええ。もちろんです。ブルーム様とお呼びしてもいいでしょうか?」
「はい。光栄です」
その後、ローザリアは卓上の菓子が自分の南瓜だと知ると、思わずブルームの感想を求めた。
ブルームは、南瓜の熟し方や貯蔵の仕方を、実家での扱いを交えて少しだけ話した。
ローザリアは、まだ少し痛む足首を意識しながら、南瓜の香りを語る青年の言葉に耳を傾けていた。
――皇子殿下は、泥遊びだと言った。
けれど、この人は南瓜の香りを確かめ、熟し方を語っている。
まるで、わたくしの農園で採れたものを、令嬢の遊びではなく、一つの作物として見ているかのように。
気づけば、言葉が口をついていた。
「ブルーム様。よろしければ、わたくしの農園を見ていただけませんか?」
公爵は少しだけ呆れた顔をした。
しかし、娘の足元へ一度だけ視線を落とすと、何も言わずに頷いた。
娘がようやく前を向いたのを、止める気にはなれなかったのだ。
◇
案内されたのは、公爵邸の裏庭の一角だった。
整えられた畝が並び、支柱には蔓が伸びている。
「立派な菜園ですね」
感心したようにブルームが言うと、ローザリアはすぐに振り向いた。
「菜園ではありません。農園です」
その声は、先ほど皇子に向けたものよりも、ずっと柔らかかった。
けれど、訂正だけは譲らない。
見ると、入口には小さな木の看板が立っていた。
そこには、丁寧な字でこう書かれている。
『ローザリアの農園』
「……失礼いたしました。これは、農園ですね」
ブルームが真面目な顔で言い直すと、ローザリアの表情が、ほんの少しだけ誇らしげになった。
「ええ。まだ小さな農園ですけれど」
ローザリアは表情を綻ばせてそう言うと、畝の並ぶ方へ視線を向けた。
「はじめのうちは、葉野菜や根菜もきちんと育っていたのです。収穫も、少しずつですができていました」
そこで、ローザリアは眉を寄せた。
「ですが、最近はうまくいきませんの。根が細くて、葉ばかり茂って。同じ場所だけ、何を植えても育ちません。水はけも悪くなって、収穫も落ちています」
真剣な説明だった。
ブルームも、真剣に聞いた。
そして返事の代わりに畝の間へ入り、しゃがみこんだ。
公爵邸では硬かった男の背中から、ふっと力みが抜けていた。
土を一握り取る。
指で崩す。
湿り気を確かめ、匂いを嗅ぐ。
育ちの良い畝と悪い畝を、黙って見比べる。
その手つきには、一切の迷いがなかった。
やがて、ブルームは言った。
「土が、少し疲れていますね」
ローザリアは目を丸くした。
「……疲れるのですか? 土が?」
「はい。人と同じです。同じものばかり育てさせれば、弱ってしまいます」
ブルームは畝の端に視線を移した。
「まずは、育ちの悪い場所を一度休ませた方がよいでしょう。白詰草を植えて、土を少し養うのです。それから、同じ野菜ばかりではなく、根菜、葉野菜、豆類を順に替えて植えていくのです」
「白詰草を……?」
「はい。畑を休ませている間に育てる草です。花が咲いたら刈り取って、土に戻してやる。そうすれば、少しずつ土が力を取り戻します」
「同じ野菜ばかり続けては、いけませんの?」
「避けた方がよいですね。土にも、得手不得手があります。一つの野菜を植えたあとに、次に何を植えるかで、次の育ち方が変わります。水はけの悪いところは、畝を少し高くした方がいいですね」
ブルームは土を指で崩しながら、穏やかに続けた。
「作物が悪いわけではありません。ローザリア様の手入れが間違っていた、と言いたいわけでもありません。ただ、土を少し休ませて、使い方を変えてやればいいのです」
ローザリアは、土を見つめるブルームの横顔から、目を離せなかった。
――皇子殿下は、土を汚れたもののように言った。
けれど、この人は「土が疲れている」と言った。
まるで、土にも休ませ、労わるべき命があるかのように。
この人は、わたくしの農園を笑わない。
本気で、農園として見てくれている。
胸の奥で固く結ばれていた何かが、静かにほどけていくのを感じた。
同時に、ローザリアは気づいてしまった。
自分はもう、農園を泥遊びと呼ぶ人の隣には立てないのだと。
その表情が、ほんの少しやわらぐ。
顔を上げたブルームは、その表情から、なぜか目を逸らすのが遅れた。
慌てて土へ視線を戻す。
理由は、自分でもよく分からなかった。
◇
ブルームはさらに、育ちの悪い畝の土を確かめていった。
そして指先に残った土を見つめ、それから、ごくわずかに舌先で確かめた。
味わうためではない。土の偏りを見るための、慣れた者だけがする見立てだった。
「……やはり、少し偏っていますね」
ローザリアの目が、輝いた。
「舌で分かるのですか?」
「まあ多少は……しかし、これは慣れた者が、状態を選んで確かめるだけで――」
「では、わたくしも」
白い手が、迷いなく土へ伸びた。
真剣そのものの顔だった。
「ローザリア様、お待ちください!」
ブルームは血相を変え、反射的に声を上げた。
伸びかけたローザリアの手が、土の上でぴたりと止まる。
「公爵家のご令嬢が土を口にするなど、あってはなりません! それに、これは、その……慣れた者が状態を選んで確かめるものでして、むやみに真似をしてよいものでは……!」
「ですが、わたくしの農園ですもの」
「お気持ちは分かります。ですが、ローザリア様がなさる必要はございません」
「わたくしの土ですのに……」
「私が確かめますから!」
ローザリアは不満げに手を引っ込めた。
それでも土を見つめる碧い目は、まだ諦めていない。
その手がもう一度、そっと土へ――。
「ローザリア様、それはおやめください!」
皇子の前でも声を荒らげなかった田舎令息が、その日初めて、ひどく慌てた声を出した。




