4. 変異種
八王子大森林。
一見すると、ただの森に見える。
しかし、足を踏み入れた瞬間、肌に触れる空気が変わる。
鳥の声はある。
風も吹いている。
それなのに、どこか生き物の気配が薄い。
仮にハイキングで立ち寄れば、理由もなく引き返したくなる。
——そんな“本能に触る不気味さ”がある森だ。
——————
会議から十日。
朔真さんが戻り、ようやく六人がそろったALPHAチームは、順調に訓練と任務をこなしていた。
最初の二日は、声を出すタイミングすら分からなかった。
三日目には、ひよりさんに「……遅い」とだけ言われた。
五日目からは、雫さんから「今の判断は悪くありません」と褒められることが増えた。
そして訓練九日目の今日。
俺はようやく、ALPHAチームの戦い方の輪郭を掴み始めていた。
「さっきの動き、かなり良かったよ、結人」
「朔真さん!ありがとうございます!」
ゴブリンとの戦闘を終えて近づいてきたのは、後衛を務めていた朔真さんだ。
想像していた熱血さはなかったが、朔真さんは頼れる男だった。
ただ甘いだけじゃない。
直すべきところは短く指摘し、その後で必ず次の動きを示してくれる。
新人の俺にとって、この上なくありがたい存在だ。
三十代半ば。
攻略者として、経験と体力の両方がそろう時期。
地上には奥さんと二人の子どもがいるらしい。
欠点を挙げるなら、真面目すぎるところだろうか。
できるはずのことを流されるのを、極端に嫌う。
ひよりさんと噛み合わない理由は、たぶんそこにあった。
訓練も任務も順調だ。
いや、順調すぎる。
「隊長はどうやって魔物を見つけているんでしょうか?」
「さぁね。隊長は桜の情報と経験だって言うけど……天性の何かはあるんじゃない?」
順調すぎる理由は、寄り道をしないからだ。
隊長は常に、迷いなく進む。
木々の隙間を抜け、視界の悪い森の中で、まるで“そこにいる”と分かっているかのように足を止める。
確かに桜さんの情報は大きい。
出発前には必ず、念入りな偵察情報の共有を受けている。
それでも森は迷いやすく、魔物も移動する。
隊長も、ここに来てまだ二ヶ月。
にもかかわらず、隊長の立ち回りは、まるでその土地を知り尽くした熟練のハンターのようだった。
「ここで一旦休憩だ。魔物の反応はないが警戒は怠るなよ」
隊長が少し先で立ち止まる。
腰の魔力反応探知器を、ゆっくりと地面に置いた。
ちょうど疲れを感じていたところだ。
隊員の様子もこまめに確認しているのだろう。
「緊張してるかい?」
「えぇ、まぁ」
今日は道中魔物を間引きながら進んで、最後はゴブリンの変異種と戦う予定になっていた。
ゴブリンの変異種は、オーガと似た強さ、と例えられる。
オーガとは何度か戦ったことがあるが、どれもいい記憶ではない。
それに加えて、別方向の厄介さもあるというから、今から戦々恐々だ。
「自分で判断するのも大事だが――まずは周りの声をしっかり聞けば、問題は起きないさ」
俺は朔真さんの目を見て、しっかりと頷く。
ALPHAチームは最前線で活躍するパーティーなだけあって、声かけも連携も素晴らしいものだった。
まずは聞いて合わせること。
そうアドバイスされた俺は、周りの声を聞きながら、自分の役割を全うすることを目標に動いている。
シンプルに思えるが、聞きながら、声を出して動くのは、案外難しい。
「……そいつの言うことは気にしなくていいわ」
そう言ったのは、少し離れたところで木を背もたれに休んでいた、ひよりさんだ。
当然、朔真さんは顔をムッと歪める。
「ひより、無責任なことを言うんじゃないぞ」
「……やりたいようにやればいいのよ」
他の人に似たようなことを言われても、やんわりスルーしているのだが……。
相性なのか、痒いところをつかれているのか、つい反応してしまうのだろう。
俺からすると、二人とも頼れる先輩なのだが。
「そろそろ出発するぞ」
木にもたれかかって休んでいた隊長が、魔力反応探知器を手に取って、土を落とす。
このメンバーであれば、ゴブリンやオークの通常個体は脅威にならない。
連携を確認しながらじっくりと討伐し、やがて変異種がいるというエリアへとたどり着いた。
――――――
変異種は森の中の開けた場所にいた。
円形の、ちょっとした広場のようになっている。
「雫、俺は聞いてないぞ」
「もちろん私もです、隊長」
中央には角の生えたデカいゴブリン。
ふんぞり返っていて偉そうだ。
一目であれが変異種だと分かる。
あれだけが、明らかに異質だ。
だが、気になるのは変異種ではない。
情報になかった通常個体のゴブリン。
十体ほどが、森から丸太や草を運んでいる。
「集落を作っているのでしょうか?」
「そうだ。だが見ろ。まだ柵すらない」
建物どころか、構造物すら一つもない。
つい先ほど作業が始まった様子である。
これなら桜さんの情報にないのも、無理はない。
背中に、冷たいものが走る。
これを見逃していたら、数日後には柵ができ、見張りが立っていたはずだ。
さらに数が増えれば、森が閉ざされ始める。
資材運搬も、見回りも、少しずつ危険になる。
小さな巣。
だが前線では、その小ささを見逃さないことが重要だった。
「隊長、これは良い機会かもしれません。我々の戦い方を結人くんに見せましょう」
「そうだな。みんな、プラン変更だ。雫と朔真はここで集落を見張れ。ひよりと結人は俺と一緒に周辺のゴブリンを片づける」
隊長の指示で、俺たちは二班に分かれて行動することになった。
敵を分断し、各個撃破する。
ダンジョン攻略の基本だが、具体的な作戦を用いるのはこれが初めてだった。
俺とひよりさんは隊長の後ろに続いて、森の中を進んだ。
獣道が見えると、俺たちは音を立てないよう、速度を落とした。
しばらく待機していると、ゴブリンが近づく気配を感じた。
ゴブリンの荒い呼吸。
木々を揺らす風の音。
——どれもが、やけに大きく耳に残る。
近づいてきたゴブリンは二体。
丸太を運びながら、ブヒブヒと声を上げている。
労働を課している変異種に、文句を言っているのかもしれない。
隊長が左手を軽く上げる。
指先が、わずかに動く。
——合図だ。
隊長を先頭に、すぐ後ろを俺が続く。
ゆっくりと、ゆっくりと。
音を立てないように近づく。
隊長と俺は剣を構え、攻撃態勢に移る。
ゴブリンの片方が、ふと顔を上げた。
気づかれたか。
一瞬、喉が詰まる。
だが次の瞬間、隊長の左手が動いた。
《瞬歩》
迷う余裕はなかった。
俺はゴブリンの首元を狙って、一気に飛びかかった。
鮮血が弾け、喉を断たれたゴブリンは声すら上げられず崩れ落ちた。
自分の分のゴブリンを片付けた隊長が一瞬こちらを見て、深く頷いた。
イメージ通りだ。
我ながら良い動きだった。
森の中を移動して、ゴブリンを確実に仕留めていく。
三十分ほどで、隊長と俺が四体ずつ、ひよりさんが一体。
計九体を仕留めた。
ひとまずの目標を達成した俺たちは、雫さんと朔真さんのもとに戻り、作戦会議をすることになった。
「できたてで助かったな。あいつは数が減っても違和感を抱いている様子がない」
隊長がホッと息を吐いた。
ゴブリンは群れると厄介、というのが常識だが――。
ここのゴブリンは、まるで連携が取れていなかった。
変異種という明確な指揮官がいて、なお集団で動かないところを見ると、まだ態勢が整っていなかったらしい。
俺たちは、九体のゴブリンを不意打ちしただけ。
体力の消耗もほとんどない。
通常個体が十体だけで済んだのは、普段の任務で、常にゴブリンを間引いていたからかもしれない。
「一体だけは変異種の側を離れる様子がありません」
「護衛気取りだね。通常個体だが、変異種を相手取るなら厄介な存在になりそうだ」
待機して変異種を観察していた雫さんと朔真さんが、そんなやり取りをした。
変異種の側で視線を巡らせ警戒しているのは、棍棒を持った通常個体のゴブリンだ。
他より少しだけ賢いのかもしれないが、遠くから観察する俺たちに気づく様子はない。
「どのタイプか予想できそうか?」
変異種の見た目だけで、特徴を予想するのは難しい。
強みが、力なのか、速さなのか、魔法なのか。
戦う前にできるのは、観察して、予想して、外れた時に備えることだけだった。
今回の変異種が持っている武器は、大剣だ。
その他に通常個体と違うのは、大きさと角ぐらいだろうか。
「少なくとも魔法を使うタイプではないでしょう」
雫さんが、少し考えてそう言った。
俺はもう一度変異種を見る。
確かに大剣は持っているが、大剣持ちでも魔法を使う変異種はいる。
俺には、魔法を使わないと判断できる材料を見つけられない。
「あいつはずっと偉そうに立っています。部下は各々動いていますし、自分は動く様子がない。おそらく頭がいいタイプではないのでしょう」
「ほう……」
「ゴブリンの思考は短絡的です。魔法が使えるなら、まず見せびらかすように使うでしょう。ですが、ここにはその痕跡が何もありません」
知識と分析が合わさった、雫さんらしい考察だった。
ちゃんと説得力がある。
単なる視覚情報からここまで組み立てることができるのか。
熱心に聞いている朔真さんと隊長とは違い、ひよりさんはずっとぼーっとしている。
聞いているのか、聞いていないのか。
ひよりさんらしい、といえばらしい。
「ただ使っていないだけ、という可能性はないか?」
「ないと思います。使うのを控える頭脳があるなら、ゴブリンはもっと統制が取れている。全く痕跡が残っていないのは使えない証です」
「よし。ならば、魔法は使えないという前提でいこう」
魔法を使う魔物は何よりも厄介だ。
魔法はリーチが長い。
特に前衛は動き方が全く異なってくる。
方針が定まり、いよいよ作戦を決める段階になった。
隊長が大まかな動きを決め、副隊長の雫さんが細部を詰める。
後衛である朔真さんの指摘も、なかなか刺さっている。
「準備しろ。すぐに討伐開始だ」
作戦が決まり、俺たちは装備の確認をする。
俺は後方から襲いかかり、変異種の足首を切って動きを封じることになった。
大切な役目だ。
初めての変異種相手だが、やるしかない。
俺はいつもより念入りに剣の鋭さを確認し、アイテムポーチから持ち物を出して備品の数を三度確認した。
「……いつも通りやればいい」
ひよりさんはこんな時でも通常運転だ。
これは彼女なりの激励だろう。
上ずっていた心が、少し落ち着いたような気がした。
「結人くん、行きますよ」
雫さんと二人で、再び後方に回る。
雫さんは俺が動きを封じた後に、とどめを刺す役割だ。
「変異種と意識しすぎる必要はありません」
雫さんは何でもないように言う。
だが、俺にはまだそう思えなかった。
変異種には何があっても近づくな。
攻略者になるときに口うるさく言われて、深層心理に刷り込まれている。
養成学校時代もリスクを考えて、変異種を見かけたら即撤退がルールだった。
危険の基準が、いきなり二段階ほど引き上がったように感じる。
「どうやったら平常心になれるのでしょう?」
「平常心?そんなものは必要ありません。恐れを持ちながらも、いつも通り動くことが大切なんです」
雫さんが俺を見て心配そうに笑いかけた。
弱気になっていると思われたかもしれないが、少し違う。
前線では、養成学校での次席という肩書きが役に立たないことは、嫌というほど思い知らされた。
だから今は、適応する段階だ。
戦い方も、心構えも、ここから前線仕様に変えていけばいい。
話をしているうちに、待機場所に着いた。
あとは戦いの合図を待つだけだ。
数十秒ほど武器を構えたまま待機していると、先ほどの場所から丸い物体が放物線を描いて変異種に向かうのが見えた。
「行きますよ!」
雫さんの掛け声で、俺も変異種に向かって走り出した。
前方で、白い光が弾けた。
一瞬だけ森の影が消え、変異種とゴブリンが両手で目元を覆う。
朔真さんとひよりさんが投げた閃光石だ。
変異種の足元がガラ空きになっている。
俺は剣に魔力を込め、足首を狙って剣を滑り込ませる。
(……浅いかっ!)
思ったよりも皮膚が硬い。
刃は入った。だが、足を止めるには浅い。
手首に嫌な痺れが残る。
「っ……!」
変異種の腕が、反射的に振り下ろされた。
大剣ではない。
ただの裏拳だ。
それなのに、風圧だけで頬が引きつった。
避けた直後、背後の若木が鈍い音を立てて折れたのが分かった。
まともに受けていたら、骨折だけでは済まなかった。
俺は地面を蹴って、転がるように距離を取った。
慌てて振り返る。
変異種は大きくバランスを崩している。
最低限の働きはできたようだ。
雫さんがよろけた変異種の首元を鋭く切り裂く。
鮮血が上がる。
変異種は悲鳴を上げたが、倒れない。
「結人、もう一回首だ!」
朔真さんが叫んだ。
考えるより先に、その声が体に入ってきた。
反射で動きそうになる足を、一瞬だけ止める。
見る。
聞く。
合わせる。
この十日間、何度も言われたことだ。
俺は戦場を見た。
護衛のゴブリンは、隊長が離れた場所に誘い出している。
一瞬後ろを気にした変異種も、目の前に現れた朔真さんという敵に夢中になっている。
障害は、何もない。
迷う暇はなかった。
自然と、体が動く。
朔真さんは火魔法で牽制しながら、変異種が近づかないよう立ち回っている。
変異種の隙は大きい。
俺は跳躍する。
傷口が見える首に、ありったけの魔力を乗せて剣を叩き込んだ。
先ほどとは違う、重い手応え。
骨か、筋か。
何か硬いものを断つ感触が腕に返ってくる。
断末魔を上げながら変異種が崩れ落ちる。
視線の先で朔真さんがサムズアップするのが見えた。
「やりましたね!」
雫さんが、変異種が息絶えたのを確認する。
ゴブリンとの戦闘を終えて、こちらを見守っていた隊長も駆け寄ってきた。
「戻ってから反省会だな、結人」
朔真さんが雫さんのほうを見て苦笑いする。
雫さんは、心外だと言わんばかりに首を横に振った。
反省すべき点はいくつもある。
それでも、変異種を相手に生き残った。
そして、討伐の一部を担えた。
今の俺には、それだけで十分すぎるほど意味があった。
ただ、倒れた変異種の向こうには、運びかけの丸太が転がっている。
もし今日見つけていなければ。
その想像だけが、勝利の余韻に小さな影を落としていた。




