2. ゴブリン
拠点の南部に位置する森。
八王子大森林と呼ばれているらしい。
木々の密度が高く、昼間だというのに薄暗い。
風はほとんど通らず、森そのものが湿った息を吐いているようだった。
一歩進むたびに、足元からヌチャッヌチャッという音がする。
人があまり通っていないので、道も悪い。
湿った土と腐葉土の匂いが、鼻の奥にべったりと張りついてくる。
研修期間、森に入る機会は何度もあった。
だが、ここはそれらとは比べものにならないほど、不快な空気が肌にまとわりつく森だった。
「で、なんで桜さんが一緒に?」
先頭には雫さん、次に俺、そして桜さん。
桜さんは、不安定な地面をポヨンっ、ポヨンっと跳ねるように歩いている。
そこそこの速度で進んでいるはずだが――。
俺よりずっと余裕で、なぜかずっと笑顔だ。
「当たり前じゃないですか!この戦いにくい森で、結人さんがどんな動きをするのか見逃せませんから!」
クシシと笑う桜さん。
なんだよ、こいつ。
まるで悪役、性格の悪いことだ。
「結人くん、彼女の言うことは話半分で聞いてください。もちろん目的はありますよ」
雫さんがそう言うと、桜さんは照れくさそうに頬を赤らめた。
あれれ?
「ALPHAチームの任務を振り分けているのは私です。結人さんの実力や適性を把握しておけば今後が楽、ですから」
「こう見えて桜さんは真面目なんです」
後ろを振り向くと、ポヨンっと跳ねていた桜さんの足取りがポンっ程度になっている。
下を向いていて表情は見えないが、耳のあたりが赤い。
どうやら、褒められることには慣れていないらしい。
彼女はいわゆるツンデレってやつだろう。
そんな話をしていると――
――バタバタッ。
前方から、バレーボールくらいの大きさの鳥が羽音とともに飛んでくる。
事前に聞いていなければ、声を上げて驚いていたはずだ。
この鳥——桜さんの使い魔のフクロウである。
正面でホバリングするフクロウが、左の翼を二度、右の翼を一度羽ばたかせた。
一瞬、桜さんから笑顔が消える。
先ほどまでの騒がしさが嘘のように、目だけが冷静になっていた。
心臓がバクバクしているのを感じるが、どうやら問題なし、の合図だったらしい。
「これが使い魔のルシファーです」
桜さんが、笑顔で指を差して紹介する。
とんでもなく仰々しい名前だ。
すでに一通り突っ込んだ後だが、まだ突っ込み足りない。
だが名前はともかく、偵察のほか、視覚共有もできるという、優れた使い魔らしい。
「その様子だと特に問題ないようですね」
「はい。ですが目標のポイントまで……あと五百メートルしかありません。そろそろ警戒!ですよ」
手に持った地図を確認しながら、桜さんが警戒を呼びかけた。
「偵察は十分でも、見落としはありますから。結人さんも注意してください」
「分かりました」
薄暗い森の中でも、夜目の利くフクロウなら魔物を見逃すことは滅多にないらしい。
だが、桜さんの言う通り、五百メートルは十分に警戒すべき距離である。
俺は、森に入ってすぐ取り出した剣を、改めて強く握り直した。
手のひらの汗で、剣の柄が少しだけ滑る。
「そろそろ見えると思います!」
桜さんが腰から下げた魔力反応探知器を指差す。
知らなければただの銀色の棒だが、周囲に魔物が現れると揺れが増す仕組みになっている。
完璧ではないが、死亡率を大きく下げることに寄与した、ダンジョン界きっての偉大な発明品だ。
俺は横目で探知器を見る。
棒は左右にゆっくりと揺れている。
何度も見てきたから間違いない。
経験上、これはゴブリンの反応だ。
「フォーメーションを組みましょう。今回は結人くんが前衛、私と桜さんが後衛です」
「分かりました」
雫さんが歩みを止め、そのまま俺と前後を入れ替わる。
雫さんは前衛、俺は剣も魔法も使う中衛だが……。
俺を前衛にしたのは——試されている、ということだろう。
一気に、緊張感が増す。
「いました、ゴブリン通常個体が二体」
周りより大きめの木の根元。
地面を漁っているのは、餌を探しているからだろう。
幸い、こちらに気づく様子はなさそうだ。
不審な個体という話だったが、見る限り変わった様子もない。
俺は、素早く地形を確認する。
少し前方にゴブリンから死角になる太い木がある。
そこに身を隠せば、奇襲攻撃を仕掛けられるだろう。
「俺の方で処理します!」
「はい、任せました」
雫さんに許可をもらった俺は、足音を立てないように少しずつ近づき、木の裏へ。
一息ついてから、静かに剣を上段に構える。
ゴブリンがこちらに気づく様子はない。
俺は魔力を剣に乗せ、力強く地面を踏み込んだ。
《瞬歩》
足の裏にためた魔力を解放して、ゴブリンとの距離を一気に詰める。
俺の気配に気づき、ゴブリンが振り向こうとするが、すでに遅い。
魔力を帯びた剣先が、手前のゴブリンの胴を瞬く間に切り裂いた。
一体目は斬った。
だが、もう一体がこちらに気づいて、勢いよく振り返る。
想像以上に距離が近い。
手に握られた石斧が、思ったよりも早く振り上がる。
「っ……!」
反応が一瞬遅れた。
踏み込みすぎた。
この距離だと、避けるより先に石斧が届いてしまう。
頭では焦りを感じたが、体は冷静だった。
俺は再び地面を蹴って、無理やり体勢をずらす。
足首が変な方向に曲がった気がするが、関係ない。
直後、頬のすぐ横を、重い風が通り抜けた。
俺は急いで体勢を整え、剣を一気に切り返す。
刃は届いた。
ただ、狙った首ではなく、肩口から胸にかけての斜めの傷になった。
それでも、相手は最弱のゴブリンだ。
鮮血をまき散らしながら、ゴブリンが地面に叩きつけられる。
後方から、二人の声が聞こえた。
「速さはありますが、まだまだ雑ですね」
「ですが、さすが次席。素質は十分です!!」
「えぇ。色々教え甲斐がありそうで楽しみになりました」
先ほどよりも笑顔を深めた雫さんと桜さんが、こちらに向かって歩いてくる。
桜さんが短剣サイズの小さな杖を振った。
足首にじんわりとした温かみを感じて、痛みが少しずつ引いてくる。
初級の回復魔法を使ってくれたのだろう。
「ありがとうございます。……周囲、確認します」
俺は二人の位置を確認して、周囲に異変がないかを入念に見渡した。
必要以上に警戒しすぎているかもしれないが、ここは俺にとって初めての場所だ。
流れで、倒れたゴブリンが視界に入る。
恐怖に歪んだ顔のまま、息絶えている。
剣を握る手には、切ったときの感触が残っていた。
魔物はこれまで何度も斬ってきたが、なかなか慣れないものだ。
確認を終えた俺は、ようやく剣を下ろす。
——これが、前線の日常。
落ち着いて、初めて自分の息の荒さに気づいた。
思っている以上に緊張していたのだろう。
「やはりとどまっていた理由が妙ですね」
桜さんが小声で、雫さんに話しているのが聞こえた。
確かにゴブリンにも、この場所にも、特段変わった様子はない。
不思議には思ったが、それ以上のことを気にする余裕は、今の俺に残っていなかった。
――――――
帰りの道中。
森に慣れたからなのか、緊張が和らいだからなのか、陰鬱だった森が少し明るく見えていた。
二人と何でもない話をして、少しずつ打ち解けてきた気さえする。
そんな和やかな雰囲気の中、桜さんが唐突に切り出した。
「結人さんはなぜ最前線を選んだんですか?」
隣を歩いていた雫さんが、また始まったという顔をした。
恒例の質問なのだろうか。
とはいえ、桜さんの疑問は理解できる。
いきなり最前線を希望する新人なんて滅多にいない。
実際、同期で最前線にいるのは俺一人だ。
俺は正直に答えるべきか迷った。
隠すほどではないが決して褒められる理由でもない。
いつか聞かれるだろうとは思っていたが、今来たか。
「力があるなら最前線を希望するのは当たり前です」
反射的に、無難な答えを口にしていた。
桜さんは吟味するように頷く。
「ふむふむ、当たり前と。ですが、私の経験上、最前線にいる人は普通ではありません。皆死にたくないはずですし、わざわざ死亡率の高い前線を希望する理由がありませんから」
桜さんの返答は想像通りで、かつ俺にとってみれば意地悪なものだった。
家族、好奇心、正義感、お金――みな、何かしらの理由があって攻略者を志す。
官属攻略者の一番の利点は、安定していることだ。
一般攻略者には浮き沈みがある。
一方で官属攻略者は、手当に違いはあれど、ダンジョン内で戦う者なら給料に大きな差はない。
そんな中で、最も危険な最前線を志望するのは、言ってしまえば変わり者ばかりである。
こうなるなら、最初から正直に話すんだった。
「……この近くに、どうしても倒したい魔物がいるんです」
「ふむ、冥鬼ですね」
俺が言ってすぐに、桜さんはそう断言した。
冥鬼。
その二文字を聞いた瞬間、足元の泥の感触が遠のくような感覚を覚えた。
心臓が、胸の内側を強く叩く。
十年経っても、その名前だけは慣れない。
さすが桜さん、というべきか、目的の魔物はまさにそれだった。
冥鬼は、十年前に父を殺した魔物だ。
冥鬼に関して、残っている情報は少ない。
黒い鬼のような姿をしていて。
異常な速さを持っていて。
そして、救援が到着した時には、父の部隊はほとんど壊滅していて。
それ以上の記録は、何も残っていなかった。
レアな魔物と言われればそこまでだが、情報が少ないというのは、強い魔物である証でもある。
出現報告は十年前から途絶えていた。
だが、ここ最近、西部前線で目撃されたという噂が流れ始めている。
官属攻略者を目指したのは、これだけが理由ではなかったが――
噂を聞いて、いても立ってもいられず、西部前線を希望したのは事実だ。
「志は立派ですが――簡単ではありません」
「分かっています」
意外にも桜さんの反応は悪くなかった。
どちらかといえば、顔をしかめたのは雫さんのほうだった。
分からなくもない。
別の目的を持った隊員がチームにいれば、いざというときに輪が乱れる可能性がある。
雫さんは副隊長だから思うところがあるのだろう。
「一応調べておきましょう。あまり情報はないと思いますが」
「あ、ありがとうございます」
一応、感謝の言葉は述べておいた。
だが、冷静に考えてみると——。
冥鬼に関する情報が増えることが、必ずしもチームにとってプラスに働くとは限らない。
俺自身のモチベーションは上がるかもしれない。
だが、それだけだ。
もし冥鬼が目の前に現れたら。
俺は仲間や自分の命を優先できるのか。
それとも、剣を握ったまま飛び出してしまうのか。
自分でも分からない。
だからこそ、雫さんの懸念はもっともだった。
父の仇である冥鬼を殺したいという気持ち。
そして、「死なない、死なせない」という思い。
この二つは、おそらく相反している。
なぜなら、今の実力で冥鬼を倒そうとすると、犠牲は避けられないからだ。
そこまで考えて——俺は一度、自分の両頬を強く叩いた。
冥鬼の名前を聞いただけで、ここまで思考が乱れるとは……。
初戦闘を終えて、気持ちが少し浮ついているのかもしれない。
隊員のため。
そして、自分自身が冥鬼に呑まれないため。
気を引き締めなければ。
前線に来た。
ただそれだけで、強くなったつもりになってはいけないのだ。




