第二十四話「疎外」
鳥の声が聞こえる。閉じたまぶたの向こうで、カーテンの隙間から射し込んで来ている朝日がまぶしい。
何だか、すうすうと涼しい。
まるで、服を着ていないような――。
「あ」
気が付いてみれば、実際裸だった。
昨夜の一連の出来事を思い出し、銀は真っ赤になった。吸血衝動が起きなくなったのはいいが……。
「やっちまった……」
これから、一体どんな顔をして、イリスに接していけばいいのだろう?
色々と悩みかけた銀だったが、自分が裸だということを思い出し、とりあえずベッドの周囲を見回した。
探すまでもなく、脱ぎ捨てたはずの銀の服は、ベッドの脇に丁寧にたたまれて、置いてあった。
「……つくづく芸の細けーやつ……」
改めて感心し、呟くと、ベッドを抜け出し、手を伸ばす。そして、それとほぼ同時に、部屋のドアが開いた。
「銀、目は覚め――」
「げ」
ドアを開けた姿勢のまま、固まったイリスの目の前で、これまた固まった銀の腰から、タオルケットがすべり落ちた。
静寂が、その場に降りる。
「……朝だものね」
「……ッ!」
顔を赤らめて視線を逸らし気味にイリスが発した言葉の意味を理解し、銀もまた改めて真っ赤になった。
今、彼の下半身は、男性特有の朝の生理現象で、かなりまずいことになっている。
「でっ、デリカシーねーのかてめーはぁっ!」
あわててタオルケットを拾い上げて腰に巻きつけ、怒鳴る。
「あ……っ、ご、ごめんなさい。食卓で待っているから」
詫びて手短に用件を伝えると、イリスは身を翻し、部屋を後にした。
「ったく……」
ぼやきつつ頭をぽりぽり掻き、息を吐くと、頬を緩める。
今のやりとりで、すっかり肩の力が抜けていた。
そんなに難しく考える必要はなかったのかも知れない。一晩で人間関係ががらりと変わるわけもないし、それなりに解り合えているのだから。
ふと、一晩、という発想から何気なく両手を見下ろし、わきわきと指を動かすと、ある感触がすぐさま蘇った。
「……うわ、オレのバカバカバカっ!」
同様に脳裡に蘇った映像に、また煩悩がむくむくと頭をもたげてきたのを感じ、銀は頭を何度も壁に打ちつけた。
数分ほど後、額から血を流しながら降りてきた銀の姿に、イリスが驚いたのは言うまでもない。
「は、離せよ」
「い・や・よ。まんざらでもないくせに。もう少し素直になったら?」
銀の腕をとり、胸に抱いて、隣を歩きながら、イリスはいたずらっぽい笑みを浮かべて見せた。最初の頃と比べると、随分表情が明るくなったものだ。
「るっせーな……」
反論にも、力はない。腕に押し付けられている弾力が、やっぱり気持ちいいのだ。鼻の下が伸びず、赤面するだけで済んでいるあたりは僥倖と言えよう。
朝食を終えた後、銀はイリスのたっての希望で、街へと出てきていた。
「やっぱり、人の集まるところはいいものね」
一通り様々な店を巡り、手近な飲食店に腰を落ち着けると、イリスは人通りの多さに目を細めた。
もっとも、竹刀袋を背負った高校生と、異国の神秘的な美女、という、異色のカップルに対する野次馬が周囲に集中しているだけで、実際にはさほど多くないのだが。
ちなみに、背中の竹刀袋には西洋剣〈紅啼〉が入っている。木刀こそ失われてしまったが、長年の習慣ゆえ、銀は背に少しでも重みを感じていないと不安なのだ。
「おまえにしてみりゃ、人ごみなんか回転寿司もいいとこだろーからな」
さっそく旺盛な食欲を発揮していた銀が、そんな野暮なあいづち相槌を打った。
「一皿いくらの安物に興味はないわ。目の前の一品だけでお腹いっぱいよ」
「そっか……」
照れのない台詞に、返す言葉がない。
それからしばらくの間、黙って銀の食事を見守っていたイリスが、不意に口を開いた。
「十日……そう、十日だけ待ってね、銀」
「……?」
事情を理解できない上、口の中に食べ物が詰まっていることもあって、彼女を見つめ返すことしかできない銀。
「あと十日で、月は完全に消え、私の力が満ちる、新月が来るわ。そうすれば、銀を、いくら力を使っても血を吸う必要のない体にしてあげることができる」
「……ふーん。じゃ、そのときはよろしくな」
ようやく口の中のものを飲み下して、それだけ言うと、食事を再開した。
「え……あれ? 訊かないの? 理屈や事情を」
「もが……訊かねーよ。せっかく見せてくれたおまえの信頼ってやつを、一方通行で終わらせたかねーからな」
――だから、おまえを疑わない。
わずらわしげに再び口の中のものを飲み下して放った言葉を、銀は暗にそう続けた。
「……ありがとう。やっぱりあなたを愛せてよかった」
「!」
相変わらず思うままが素直にこぼれるイリスの感想を聞き、銀はまともにむせた。
「はい、お水」
差し出されたコップを受け取り、水を流し込む。
「はー……助かったぜ――って、あれ?」
「どうかしたの?」
不意に自分を飛び越えた銀の視線を追い、イリスもまた自分の後ろを向いた。
すぐ隣の席に、こちらと背中合わせで座っている、携帯電話を手にした後ろ姿。
「孝次じゃねーか」
「友達?」
「ああ。せっかくだから紹介してやろうか?おい孝――」
「だから、影山には近付くなって言ってんだよ!」
孝次が電話先に発した思いがけない言葉に、挙げかけた手が、凍った。
「あいつ、本当はバケモノなんだよ。この間の事件で他のバケモノと仲間割れしてる本性を見ちまったんだって! ああ。オレも運がいいよ。危うく殺されるとこだったんだからな」
「……何でだ……っ!」
一気に頭に血が上り、立ち上がる。
「駄目……!」
イリスの声も聞こえたような気はするが、ほとんど気にならなかった。孝次に詰め寄り、胸倉をつかみ上げる。
「な――ひ!」
相手が銀と悟るなり、孝次の目から抗議の色は消えうせ、恐怖一色に染まった。
「ぎ……銀? なんで、こんなとこに……」
「んなこたどうでもいい。今のがおまえの本音なのか?」
「そ……そんなわけ……」
否定しつつも、孝次は銀と目を合わせようとしない。
「おまえ……っ!」
堅く握られる、震える拳。現状で既に銀の腕力は常人の域を超えている。それが激情任せに振るわれれば、孝次にとって致命傷は必至だったが――横合いから伸びた手が銀の腕をつかみ、制止した。
「駄目よ、銀」
「イリス……」
その深い愁いをたたえた瑠璃色の眼を見たとたん、銀は自分の中の激情が瞬く間に静まっていくのを感じた。
全身にこもっていた力が抜け、ほとんどついでのように解放された孝次が、店の外へ逃げ出していく。
「行きましょう」
「……ああ」
イリスが手を引く形で、二人は店を後にした。
しばらく無言で歩き、昼時ゆえに人通りの少なくなった、噴水のある広場で足を止めると、イリスは口を開いた。
「駄目よ……彼を責めては」
「なんでだよ? あいつは、オレを裏切っ……」
まただ。イリスのこの眼差しに触れられるだけで、激情が解けてしまう。
「私たちがバケモノだということは事実だもの」
「事実って……変身するオレはともかくとして、格好の変わらないおまえはそれでいいのかよ?」
「魔女狩りを、知っている?」
唐突な問いに、銀は首をかしげた。
確か、中世ヨーロッパでの出来事だったはずだ。罪もない人が多く犠牲になった、宗教の暴走。
「昔ね、魔女として密告され、捕えられたことがあるの。理不尽なことを問われ、拷問されて、犯されたわ」
「……!」
ぎり、と銀の口から歯軋りの音がもれる。
「私を密告したのは、隣の家に住んでいた新婚の女の子だった」
「……なんでだ?」
「私は色々なことを知っていた。お料理も上手かった。だから、自分の旦那さんが私に興味を持つのが許せなかった。私はきっと何かずるいことをして、そんなに優れた能力を持っているのだ、それはきっと魔女の所業だ……そう思ったそうよ」
「そんな、勝手な話……あるかよ!」
「責めないで」
遠く空ろだった青い眼が、銀を見た。
「その子の孫が言っていたわ。おばあちゃんはお隣さんを密告したことを悔やんでいた、口を開けばそればかりで、絶対に正しい人間になるように口うるさく言われた、と」
少しは救われた気がする。しかし――。
「でも、イリスを傷つけたことは変わらねえ」
「銀。誰もが、いつでも、強さと正しさを実現できるわけではないの。できる人ができない人を責めるのは、ただの傲慢。残酷なことよ。だから――」
イリスは銀の手を握って、言った。
「裏切りくらいでヒトを嫌わないで」
「……!」
自分が甘かった。イリスこそ、永い人生の中で、信じた人間に手のひら返しに拒絶されたことなど、数え切れないほどあっただろうに。
「……おまえ…………」
湧き上がった感情のまま、銀はイリスを抱き寄せていた。
怖かった。いとおしかった。そして、惨めだった。
こんなにも傷つき、耐え続けてきたこの女性を、自分は護りたいと思っているのに、その自分はあっけなく不安に負け、護るべき存在に防ぐべきものを押し付けようとしている……。
自責の念は、重い。
そんな心情を悟ってか、イリスの手が、安心させるかのように銀の頭を抱き寄せた。
「さっき言ってくれたわね。私も、一方通行な関係は厭よ。辛いのなら、頼って。あなたが私を案じてくれたように、私もあなたを見放さないから」
それで、堰が切れた。
しがみついてくる銀を、イリスは慈母の微笑みを浮かべ、いとおしむように頭をなで続けた。
やがて――。
「……判ったよ。何かあるごとに、オレを遠ざけようとしたわけが」
涙目を見せるのが照れくさいのだろう、かなた彼方を向いて顔を上げた銀は呟いた。
「甘えるくせにずっと素面だったのは、関係を一方通行のまんまで終わらせて、寂しさを紛らわすつもりだったからなんだろ?」
「……ええ。本当のことを言うと、私の存在そのものを認めてくれたのはあなたが初めてなのよ。前の夫にとっても、私は「鬼」でしかなかったから」
「……それでも好きでいられたのか?」
「線は感じたけれど……そこも私の居場所だったから。でも、ようやく根を下ろせる居場所ができた。これからは思う存分甘えさせてもらうわ」
「ネコかおまえは」
銀は即座に切り返した――が、その口調にとげはない。
改めて顔を見合わせると、どちらからともなく、照れたように笑い合う。
しかし、そんな柔らかな空気も長くは続かなかった。
二人は一瞬で表情を引き締めると、密着した体勢を解き、互いの動きを邪魔しない程度に距離をとって身構えた。
すぐ間近に、異界が現実を侵蝕し口を開けたのである。




