#1
タンタンタン、と廊下を走る音がする。何事かと思い、新聞に落としていた視線を上げた。
「ちょっとアンタ! 胡内さん見てない?」
「えぇ? 朝の散歩にでも行ってんじゃないか」
朝日が山の麓から顔を出した頃、宿の松風では老夫婦が顔を見合わせていた。
旅館の居間では旦那が日課である朝刊を広げ、隅から隅までニュースに目を通す。政治家の汚職事件、有名俳優の逝去、森林伐採による環境被害……自分の知らないところで世界は急速に動いている。
ここではびっくり仰天の事件なんてまずない。せいぜい誰と誰が結婚するとか、子どもが生まれたとか、年寄りが転んで骨折して救急車で運ばれた、ぐらいだ。
時間が止まった村で唯一忙しなさを感じ取れる紙面を彼は好んでいた。
ところが今はそれどころじゃない。妻が焦った様子で腕を組んでいる。でもせめて、客の部屋に行く前に寝癖を整えてほしいと思った。客が部屋にいなかったことが不幸中の幸いである。
「朝ごはんどうするのか聞こうと思って、さっき部屋に見に行ったらいないの。で、ロビーに今日までの宿代が置いてあって。何故か二人分」
「電話は?」
「この番号は使われてませんって! もーどうしましょ」
ほう。それはさすがに奇妙。退屈な朝から気になる話だ。
二人は二階の部屋を見に行った。荷物はない。綺麗に整頓されて、何故か窓だけ全開になっていた。
仕方なく下へ降りて玄関へ出る。
「靴もないし、まさか本当に何も言わずに帰っちゃったのかしら……あら」
「ん?」
「見て。何かの足跡」
玄関先の地面に動物の足跡がある。近くまで行ってよく見ると、足跡は二つあった。その二つとも形や大きさが違う。
「何かしら。どっちもちょっと、犬に似てるけど」
「たぬきかもな。こっちは……似てるけど、きつねとか?」
「あのねぇ、狐がこんなとこにいるわけないでしょ! まったく何言ってんだか」
確かに数十年ここで暮らしているが、狐の目撃例は聞いたことがない。そもそも生息地ではないし、呆れられても仕方がなかった。
妻はほんの少しだけ乱れた髪を整え、民家が密集している町の方を指さした。
「それより役場の方へ行って、一応胡内さんを捜してきてちょうだい。私は掃除と洗濯もしなくちゃいけないから」
「ふああ……。はいはい……」




