第二十九話「獅心」
長いため息をついて、銀は日記を閉じた。
「ったく、怨むわけねーだろ母ちゃん。どーでもいい心配しやがって」
ごく当たり前に『母』と呼ぶ。思わず笑みがこぼれていた。
「オレが夢に見てたのは、イリスに似た誰かじゃなくて本人だったのかもしれねえんだな。あいつの一部だった頃のことを無意識の内に思い出してたってとこか」
「何言ってるの、銀」
わけが解らない、と言いたげに首をかしげる鉄。
「要するに、おまえはオレの妹だってこった。もっとも、直接の血のつながりはないらしいけどな」
「銀、鉄のお兄ちゃん?」
「ああ。それと、おまえの本名は『桂』って言うらしいぞ」
「けい?」
「ああ」
「鉄は……桂? 桂も……鉄?」
「ワケのわかんねー混乱の仕方してんじゃねーよ」
首をかしげる少女の頭をぱかんと殴り、銀はドアに歩み寄った。
「来な。腹減ったからおまえの分のメシもついでに作ってや――」
言いかけて、床に崩れ落ちる。
「ぐ……あ……ッ!」
また、発作だった。やはり、イリスに分けてもらった分の生命力はあのときに使い切ってしまっていたらしい。
「銀、大丈夫?」
「……ああ」
何とか立ち直ると、銀は改めて鉄を伴い台所へとやって来た。
「……自炊は久しぶりだな」
しばらくイリス専用も同然の状態にあったエプロンをかけ、呟く。
実質上の一人暮らしは長かった。銀とて、決して料理ができないわけではないのだ。
少し――難があるだけで。
「できたぞー」
食卓についていた鉄の前に、皿を置く。コンビーフとキャベツを適当に和え、炒めたものだ。
「ん」
「こら」
いきなり箸を伸ばそうとした鉄に銀チョップ。
「?」
「ぐあ――痛え!」
反動が全身の傷を走り抜ける痛みに悶えて、何とか立ち直り、毒づく。
「ちゃんといただけ、このボケ。――いただきます」
「……いただきます」
手を合わせた銀にならって鉄も手を合わせ、食事を始める。
「あら……影山様、鉄様」
目を覚まし、匂いをかぎつけでもしたのだろう、ベルンが姿を現した。
「申し訳ございません、至りませんで」
「ん? ああ、別に料理までしてもらわなくてもいいんだぜ? オレやこいつの手当てで疲れてたろうし」
「ですが……それでは御主人様に申し訳が立ちません」
「ったく、堅っ苦しいやつだな。せっかくだからおまえも食ってけよ」
「ありがとうございます。では……」
と、ベルンは別の皿を持ってきた。
「何してんだ?」
「はい、分けていただいているところですが」
「何で分けんだ?」
「御主人様の認められた方と一緒に食事など、そんな畏れ多いことはできませんわ」
「……いいから食え。ここで」
「は……はい」
言われて、ベルンはおとなしく食卓につき、銀の料理を口に運んだ。
とたん――彼女は蒼ざめ、ぱたりと食卓に突っ伏した。
「……? 失礼な奴だなー、オレの料理そんなに食いたくなかったのか? なあ?」
「ん。ベルン、変」
相変わらずの無表情で口を動かしながら、賛同する鉄。
銀の料理にある難――それは、例えどんな食材を使っても、完成品は破壊的に不味いという、忌まわしい奇跡。
「今までにオレの手料理食った奴って、みんな気絶するか体調崩すかしてたんだぜ? 失礼だよな」
しかも、作る当人はちゃんとしっかり味見をしている。基本的に何でも食べられるため、それが世間一般で言う「不味い」ものだと気付いていないのだ。
いや、銀にとって不味いものなどこの世に存在しない、と表現した方が正確かも知れない。彼の味覚が感知できる範囲は、上にも下にも限りと言うものがないのだ。
「ん」
無自覚な銀のぼやきに頷き、賛意を示す鉄。
食事は続いた――不運な犠牲者一名を放置して。
夜のとばりが下り……闇に紛れて水音さえし始めた。
「変身したら、武器はかえって邪魔だからな」
ヴァルターに〈紅啼〉を渡し、銀は言った。
「返すつもりなら……受け取れぬな」
ヴァルターは腕組みをしたまま剣の返却を拒んだ。
「なんでだ?」
「それは、我よりも貴公を認めた。ゆえに正当な所有者は貴公なり。預かることしかできぬ」
「なら、預かってくれよ」
言って銀は〈紅啼〉を渡したが、取り返しに戻るつもりなど最初からない。ただの方便だ。
「承知」
「さて、行くか」
振り返ると、銀は傍らに声をかけた。
「ん」
頷き、立ち上がる鉄。
マーキュリー本拠への強襲、ゴルドーの撃破。そして――イリスの解放。
今朝の発作に際して、もう自分が長くないことを悟った銀が導き出した回答だった。
元々自分はイリスのために生まれたのだ、いずれは正気を失ってしまうというなら、せめてその前に、イリスを始め、自分や鉄を縛る因縁に決着をつけておかなくては。
美祈の遺した資料や、鉄、ナァク、ヴァルター、ベルンのもたらした情報によって、それが富士山麓、青木ヶ原樹海にあることは判っている。
「……土砂降りだな」
玄関のドアを開け、銀は呟いた。
「雨が降らねば虹は出ぬぞ」
「おまえ……案外詩人だったんだな」
「いいから早く行け」
感心したように呟いた銀に、ヴァルターは憮然とした表情で応えた。
「言われなくても。頼むぜ、鉄」
「ん」
銀の言葉を受けて頷いた鉄の体から、青銀の輝きが立ち昇った。次の瞬間――白い精霊が顕現する。
銀の手をつかむと、エンキは、濡れた宵闇の向こうへと即座に飛び立った。
ゴルドーは床に複雑な紋様を持つ法円の描かれた部屋に一人佇んでいた。唯一の明かりである蝋燭の灯が、その彫りの深い顔立ちを闇の中に浮かび上がらせる。
不意に、部屋の隅にあった端末が声を発した。
「総裁」
「何だね? 彼女の搬入の用意が整ったのかね?」
「いえ……。休眠状態にあった体組織が、再び活性化を始めました。石化が解除されつつあります」
「ほう?」
と、興味深げに眉を上げたときだった。
施設内に警報音が鳴り響いた。
『敵性体侵攻。交戦中の警備班より増援要請』
「敵性体……このタイミングは……ほほう……あの実験動物、生きていたのか」
ゴルドーは笑みを深め、顎に手をやった。
「面白い……実に面白いぞ」
うっそうたる夜の森林に投下された漆黒の砲弾は、着弾するなり高速で一直線に移動を始めた。
例え風や雨粒に揺れる葉、罪のない小動物であろうと、動く物が視界に入れば、それは放たれる紅い投槍によって一瞬後消し炭と化す。
ほどなく、疾走する漆黒の攻撃者――銀は、異形の兵士たちの歓迎を受けた。
だが、彼らは、ただの一人も、その行く手を阻むことはできなかった。
砕かれ、千切られ、貫かれ、もぎ取られ、引き裂かれ、果ては消し炭に変えられ、と一切の容赦を欠いた猛攻の前に、十秒と立っていられなかったのである。
恐らくは吸血衝動を無理に押さえ込んでいた反動なのだろう、今の銀には、自身の奥底から沸き上がるドス黒い攻撃衝動に対する抑えが利かなかった。
変身して降下した直後から、全身が疼いていた。それは、イリスが生きているという直感的な確信につながる。
イリスがどこにいるか、意識するまでもなく判っていた。
「邪魔だっ、オレの邪魔すんじゃねえぇぇぇえッ!!」
黒い凶風が通過した後には、炭、血、肉、そしてわずかな呻き声しか残らなかった。
(――気配がする)
(彼の気配がする)
(近付いている)
(彼は――生きている)
感じたとたん、むせた。
気管支に液体が流れ込んでくる。
もがきながら目を開けると、イリスは自分が裸で、透明な円筒形の培養槽の中にいることに気付いた。
暴れるより前に培養槽内部の液体が排出され、見る間に水位が下がってゆく。
「げっ、げほっ、がはっ! う……おふっ」
飲み込んでいた液体を吐き出し、酸欠を解消するように細い肩を大きく上下させる。
「こ……ここ……は……」
「マーキュリーの研究施設」
ほとんど他人の声にすら聞こえる自問に、応えがあった。
「!」
いつか銀と闘っていた、白いフォルティスが、制御卓の前に佇んでいた。
気が付いてみると、部屋はひどく荒れている。イリスが目覚める前に、相当の修羅場が演じられたものらしい。
「あなたは……?」
手近に脱ぎ捨てられていた白衣を羽織りながら、問う。
「鉄。銀の妹」
答えるなり、フォルティスは変身を解いた。髪の短い、猫のような造作の少女の姿で、イリスを改めて見つめる。
「あなただったの、桂」
「行こ、イリス」
言うなり、鉄はイリスの手を引いて歩き出そうとする。
「え……銀は?」
「変身して暴れてる。今度こそ何をするか判らないから、イリスには会えないし、助けられないって。だから、鉄が代わりにイリスのところへ来た」
「もう……ばかっ! 何も私と同じようなことしなくてもいいじゃない!」
鉄の手を振り払い、イリスは走り出していた。




