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須磨の浦に、君が名を問う  作者: ろくさん
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第一話:神託の子

敦盛は幼名が伝わっていないため、幸若舞から幼名を創作じした。


寿永二年(1183年)の夏。京の都は、蝉時雨が容赦なく降り注ぐ、蒸し暑い空気に満たされていた。とりわけ六波羅の一角に壮麗な屋敷を構える平家一門の邸宅群は、その権勢を象徴するかのように、陽光を照り返すいらかの波と、白砂を敷き詰めた庭が放つ熱気で、まるで陽炎の中に沈んでいるかのようであった。


その中でも、平清盛の弟である経盛つねもりの屋敷は、ひときわ深い静寂と、張り詰めた緊張に支配されていた。


「……まだか」


寝殿造りの広大な屋敷、その最も奥まった一室に通じる透渡殿すきわたどので、平経盛は誰に言うともなく呟いた。年の頃は四十半ば。日に焼けてはいるが、その顔立ちは貴公子然とした涼やかさを未だに残している。しかし今、その眉間には深い皺が刻まれ、指の関節が白くなるほど強く握りしめた扇子が、彼の内心の焦燥を物語っていた。


身に纏っているのは、薄藍の地に細やかな秋草の文様が織り込まれた、風通しの良い夏の狩衣かりぎぬ。一分の隙もなく着こなされたそれは、彼が平家の中でも屈指の風流人であることを示していたが、今の彼に自らの装いを気にする余裕はなかった。


彼の視線は、固く閉ざされた御簾みすの奥、妻が待つ産室へと注がれている。御簾の向こうからは、時折、くぐもった女たちの声と、衣擦れの音、そして何よりも経盛の心を苛む、妻の苦しげな息遣いが漏れ聞こえてくる。


朝から始まった産みの苦しみは、既に陽が中天に差し掛かろうという時刻になっても、終わりの気配を見せなかった。経盛にできることは何もない。ただ、こうしてひたすらに待ち続けることだけだ。


庭に目をやれば、丹精込めて手入れされた木々が、濃い緑の影を落としている。池の鯉が時折、水面に跳ねる音が涼を呼ぶはずであったが、今の経盛の耳には、それすらも苛立ちを煽る雑音にしか聞こえなかった。


「若……」


背後から、遠慮がちな声がかけられた。振り向くと、年配の女房が深々と頭を下げて控えている。

「何か変わったことでも?」

「いえ、それが……。奥様は大変お苦しみのご様子で。ただ、赤子様はもうすぐ……とのこと」

「そうか」


短い返事を返し、経盛は再び産室へと向き直る。

(頼む……頼むぞ……)

心の中で、彼は八百万の神仏に祈っていた。

(我が跡を継ぐ、逞しき男子を……。この平家一門の未来を担う、力強き男子を、何とぞ……)


平家は今、日の本の頂点にあった。清盛入道が切り拓いた武家の世。その権勢は、帝や上皇をも凌ぎ、まさに盤石かに見えた。しかし、その栄華の足元では、不満と嫉妬のマグマが不気味に滾っていることを、経盛のような一門の枢要にいる人間は、痛いほど感じていた。


源氏をはじめとする、かつての宿敵。力を奪われた古い貴族たち。強権的な平家のやり方に反発する寺社勢力。いつ、どこで綻びが生じてもおかしくはない。だからこそ、一門の結束を固め、次代を担う男子を一人でも多くもうけることが、清盛亡き後の平家を支える者たちの至上命題であった。


経盛には既に幾人かの子がいたが、嫡男となるべき正室の子は、まだいなかった。この度の妻の懐妊は、まさに一門の誰もが待ち望んだものだった。


その時、御簾の向こうの苦しげな声が、ひときわ甲高いものに変わった。女たちの動きがにわかに慌ただしくなる。経盛は思わず立ち上がり、渡殿の濡縁まで進み出た。心臓が、早鐘のように胸を打つ。


長い、長い沈黙。蝉の声だけが、やけに大きく響いていた。


やがて、産室の中から、か細く、しかし生命力に満ちた赤子の産声が響き渡った。


「おお……!」


経盛の口から、安堵の吐息が漏れた。全身から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、傍らの柱に手をついて辛うじてこらえる。


やった。生まれた。我が子が、生まれたのだ。


すぐに、産婆と思しき女が、汗だくの顔で御簾から現れ、経盛の前にひれ伏した。その表情は、喜び一色とは言い難い、どこか複雑な色を浮かべていた。


「申し上げます! ご無事にご出産、相成りました!」

「うむ、大儀であった。して、生まれた子は?」


経盛は、逸る心を抑え、努めて平静な声で問うた。産婆は一瞬、言葉に詰まり、視線を畳に落とした。その逡巡が、経盛の心に冷たい影を落とす。


「……それは……」

産婆は意を決したように顔を上げ、はっきりとした声で告げた。

「……玉のような、姫君にございます」


姫君。


その二文字が、経盛の耳に届くまで、奇妙な時間差があった。一瞬、言葉の意味を理解できなかった。そして、理解した瞬間、彼の世界から、音が消えた。


あれほどけたたましく鳴り響いていた蝉の声が、遠のいていく。目の前の産婆の顔が、ゆらりと歪んで見える。安堵に緩みかけていた全身の筋肉が、再び硬直していくのを感じた。


(姫……だと……?)


失望。その一言では言い尽くせぬ、深い喪失感が、彼の全身を貫いた。それは、腹の底に、鉛の塊を流し込まれたかのような、重苦しい感覚だった。


「……そうか。……姫か」


ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど、乾ききっていた。

「妻は、息災であるか」

「はい。お疲れではございますが、母子ともに、ご無事にございます」

「そうか。……下がれ」


産婆が下がっていくと、再び静寂が訪れた。経盛は、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。嬉しくないわけではない。我が子が無事に生まれたのだ。それ自体は、紛れもない喜びであるはずだ。だが、彼の心を占めているのは、期待が裏切られたことへの、どうしようもない落胆だった。


ゆっくりと立ち上がり、御簾へと近づく。女房に声をかけると、御簾が静かに巻き上げられた。


部屋の中には、血と汗の匂いがまだ生々しく残っていた。ふすまの上にぐったりと横たわる妻は、長い黒髪を汗で肌に貼りつかせ、青白い顔で浅い息を繰り返している。その傍らには、真新しい産着に包まれた赤子が、産婆に抱かれて眠っていた。


「……殿」


妻が、か細い声で夫を呼んだ。その声には、喜びよりも先に、申し訳なさが滲んでいた。

「済まされませぬ……。お世継ぎを、産むことができず……」

「何を言う。お前は、命懸けで我が子を産んでくれた。大儀であった」


経盛は妻の枕元に膝をつき、その手を取った。妻の手は、氷のように冷たかった。彼の言葉に、妻の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。


産婆が、赤子をそっと経盛の腕に差し出した。恐る恐る、その小さな身体を受け取る。ずしりとした、命の重み。すやすやと眠るその顔は、まさしく玉のようだった。磨き上げた象牙のような肌。小さな貝殻のような爪。まだ閉じられたままの瞼の下で、どのような世界を夢見ているのだろうか。


完璧な赤子だった。ただ一点、男ではないということを除けば。


この子が、もし男子であったなら。この屋敷は今頃、どれほどの歓喜に包まれていただろう。一門の者たちが、次々と祝いに駆けつけただろう。父である自分は、誇らしげにこの子を抱き上げ、その未来に思いを馳せたことだろう。


だが、現実は違う。この子の誕生を、心から祝福する者は少ないだろう。むしろ、落胆し、あるいは密かに嘲笑う者さえいるかもしれない。そう思うと、腕の中の無垢な寝顔が、哀れでならなかった。


「名を……」

妻が、再び口を開いた。

「この子の名を、お決めくださいませ」

「……ああ」


経盛は、腕の中の赤子を見つめたまま、言葉に詰まった。用意していた名は、すべて勇ましい男子の名ばかりだった。姫の名など、一つも考えてはいなかったのだ。


その日から、経盛の屋敷には、重苦しい空気が垂れ込めた。表向きは姫の誕生を祝う使者が訪れたが、その言葉の端々には、同情や儀礼的な響きが感じられて、経盛の心を苛んだ。妻も、産後の肥立ちが思わしくなく、床に伏せがちになった。


そんな鬱屈した日々が数日続いたある日の午後。

一人の老いた巫女が、何の先触れもなく、屋敷を訪れた。


名を、出雲の玉依媛たまよりひめといった。京の都では、その神がかりの力で知らぬ者のない、高名な巫女であった。平家一門も、重要な決定を下す際には、しばしばこの巫女の神託を仰いできた。


「これは、玉依媛様。いかなる御用でございましょうか」


突然の来訪に驚きながらも、経盛は丁重に巫女を奥の間へと通した。

玉依媛は、年の頃は六十を過ぎているだろうか。純白の衣に緋の袴を身に着け、背筋を凛と伸ばして座る姿には、年齢を感じさせない威厳が満ちていた。皺の刻まれた顔は、まるで古木のようであったが、その瞳だけが、全てを見通すかのように、深く澄んだ光を宿していた。


「呼ばれずとも、参るのがわたくしの務めにございます」

巫女は、鈴を鳴らすような、静かだがよく通る声で言った。

「この屋敷に、新たな星が生まれたと聞き及びましたゆえ」

「……星、にございますか」

「さようにございます。先日お生まれになった姫君。あの子は、ただの子ではございません。平家一門の行く末を左右する、『宿星しゅくせい』をその身に宿しておられます」


経盛は、思わず息をのんだ。巫女は、彼の動揺など意にも介さず、静かに続けた。

「その星の輝きを、この目で見定めるために参りました。姫君を、こちらへ」


有無を言わせぬその言葉に、経盛は女房に命じて、赤子を連れてこさせた。

巫女は、眠っている赤子をじっと見つめ、その小さな手にそっと触れた。そして、ゆっくりと目を閉じ、何事かを呟き始めた。それは、古い言葉で紡がれた、祈りのようでもあり、呪文のようでもあった。


部屋の空気が、しんと張り詰める。経盛は、固唾をのんで巫女の様子を見守った。

やがて、巫女はゆっくりと目を開いた。その瞳は、先ほどよりもさらに深く、人ならざる光を湛えているように見えた。


「……見えました」


巫女は、厳かな声で告げた。

「この姫は、二つの道を持っておられる。一つは、平家を未曾有の栄華へと導く道。もう一つは、一門を奈落の底へと突き落とす、滅びの道にございます」


「な……!?」

経盛は絶句した。

「滅びの道、と……。それは、一体……」

「姫を、姫として、柔らかな絹の衣で育てれば、その美しさは蝶を呼び、花を咲かせましょう。しかし、その甘い香りは、やがて平家を蝕む敵を呼び寄せる、破滅の誘い水となりましょう。愛らしさは、やがて争いの火種となり、その涙は、一門を滅びの海へと沈める塩となる」


巫女の言葉は、まるで鋭い刃のように、経盛の心を抉った。

「では……では、どうすれば! 栄華への道とは、いかなるものにございますか!」


経盛が身を乗り出して問うと、巫女は、赤子へと視線を落としたまま、静かに、しかし、はっきりと告げた。


「この子を、男子としてお育てなさい」


「……は?」

経盛は、己の耳を疑った。

「男子……として……?」

「さようにございます。この子の内に秘められしは、月の女神のごとき優美さにあらず。荒ぶる軍神いくさがみの、猛き魂。その魂を、男の器に収め、武士として育てるのです。名を、猛々しき武士の名を与えなさい。弓馬の道を教え、鎧兜をその身に纏わせなさい」


巫女は、そこで言葉を区切り、真っ直ぐに経盛の目を見据えた。

「さすれば、この子は平家を守護する、揺るぎなき刃となりましょう。その武威は、敵をことごとく薙ぎ払い、その名は、一門に永代の勝利をもたらす、吉兆の星として輝き続けることにございます」


あまりに荒唐無稽な神託に、経盛は言葉を失った。娘を、男として育てる。そんなことが、許されるはずがない。天地の理に背く、人倫にもとる行いではないか。


しかし、巫女の瞳は、一点の曇りもなく、これは変えられぬ天命であると告げていた。

滅びか、あるいは偽りの栄華か。

平家の未来が、今、この腕の中の、小さな赤子に託されている。


その夜、経盛は、床に伏せる妻に、玉依媛の神託を全て語った。妻は、最初は夫と同じように絶句し、そんな恐ろしいことはできないと涙を流した。我が子から、女としての人生を奪うなど、母親としてできるはずがない、と。


だが、巫女の言葉が、何度も二人の脳裏に蘇る。

――その涙は、一門を滅びの海へと沈める塩となる。


平家の一員として生まれたからには、一門の運命から逃れることはできない。自分たちの愛する一族が、この子のせいで滅びるなど、耐えられるはずがなかった。そして何より、この子自身が、争いの火種として、不幸な運命を辿る未来など、見たくはなかった。


男として育てれば、この子は一門を守る英雄となる。それは、過酷な道かもしれぬが、少なくとも滅びの道よりは……。


長い、長い沈黙の末、妻は、涙に濡れた顔を上げた。その瞳には、絶望と、そして、我が子を守るための、母としての、悲壮な覚悟が宿っていた。


「……わかりました。あなた……。それが、この子の宿命なのであれば……。それが、この子と、我ら一門が生きるための、唯一の道なのであれば……」


妻の言葉に、経盛は、固くこぶしを握りしめた。これで、もう後戻りはできない。


経盛は、再び赤子を腕に抱いた。眠っているその顔は、やはりどこから見ても、愛らしい女の赤子だった。しかし、この顔が、やがて精悍な若武者のものとなる未来を、彼は想像しなければならなかった。


「……名だ」


経盛が呟いた。

「この子に、名を授けねばならぬ」


彼は、しばし考えた後、決意を込めた声で言った。

用意していたどの名よりも、力強く、猛々しい響きを持つ名を。


「この子の名は、幸若こうわかとする」


平幸若。後の平敦盛。


その名は、平家一門に勝利をもたらすという、輝かしい神託と共に、一人の少女から、女としての未来を永遠に奪い去った。


腕の中で眠る赤子は、自らに課せられた、あまりにも巨大で、歪んだ運命など知るよしもなく、ただ静かに、小さな寝息を立てているだけであった。


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