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須磨の浦に、君が名を問う  作者: ろくさん
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第二話:出会いは月の下で

幸若が偽りの生を受けてから五年後の春。 平家の権勢は、治承三年の政変を経て、まさに天頂に達しようとしていた。清盛入道の嫡孫である言仁ときひと親王、後の安徳天皇がわずか三歳で東宮(皇太子)となり、日の本は事実上平家一門の手中にあったと言っても過言ではない。


六波羅の邸宅群は、その栄華を映し出すかのように日に日に壮麗さを増していた。中でも経盛の屋敷は、神託の子・幸若の健やかな(ということになっている)成長も相まって、華やいだ空気に満ちていた。表向きは。


その日、屋敷の壮麗な唐門からもんの前に一台の牛車ぎっしゃが静かに止まった。中から現れたのは、まだ元服前の年の頃は七つほどの少年であった。


少年の名は、伊勢信経いせのぶつね。平家の遠縁にあたる伊勢平氏の分家筋の次男である。今日のこの日まで、彼は伊勢の緑豊かな、しかし都の華やかさとは無縁の地で育ってきた。 彼が今日この六波羅の地を踏んだのは、経盛の一人息子である幸若の「乳兄弟ちきょうだい」として仕えるためであった。乳兄弟とは言うものの、実際に同じ乳を飲んだわけではない。年若き主君の側に仕え、遊び相手となり、武芸や学問を共にし、そしていずれは主君の最も信頼篤き腹心の家臣となるべく選ばれた、言わば「学友」兼「侍童じどう」のような存在である。


信経は、父に手を引かれ、息をのんで目の前の光景を見上げていた。 天に届かんばかりに反り返った屋根を持つ巨大な門。その向こうに広がる、白砂が波紋を描くように掃き清められた広大な庭。遠くに見える寝殿や対屋たいのやは、雲の上に浮かぶ御殿のように現実感がなく、屋敷全体から漂うえも言われぬ沈香じんこうの香りが、年若い信経の感覚を麻痺させた。


(ここが……都。平家一門の……)


父から、お前は平家本家のご嫡男にお仕えするのだと聞かされた時、彼はその本当の意味を理解していなかった。だが今、肌で感じるこの圧倒的な威容と富貴は、これから自分が足を踏み入れる世界が、昨日までのそれとは全く違う次元にあることを否応なく彼に突きつけていた。


案内に従い、磨き上げられた渡殿を進む。すれ違う女房たちの衣擦れの音、その誰しもが身に纏う上質な絹の艶やかさ、遠くから聞こえてくる楽の音。その全てが信経の心を萎縮させた。彼は、自分の着ている今日のために母が新調してくれた少し硬い水干すいかんが、ひどくみすぼらしいものに思えてならなかった。


やがて通されたのは、屋敷の主、平経盛が待つ広間であった。 上座に座る経盛は、信経が想像していたよりもずっと穏やかで優美な顔立ちをしていた。しかし、その涼やかな眼差しは射抜くように鋭く、信経の心の奥底まで見透かしているかのようだった。その隣には、この上なく美しい、しかしどこか憂いを帯びた表情の夫人が静かに座っている。幸若の母であった。


「面を上げよ。お主が、伊勢の信経か」


経盛の静かな声が響く。信経は、父に言われた通り、板敷に額がつくほど深く頭を下げ、震える声で己の名を告げた。


「は。伊勢三郎が次男、信経にございまする」


「うむ。遠路、大儀であった。見ての通り、ここは戦場ではない。堅苦しい作法は追々覚えればよい。それよりも、お主には大事な役目がある」


経盛は、真っ直ぐに信経を見据えて言った。


「我が息子、幸若は、今年で五つになる。まだ、遊び相手もおらぬ。お主は、今日より幸若の兄となり、友となり、そして影となれ。幸若の傍らを、片時も離れるでない。良いな」


「は……はい! 身命を賭して、お仕えいたしまする!」


信経が必死に絞り出した声に、経盛はかすかに口元を緩めた。隣の夫人は、安堵したような、それでいてなお痛ましげな複雑な表情を浮かべている。 その時の信経には、経盛の言葉に込められた「影となれ」という真の意味も、夫人の表情に隠された深い憂いの理由も知る由もなかった。


信経が初めて幸若に対面したのは、その日の昼過ぎのことだった。 案内されたのは、庭の池に面した風通しの良い一室。そこには、小さな机に向かい一心に筆を動かしている一人の子供がいた。


信経は息をのんだ。 それが、自分が生涯をかけて仕えるべき主君、平幸若であった。 年の頃は五つ。自分よりも二つも年下のはずなのに、その姿はまるでこの世のものとは思えぬほど美しかった。


絹のように滑らかな黒髪はまだ短く、肩のあたりで切りそろえられている。着ているのは、藤の花の色を淡くしたような上質な綾織りの小袖に、少年らしい軽やかな括りくくりばかま。しかし、その装いがなければ誰もが可憐な姫君と見間違えただろう。 人形師が精魂込めて作り上げたかのような完璧に整った顔立ち。長い睫毛に縁取られた、夜の湖のように深く澄んだ大きな瞳。そしてまだ血の気の通わぬ白磁のような肌。


あまりの美しさに信経は声をかけることも忘れ、その場に立ち尽くしてしまった。 人の気配に気づいたのか、幸若がゆっくりと顔を上げる。その大きな瞳が戸惑ったように信経を捉えた。


「……だれ?」


鈴を振るようなか細く高い声。 信経ははっと我に返り、慌ててその場に膝をついた。


「本日より、若君様にお仕えつかまつります、伊勢信経と申します!」


「……のぶつね」


幸若は鸚鵡返しにそう呟くと、再び視線を机の上の紙に戻してしまった。興味がないというあからさまな態度だった。 二人の間に気まずい沈黙が流れる。 信経はどうすればいいのかわからなかった。友となれ、と言われた。しかし目の前にいるのは、天上の人のように美しく近寄りがたい若君だ。自分のような田舎育ちの武家の次男坊が、馴れ馴れしく話しかけて良い相手には到底思えなかった。


その日から二人の奇妙な日々が始まった。 信経は経盛の言葉通り幸若の「影」となった。朝、幸若が目覚めると信経は既にその枕元に控えている。幸若が書の手習いをすれば信経はその隣で墨をする。幸若が庭を散策すれば信経は三歩下がってその後に続く。


しかし二人の間に言葉らしい言葉は交わされなかった。 幸若は必要以上のことを全く話さない寡黙な子供だった。美しい顔には常に表情がなく、何を考えているのか読み取ることは難しい。嬉しいのか、悲しいのか、楽しいのか。その感情の揺らぎが信経には全く見えなかった。


それは幸若が生まれながらに背負わされた「偽り」のせいだった。 物心ついた時から彼女は「幸若」という名の少年として生きることを両親から厳しく教え込まれていた。決して女のように振る舞ってはならぬ。声高く笑ってはならぬ。涙を見せてはならぬ。感情を、殺すのだ、と。 その教えはわずか五歳の少女の心を厚い氷の壁で覆ってしまっていた。


信経はそんな敦経の心をどうにかして開かせようとした。 伊勢の山で捕まえた珍しい甲虫を見せても、幸若はちらりと一瞥するだけ。自分が覚えたばかりの今様いまようを謡って聞かせても何の反応も示さない。 信経は次第に焦りと、そして深い孤独を感じ始めていた。自分は、この美しい主君の本当の「影」にすらなれないのではないか。自分はここにいる意味がないのではないか。


そんな日々が一月ほど続いた、ある月夜の晩のことだった。


その夜の月は、まるで磨き上げた銀の盆のように満ちていた。 白砂の庭は月の光を浴びて青白く輝き、まるで雪が降り積もったかのようだ。 信経は自室で眠りにつけず、そっと縁側に出てその月を眺めていた。


するとどこからか澄んだ音が聞こえてきた。 最初は風の音かと思った。あるいは夜鳴き鳥の声か。しかしそれは紛れもなく人の手によって奏でられている笛の音だった。 その音色はどこまでも清らかで、そしてどこまでも悲しかった。まるで月の光そのものが音になったかのようだった。


(この音は……)


信経は音のする方へと吸い寄せられるように歩き出した。 渡殿を渡り、庭に面した寝殿の濡縁ぬれえんに彼はその姿を見つけた。


月光を一身に浴びそこに座っていたのは幸若だった。 その手には子供の手にも余るほどの、一本の横笛が握られている。それはまだ幸若自身の笛ではなく、父・経盛が手習いのために与えた素朴な竹笛だった。


幸若はその笛を唇に寄せ、再び音を紡ぎ始めた。 それはまだ稚拙な、子供の指が奏でるたどたどしい旋律だった。しかしその一音一音に込められた想いは信経の胸を強く打った。 言葉を発することのなかった幸若が、初めて自らの心を語っているように聞こえた。 寂しい。苦しい。誰か、本当の私を見つけて。 笛の音はそう泣いているようだった。


信経は声をかけることも忘れ、柱の影に身を潜めただじっとその音色に耳を傾けていた。 この美しい若君は、決して感情がないわけではなかったのだ。その胸の内には自分などには計り知れないほどの深い哀しみを湛えている。そしてそれを吐き出す術をこの笛の音以外に持たなかったのだ。


やがて一曲吹き終えた幸若が、ふと顔を上げた。その大きな瞳が、柱の影にいる信経の姿をまっすぐに捉えた。 見つかってしまった。信経は慌ててその場に平伏しようとした。盗み聞きをした無礼を罰せられるかもしれない。


しかし幸若は怒った様子を見せなかった。 ただ静かに信経を見つめている。その瞳は月の光を映して潤んでいるように見えた。


「……笛が、好きなのか」


先に口を開いたのは幸若だった。 それは信経がこの屋敷に来てから、初めて幸若の方からかけられた問いかけの言葉だった。


「は……はい。若君様の笛の音は、とても……とても、美しゅうございます」


信経は思ったままを正直に口にした。お世辞ではなかった。心の底からの偽らざる言葉だった。


その言葉に幸若の表情がかすかに和らいだように見えた。硬く結ばれていた唇の端がほんの少しだけ持ち上がる。それは笑顔と呼ぶにはあまりにささやかな変化だったが、信経にはそれが何よりも嬉しいことに思えた。


「……そうか」


幸若はぽつりとそう呟くと、再び月に視線を戻した。しかしその横顔は、先ほどまでの氷のような無表情さではなく、どこか安堵したような穏やかな色を帯びていた。 信経は平伏するのも忘れ、しばらくの間月下の主君の姿をただ黙って見つめていた。


厚い氷の壁にほんの少しだけひびが入ったような気がした。 この笛の音がいつか、自分とこの方とを繋ぐ架け橋になるのかもしれない。


この月夜の一件以来、幸若は少しずつ信経に心を開くようになっていった。 言葉数は依然として少なかった。しかし信経が傍にいると、時折庭の花の名を尋ねたり、空を流れる雲の形を指さしたりするようになった。そして何より幸若は、信経の前で笛を吹くようになった。 信経は幸若の一番の聴き手となった。幸若の笛の音が昨日よりも少しだけ明るい日は信経の心も晴れやかになった。幸若の笛の音がひときわ悲しく響く夜は、信経もまた胸を痛めた。


経盛と、その妻は、二人の子供の変化を安堵と、そして一抹の不安をもって見守っていた。信経という存在が、幸若の閉ざされた心を確かに溶かし始めている。それは喜ばしいことであった。 だがこのまま二人の絆が深まれば、いつか信経は気づいてしまうかもしれない。幸若が隠し持つ致命的な秘密に。 その時、この忠実な少年はどうするだろうか。


「……潮時かもしれぬな」


ある晩、経盛は妻にそう呟いた。


「信経に、全てを話そう。あやつを、我らの、そして幸若の、本当の『共犯者』にするのだ」


妻は青ざめた顔で頷いた。それはあまりにも危険な賭けだった。しかし信経という少年の、あの嘘のない真っ直ぐな瞳を信じるしか道はなかった。


数日後。信経は経盛夫妻の私室へと密かに呼び出された。 昼間だというのに部屋の格子は下ろされ、薄暗い中に重々しい香の匂いが立ち込めている。ただならぬ雰囲気に信経は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。


「信経。お主を、信じて良いな」


経盛は前置きもなくそう切り出した。 信経は戸惑いながらも力強く頷いた。


「はい。この身に代えましても、若君様をお守りいたします」


「……その言葉、違えるなよ」


経盛はそう言うと、ゆっくりとそして重い口調で語り始めた。 幸若が生まれた日のこと。跡継ぎとなる男子を待ち望んでいたこと。そして玉依媛という巫女がもたらした恐ろしい神託のこと。 栄華の道と、滅びの道。 そして栄華の道を選ぶために彼らが犯した大いなる禁忌のこと。


「……よいか、信経。我が子、幸若は……」


経盛は一度言葉を切り、震える声で最後の真実を告げた。


「……幸若は、女子なのだ」


その言葉は雷鳴のように信経の頭を撃ち抜いた。 じょし。女子。おんなのこ。 一瞬言葉の意味が理解できなかった。思考が完全に停止する。


信経は呆然と経盛の顔を見つめた。経盛の隣では夫人が扇で顔を覆い嗚咽を漏らしている。 嘘だ。そんなはずがない。 若君様は男の子だ。自分が仕える主君だ。


しかし信経の脳裏にこれまでの幸若の姿が次々と蘇ってきた。 初めて会った時の姫君と見紛うばかりの美しさ。自分よりもずっと華奢な体つき。か細く高い声。そして何よりもあの月夜に、悲しげに笛を吹いていた寂しげな横顔。


全てが腑に落ちた。 パズルのピースが恐ろしい音を立ててぴたりとはまるように。


若君様が時折見せるあの深い悲しみの理由はこれだったのだ。自分が男ではないことを誰にも言えず、たった一人で偽りの仮面を被り続けていたからなのだ。 そう理解した瞬間、信経の胸にこれまで感じたことのない激しい感情が突き上げてきた。 それは驚きでも混乱でもなかった。 ただひたすらに、幸若が可哀想で愛おしくてたまらなかった。 そしてこの方を、自分が守らねばならない、という烈火のような使命感だった。


信経はまだ七つの子供であった。しかしその瞬間、彼はただの子供であることをやめた。


彼はその場に両手をつき、畳に額をこすりつけた。 そしてまだ幼さの残る、しかし揺るぎない覚悟を込めた声で誓いを立てた。


「……御意にございます」


彼の声は少しも震えていなかった。


「信経、この命ある限り……いいえ、この命尽き果てた後も、姫君様を……いえ、我が主君、幸若様を、お守りし、お支えし続けることを、ここに、お誓い申し上げます。この秘密は、父にも、母にも、誰にも、決して口外いたしませぬ。我が墓まで、携えて参りまする」


そのあまりに大人びた、そして悲壮なまでの誓いの言葉に、経盛は息をのみ、妻はさらに深く顔をうずめて泣いた。 ああ、我らはこの幼い少年にまで、なんと重い宿命を背負わせてしまったのだろうか。 しかし同時に、彼らは確信した。 この少年ならば、幸若を任せられる。


その日から信経は、幸若の本当の「影」となった。 彼の幸若への態度は表面上は何も変わらなかった。これまで通り、三歩下がって仕える忠実な侍童であった。 だがその内実は全く違うものへと変わっていた。


信経は幸若が少しでも男らしく見えるように、細心の注意を払うようになった。幸若の歩き方、声の出し方、扇子の使い方。その一つ一つにそれとなく、武家の男子としての作法を遊びに紛れ込ませて教えていった。 そして幸若がふとした瞬間に少女としての素顔を覗かせそうになると、さりげなく人々の目から隠した。 幸若が悲しい笛を吹く夜はただ黙ってその側に寄り添い、その悲しみを半分受け取った。


幸若もまた信経の変化に敏感に気づいていた。 信経が自分の秘密を知ったのだと、彼女は直感で理解した。しかし信経はそのことについて一言も触れなかった。これまでと変わらず自分を「若君」として扱い、そして以前よりもっと深く優しく自分を守ってくれるようになった。


ある日の午後。 二人は庭の大きな松の木の下に座っていた。 幸若がいつものように笛を吹いている。信経がその傍らでじっと耳を傾けている。 ふと、幸若が笛を吹くのをやめ、信経の顔をじっと見つめた。 そして初めてはっきりと、花が綻ぶように微笑んだ。


それはこれまで信経が見た、どんな花よりもどんな宝物よりも美しい微笑みだった。 その微笑みは信経に確かに伝えていた。


ありがとう、信経。お前がいてくれて、良かった、と。


信経もまた幸若に静かに微笑み返した。 言葉はいらなかった。 偽りの主君と、その秘密を守ることを誓った影の家臣。 月夜の下で始まった二人の絆は、この日誰にも壊すことのできない固い固いものとなった。


二人の未来にどれほど過酷な運命が待ち受けていようとも、この瞬間の偽りのない心の繋がりだけは真実であった。 平家の栄華の光と、その裏側に落ちる深い影の中で、二人の少年(ひとりは偽りの)の静かな日々は、こうしてゆっくりと過ぎていくのであった。

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