8. 初休暇②
翌朝。
俺は一ヶ月ぶりにマイベッドで目を覚ました。
ベッドは寝慣れたものだが、この部屋の天井は見慣れない。
ここが“安全な場所”だと、体が理解していないのだろうか。
この部屋は、ポイント八王子に配属されてから借りた物件で、中野駅まで徒歩五分という好立地にある。
引っ越してすぐに赴任したから、寝泊まりしたのはこれで三回目。
自分の家だが、まだ違和感だらけだった。
なんとなくテレビをつける。
平和な、いつも通りの朝のニュース。
アナウンサーが、大阪で起きた事故のニュース原稿を読み上げている。
これが、ちょっと前までの日常だったはずだ。
なのに、どこか“他人事”に感じる。
落ち着かなくなった俺は、テレビを消した。
「出かけるか……」
時計を見ると、まだ七時前だった。
昨晩は酒を飲んだせいで、珍しく泥のように眠ったはずだが——
習慣は一日では抜けないということだ。
クローゼットを開け、服を探す。
五月になり、半袖でも過ごせる時期だろうが、衣替えをしていない。
俺はいくつか手に取ってから、薄手の長袖を着た。
直接帰ってきたから、冷蔵庫には何もない。
時間潰しがてら喫茶店でモーニングでも食べるか。
荷物をカバンに詰め込んで、ドアを開ける。
太陽が眩しい。
車の音がして、人の声がして、どこかの店から焼けたパンの匂いがした。
いい天気だ。
空だけを見れば、ダンジョンと同じだ。
だが前を見れば、道路には車が走り、高い鉄筋の建物がそびえ立っている。
この景色を守るために戦っている——
教官が何度も言っていた言葉だ。
そのたびに、分かったつもりでうなずいていた。
だが、焼けたパンの匂いと、登校中の学生の笑い声を聞いた今、初めて“実感として”理解した気がした。
――――――
近所の喫茶店で朝食を食べた後、まず向かうのは霞ヶ関。
目指すは、ダンジョン庁だ。
電車に乗るために中野駅まで行く。
駅のすぐ北にはダンジョン入口がある。
まだ八時にもなっていないが、攻略者らしき若者たちが駅から次々とそちらへ歩く姿が見えた。
少し前までは、俺もあの中の一人だった。
そういえば、今は五月の初め。
世間はゴールデンウィークの真っ只中だ。
ゴールデンウィークは、年間を通して一番ダンジョンが混雑する時期である。
駅に入り、ホームへと向かう。
ホームから中野の街並みが見えた。
ダンジョンができてから再開発が進み、都内有数の街になった。
チャイムが鳴り、到着した電車に乗り込む。
電車と、車窓の景色。
一気に地上に戻った実感がわいてきた。
同時に、どこか場違いな場所にいるような感覚もある。
満員電車を覚悟していただけに、すいていたのはちょっとした喜びだった。
――――――
ダンジョン庁への用事は任務の一環だ。
拠点に関するここ一ヶ月の報告書を提出することになっている。
紙で直接提出するのが基本らしい。
原始的だが、ダンジョンに持ち込めるもの、持ち出せるものには限りがあるから仕方ない。
地上に出るからと、リフレッシュ休暇の俺に任務が回ってきたのは不満だ。
しかし、これも官属攻略者の宿命ってやつだ。
地図アプリを頼りに、駅からまっすぐ向かう。
初めて訪れるダンジョン庁は、五階建ての白いビルだった。
正面から入ると、すぐに受付がある。
脇には厳つい見た目の守衛さんが二人立っていた。
「おはようございます。ご用件をお伺いします」
「はい。ポイント八王子の月次報告書の提出をしたいのですが」
そう答えると、受付の女性は、小さなカメラのようなものを取り出して、こちらに向けた。
顔認証機能付きの最新機器らしい。
「確認できました。では、三階の作戦指揮室にどうぞ」
来るのが初めてなら、中に入るのも当然初めてだ。
見た目は普通のオフィスで、すれ違うのもスーツ姿の人ばかりだった。
俺の格好は、上下黒の普段着。
場違いだ。
そう思った瞬間、視線が少しだけ集まった気がした。
もうちょっと、かっちりした服を着てくるべきだったか。
三階まで階段を上り、作戦指揮室と書かれたフロアに入る。
並べられた机の上に、パソコンや書類。
うーん、やっぱり普通のオフィスだ。
入ってすぐのところに、『月次報告書の提出はこちら』と書かれたトレーがある。
カバンから取り出した書類を置いて――
これで終わりか。
前線で見たことも、気になったことも、紙束の一部としてトレーに積まれる。
そう考えると、ダンジョンでの出来事が一気に小さく感じられた。
それでもこれを、誰かが読むのだろう。
きっと読むはずだ。
妙に頼りなく見える紙束を見て、そう願った。
任務を終わらせた俺は、滅多に来る場所ではないここを、遠慮なくキョロキョロと見渡す。
まさにお役所って感じだ。
ここでは書類仕事が行われて、実際の作戦はダンジョン内で決められているのだろう。
やはりリフレッシュ休暇中の俺が来る場所ではない。
今回はいい経験だったが……。
次回があれば、新人なりに断る努力をしてみよう。
――――――
十時過ぎ。
ダンジョン庁を出てまっすぐ向かったのは、三鷹にある攻略者養成学校だ。
広く自然豊かな敷地に、校舎、訓練施設、そして寮がある。
全国でも特に優秀な攻略者候補生が集まるこの学校では、入学者三百名ほどのほとんどが官属攻略者となる。
守衛さんに用事を伝えて、正門を通る。
たった一年ぶりなのに、何年も来ていないような感覚になった。
懐かしい、というより少し眩しい。
新緑の並木道を歩いていると、私服姿の学生と度々すれ違う。
ゴールデンウィークの休みは短く、ほとんどが寮で思い思いの時間を過ごしているのだ。
「お兄ちゃん!?」
聞き覚えのある声が聞こえて、足を止めた。
ここには今年二年生になる妹がいる。
顔を確認する。うん、やっぱり皐月だ。
やばい、連絡してないぞ。
「皐月、久しぶりだな。元気にしてるか?」
「やっぱりお兄ちゃんだった!私は元気……って連絡は!?」
大きく身振り手振りをしてアピールしている。
相変わらずのお団子ヘア。
ただし、髪はいつの間にか金色に染まっていた。
制服の着こなしも少し崩れていて、俺の知っている妹より、ほんの少しだけ攻略者候補生らしく見えた。
妹も成長しているんだな。
お兄ちゃん、嬉しいけど、なんか悲しいぞ。
「ごめんな、急に戻ってくることになったんだ。お母さんにちゃんと連絡してるか?」
「うん。ママは相変わらず元気だけど……。なんでここにいるの?まさか――私に会いに来てたりして!」
おっと、そう来たか。
気まずさを演出するために、頬でもかいておこう。
どうせ、こいつはそんなことを気にするタイプではないが。
「いや、すまん……。実は人を探してるんだ。瀬名まつりさんっていうんだけど――皐月は知ってるか?」
「瀬名まつり……もしかして氷姫のこと!?」
「こ、氷姫……」
なんだそのラブコメみたいな、あだ名は。
まつりなのに氷姫って、似合わなすぎるだろ。
そう思ったが、あのひよりさんの妹ならそう呼ばれていても不思議はないか、と思い直す。
「た、たぶん、その人だ。皐月の知り合いか?」
「氷姫は一個上の先輩で超有名人だよ!この時間ならたぶん図書館にいるから……こっちこっち!」
「いや、図書館の場所は分かる、んだけど!」
俺の言葉を無視して、皐月が俺の右手を引っ張る。
俺は卒業生だ。当然、図書館の場所も分かる。
だが、皐月はこうなったら話が耳に入らないタイプだ。
「お兄ちゃんが氷姫と知り合いだったなんて!これを機に私も連絡先を……」
皐月の顔が、分かりやすく悪い笑みになっている。
ひよりさんから手紙を預かっているだけなのだが。
はぁ……。
――――――
氷姫こと、瀬名まつりさんは、図書館のよく日が当たる窓辺の席で、気持ちよさそうに寝ていた。
ひよりさんを少し幼くした感じだ。
目元や、話す前から省エネそうな雰囲気までよく似ている。
唯一違うのは、髪型と茶色い髪色くらいだった。
「……寝てるな」
脇にはダンジョン攻略に関する専門書と、細かい字で色々と書き込まれたノートが広げっぱなしになっている。
姉と違って、真面目なようだった。
「お、おい、皐月」
寝ているなんて、そんなの皐月はお構いなしだ。
陽を浴びて目を閉じているまつりさんの肩を、皐月がポンポンと叩く。
まつりさんが欠伸をしながら体を起こす。
「……ん、誰?」
目をぱちぱちさせながら、眠そうに尋ねた。
皐月も一方的に知っていただけっぽいし、そりゃこうなるよな。
ひよりさんより少し垂れ目だが、こうして見てもそっくりだ。
「……お兄ちゃん?」
皐月がこちらを見る。
起こしたのは皐月だが、対応するのは俺らしい。
「あ、あぁ。初めまして、天城結人です。あなたの姉のひよりさんから手紙を預かっていて」
「……お姉ちゃんから?」
俺はカバンから手紙を取り出して渡す。
ダンジョンの紙で書かれているから、無機質な質感だ。
まつりさんがその場で手紙を読み始めた。
少しずつ口角が上がる。嬉しそうだ。
あのひよりさんが、どんな顔でこの手紙を書いたのか。
想像すると、少しだけ笑えてきた。
預かったときは面倒に思ったが、まつりさんのこの反応を見れば、わざわざ届けに来た甲斐があるというものだ。
「……お姉ちゃんは元気ですか?」
「はい。とても元気ですし、頼りになる先輩ですよ」
「頼りに――」
まつりさんは苦笑いするように反復した。
頼りになる姉の姿が想像できなかったのかもしれない。
一般的な形ではないのかもしれないが、それでも彼女が頼りになる存在であるのは間違いない。
「……お姉ちゃん、あんまり自分のこと話さないですよね」
「はい。あまり」
まつりさんは手紙をもう一度見下ろした。
そこに書かれた文字を、大事そうに指でなぞる。
「……お姉ちゃんは学費を払ってくれてるの。うちは母子家庭だから」
「――ひよりさんが」
「……意外、ですか?」
意外かどうかでいえば、意外だ。
だが、前線でのひよりさんを思い返すと、不思議と納得もできた。
怠そうにしていても、必要な場面では必ず手を伸ばす。
あの人はたぶん、そういう支え方をする人なのだ。
迷ったが、俺は曖昧にうなずくことにした。
まつりさんは、それでも嬉しそうにする。
ひよりさんのことを本当に慕っているらしい。
後ろを見ると、皐月が目を輝かせながら俺とまつりさんのやり取りを眺めている。
憧れの先輩なのだろう。
まぁ、美人だし、賢そうだし、高嶺の花感がある。
分からなくはない。
「こっちは妹の皐月。話したいみたいだから、少し相手をしてやってください」
「……えぇ、もちろん」
俺の言い方が気に入らなかったのか、皐月から鋭い視線を感じるが――
卒業生は、このあたりで退散しよう。
俺はさっと身を引いて、その場を離れた。
――――――
図書館を出る前に、ここの司書を務める南条さんに、挨拶をすることにした。
南条さんには学生時代、だいぶお世話になった。
養成学校に入りたての頃は、とにかく知識を得ることに夢中で、毎日ここに通い詰めたものだ。
いくつか書架を覗き、本を整理する南条さんを見つける。
慈しみのある瞳だ。
深い知識と優しさで、迷ってばかりだった俺を何度も救ってくれた恩人でもある。
「――天城くん」
「南条さん、お久しぶりです」
女性としては低めの、よく響く声。
歳は分からないが、髪はほとんど白い。
だが、声にも瞳にも、そうは感じさせない力強さがある。
「新人休暇ですね」
「はい。ここに用事がありまして」
「……ご無事で何よりです」
心に染みるやり取りだった。
一年のときに助言をもらってから、俺は幾度となく南条さんに話をした。
南条さんは肯定も否定もしない。
自分の知識と、信じられる情報だけを頼りにする彼女は、俺にとって一番信頼できる相談相手だった。
「ポイント八王子はどうですか?」
前線を希望することを話して、唯一否定しなかったのが南条さんだ。
俺の過去を知った上で、理解を示してくれたのは、俺にとって心の支えになった。
「平和ですよ。むしろ平和すぎるほどです」
「それは何よりです」
南条さんは笑って言った。
「そういえば――ちょうど良いタイミングでいらっしゃいました」
南条さんは少し考えるように目を細めた。
「以前から天城くんはネームドの記録をよく調べていましたね」
「……覚えていたんですか」
「司書ですから」
南条さんは手に取っていた本を置いて、少し奥に歩いた。
見せてくれたのは、『気になるダンジョンの謎』という本だ。
「ダンジョンに関する噂をまとめたものですが――妙に詳しく、噂話にしては信憑性が高いと評判ですよ」
手渡された本をペラペラとめくる。
目次には、冥鬼の文字があった。
南条さんは父の事情を知っている。
それを覚えていて、この本を紹介してくれたのだろう。
冥鬼のページまであと数ページ。
だが、それよりも先に、気になる記述があった。
【スタンピード】
魔物が一斉に移動・暴走する現象。
発生を目視した時点で、大きな被害を覚悟する必要がある。
原因は不明。
ただし、変異種などの強力な個体が集落を支配し、抱えきれなくなった魔物たちが周辺へ流れ出すという説が有力。
前兆として、特定の魔物が姿を消す、魔物の空白地帯ができる、集落同士の衝突が増える、などがある。
注意しろ。
空白は、安全ではない。
――――――
南条さんが、俺の手元を覗き込む。
「スタンピードですか。ダンジョンの発生直後に、ヨーロッパと東南アジアで一件ずつ起きたとされるものですね」
「発生直後だけですか?」
「はい。間引きの概念が生まれてから、このような事態は起こっていません」
何も現れなかった森。
放棄されたオーク集落。
そして、川下で見つけた、本命らしき集落。
背中に、冷たいものが走った。
思い当たる節が、一つではなかった。
「気になるなら持っていってもいいですよ」
「卒業生の俺でもですか?」
「天城くんにはちゃんと信用がありますからね。次、地上に戻ってきたときに必ず持ってきてください。必ず、です」
冗談めかした言い方ではない。
まるで、何かを確かめるような声音だった。
俺は半ば押し付けられるようにして本を受け取る。
その後しばらく、南条さんと何でもない話をして、まつりさんと話に花を咲かせている皐月の顔を見てから、家に帰った。
――――――
その日の夜。
横になって数時間が経ったが、なかなか寝付けなかった。
もちろん気になっているのは、スタンピードのこと。
ネットで調べてみたり、もう一回本を読んだり。
どの情報源でも、過去の出来事として扱われていた。
だが、書かれていた兆候は、間違いなく当てはまる。
誰かが死んでから、「気のせいだったと思った」と言い訳することだけはしたくない。
ALPHAチームの隊員の顔が浮かんだ。
ポイント八王子で笑っていた作業員たちの顔も。
気のせいなら、それでいい。
笑われるだけで済むなら、いくらでも笑われればいい。
だが、もし勘が当たっていたら。
そう考えた時点で、もう無視できなかった。
俺は休暇を返上して、一日早くダンジョンに舞い戻ることにした。




