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須磨の浦に、君が名を問う  作者: ろくさん
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第三話:偽りの元服

伊勢信経が六波羅の土を踏んでから八年の歳月が流れた。 その間、日の本の情勢はめまぐるしく、そして確実に、平家にとって好ましくない方角へと傾き始めていた。後白河法皇を中心とした院政勢力との対立は抜き差しならぬものとなり、鹿ケ谷の陰謀に代表されるような平家打倒の企てが水面下で幾度となく繰り返される。清盛入道は、福原への遷都という強硬策によってその流れを断ち切ろうとしたが、旧都への不満と反発はむしろ燻る火に油を注ぐ結果となった。


都のそこかしこで人々は囁き合っていた。「平家にあらずんば人にあらず」と豪語した一門の栄華も、もはや西に傾きかけた日の光に過ぎぬ、と。


しかし、そんな激動する世の理など、まだ少年と青年の狭間にいる二人にとっては遠い世界の出来事のようでもあった。幸若は十三歳に、信経は十五歳になっていた。


彼らの世界は、六波羅にある経盛の広大な屋敷の中に閉ざされ、そして完結していた。信経はあの日、月夜の下で誓った通り、幸若の完璧な「影」であった。彼の存在なくして、幸若が偽りの性を八年間も隠し通すことは到底不可能だっただろう。


その秘密を守るための営みは、二人の間だけの儀式めいた日課となっていた。 毎朝、幸若が寝所から起き出す前、信経は誰よりも早くその部屋を訪れる。そして人払いをした上で、幸若がその身に纏う「鎧」の装着を手伝うのだ。 その鎧とは言うまでもなく、女性としての身体を隠すためのものである。


「……若、少し息を吸い、止めてくだされ」


信経は幸若の背後に回り、その薄い絹の肌着の上から、幅広の白いさらしを巻き付けていく。八年の歳月は、幸若の身体を容赦なく少女から娘へと変えていた。肩の線は丸みを帯び、腰には柔らかな曲線が生まれ、そして何よりも、その胸には、本人にとって忌まわしいとしか言いようのない、ふっくらとした膨らみが年々、はっきりと形作られてきていた。


信経は、その膨らみを息を殺しながら純白の布の下に押し殺していく。肌に食い込むほどきつく、しかし呼吸が苦しくならぬよう絶妙な力加減で。晒を巻く間、信経は決して幸若の身体を直視しない。それは主君への礼儀であると同時に、十五歳の青年である彼自身の、どうしようもなく騒ぐ心を律するための必死の自制であった。


だが、触れる指先から伝わってくる柔らかな肌の感触、すぐ間近で感じる幸若のか細い呼吸と、衣の下から漂う少女特有の甘い香り。それらは信経の心を容赦なく掻き乱した。彼は、この毎朝の儀式が苦痛であると同時に、彼だけが幸若の最も深い秘密に触れることを許された甘美な時間でもあることを自覚せざるを得なかった。


「……もう、よい」


幸若が小さな声で言う。その声には諦めとかすかな自己嫌悪が滲んでいた。信経は晒の端を巧みに処理すると黙って一歩下がる。鏡に映る幸若の姿は、胸の膨らみが注意深く隠され、再び華奢な少年のそれに戻っていた。しかしその顔色は常にも増して青白く、表情は硬い。


「ありがとう、信経」


「……勿体ないお言葉にございます」


幸若は礼を言うが、その瞳は決して信経を映そうとはしない。自分の醜態を唯一の共犯者に見られることへの羞恥と屈辱。そしてそんな歪んだ関係を強いていることへの罪悪感。様々な感情が彼女の心を苛んでいた。


月経つきのけいが始まったのは十一の歳の冬だった。 初めて下腹部に感じた鈍い痛みと、肌を伝う生々しい血の感覚に、幸若はパニックに陥った。男として育てられた彼女は、それが何であるのか知識としてしか知らなかった。父も母も決してこの話題に触れようとはしなかったからだ。 誰にも言えず、自室で青ざめて震えていた幸若の異変に最初に気づいたのも信経だった。


信経は少しも騒がず、驚いた顔も見せず、ただ黙って幸若の母君の元へと走った。そして必要なものを全て揃えると、再び幸若の部屋へと戻り、慣れぬ手つきでその後始末を手伝った。 それ以来、月に一度訪れるその期間、幸若は「病」を理由に部屋に籠もり、信経だけがその世話をすることを許された。


そうした秘密の共有は、二人の絆を、もはや主従や友という言葉では言い表せないほど深く、そして歪なものへと変えていった。 幸若にとって信経は、自分をこの世界に繋ぎとめる唯一のくさびであった。 信経にとって幸若は、自分が命を賭して守るべき唯一の聖域せいいきであった。


その年の秋、幸若が十三になったばかりの頃。 経盛は信経と幸若を自らの前に呼び、厳かに告げた。


「幸若。来たるべき月の吉日をもって、お前の元服の儀を執り行うことと相成った」


元服。武家の男子が、童子から一人前の大人へと生まれ変わる生涯で最も重要な儀式。前髪を落とし、髪を結い上げ、童子の装束を改めて大人のそれとし、烏帽子えぼしを被る。そして幼名に代わる新たな名乗りであるいみなを授かる。


その言葉を聞いた瞬間、幸若の顔からさっと血の気が引いていくのが、隣にいた信経には痛いほど分かった。彼女の指先がかすかに震えている。


(……来てしまった)


幸若の心は絶望に凍りついていた。 これまで心のどこかで、この「幸若ごっこ」にはいつか終わりが来るのではないかと淡い期待を抱いていた。いつか本当の自分に戻れる日が来るのではないか、と。 しかし元服は、その最後の希望を無慈悲に打ち砕く宣告だった。 この儀式を終えれば、自分は社会的に、そして公式に、「平幸若」という名の「男」として認められてしまう。もう後戻りはできない。少女としての自分は、この儀式をもって完全に殺されるのだ。


「……ありがたく、お受けいたしまする」


幸若は喉の奥から絞り出すようにそう答えた。その声は自分でも驚くほど平坦で感情がなかった。 経盛は、そんな息子の(ということになっている)様子に気づかぬわけではなかったが、あえて何も言わず満足げに頷いた。


「うむ。烏帽子親えぼしおやは、我が兄、教盛のりもり殿にお願いしてある。平家一門のそうそうたる顔ぶれがお前の門出を祝いに来てくださるであろう。決して、粗相のないようにな」


「は……」


その夜、幸若は一睡もできなかった。 自室のふすまの中で、彼女は来るべき儀式の光景を何度も何度も悪夢のように思い描いていた。大勢の一門の男たちに囲まれ、自分の髪が切り落とされる。男の装束を着せられ、見知らぬ男の名で呼ばれる。それはまるで生きたまま葬儀を執り行われるようなおぞましい想像だった。


(いやだ……。誰か、助けて……)


心の中で何度叫んでも声にはならなかった。唯一その叫びを聞き届けてくれるはずの信経は、今は隣の部屋で眠っている。彼にだけはこんな醜い弱音を吐きたくはなかった。


儀式の数日前から、屋敷はにわかに慌ただしくなった。 元服の儀で幸若が身に纏う真新しい直垂ひたたれと、人生で初めて被る漆塗りの艶やかな烏帽子が仕立て屋から届けられた。


幸若は信経だけを供につけ、衣装を合わせるために部屋にこもった。 信経が広げた直垂は、若紫の地に細やかな松の葉の文様が織り込まれた目も覚めるような見事な品だった。 しかし幸若の目には、それが美しいとは少しも映らなかった。ただ自分を閉じ込める豪華な囚人服のようにしか見えなかった。


「……若、こちらへ」


信経の声もいつもより硬い。彼は幸若の気持ちが痛いほど分かるだけに、何と言葉をかければ良いのか分からなかったのだ。


幸若が人形のようにされるがままになっていると、信経がその身体に直垂を纏わせていく。 その時だった。 幸若の肩に触れた信経の手がぴたりと止まった。


「……若」


信経がかすかに狼狽した声で呟いた。


「……晒が、緩んでおります」


幸若ははっと息をのんだ。朝、きつく巻いたはずの晒が、身体の動きに合わせて少しだけずれてしまったらしい。その隙間から肌着越しに、胸の柔らかな輪郭がわずかに浮かび上がってしまっていた。


「……すまぬ」


幸若は顔を真っ赤にしてうつむいた。 信経は何も言わず、一度直垂を幸若の身体から離すと、背後に回り手早く晒を巻き直した。その手つきはいつも通り冷静で丁寧だった。 しかしその指先がかすかに震えているのを、幸若は感じ取っていた。


信経もまた限界だった。 目の前にいるのはもはや、自分が守るべきか弱き「姫」ではない。十三歳という最も多感な年頃の、美しい「娘」なのだ。その肌に触れるたび、その香りを吸い込むたび、彼の心は主君への忠誠心と、一人の男としての恋情との間で引き裂かれそうになっていた。


(若……。いいえ、姫……)


心の中で彼は何度そう呼びかけたことだろう。


(あなたを、このような苦しみから、救い出してさしあげたい。いっそ、このまま、どこか遠い国へ、二人で逃げてしまえたなら……)


しかしそんなことは許されない。自分は伊勢信経。平幸若様の影なのだ。 彼は自らの内に燃え盛る激情を、分厚い忠誠心の氷の下に無理やり封じ込めた。


そして運命の日がやってきた。


その日、経盛の屋敷は祝いの客でごった返していた。平家一門の公達きんだちが、色とりどりの華やかな狩衣を纏い次々と祝いの品を手に訪れる。儀式が執り行われる寝殿は浄められ、周囲に紅白の幔幕まんまくが張られ荘厳な雰囲気に満ちていた。


幸若は別室で最後の身支度を整えていた。顔には薄く白粉おしろいがはかれ、眉は整えられ、唇にはかすかに紅が差されている。それは元服する若者の晴れの装いであるはずだった。しかし鏡に映る自分の顔は、まるで死化粧を施された生贄のようで幸若は吐き気を覚えた。


やがて時が満ちた。 信経に手を引かれ、幸若は儀式の場へと進み出た。 居並ぶ一門の男たちの値踏みするような視線がぐさぐさと突き刺さる。誰もが噂に名高い「幸若の美貌」を一目見ようと好奇の目を向けていた。


幸若は言われるがままに中央の畳に座らされた。目の前には烏帽子親である伯父の平教盛のりもりが厳めしい顔で座っている。


儀式は粛々と始まった。 まず幸若の額に垂れていた童子の証である「鬢削ぎ(びんそぎ)」の髪が、理髪役の手によって小刀で切り落とされた。ぱらり、と数本の髪が白い紙の上に落ちる。その瞬間、幸若の心の中で何かがぷつりと切れる音がした。


(……ああ。終わった)


少女であった自分が死んだ。もうここにはいない。


次に残った髪が大人のそれとして後頭部で結い上げられていく。そして教盛が漆塗りの烏帽子を恭しく手に取り立ち上がった。


加冠かかんの儀、執り行う」


教盛の厳かな声が響き、その烏帽子が幸若の頭上へとゆっくりと下ろされてくる。冷たい感触が頭皮に伝わる。視界がわずかに翳る。


自分は今この瞬間「男」になったのだ。この醜悪で滑稽な茶番劇の中で。


幸若は唇を噛み締め、こみ上げてくる嗚咽を必死にこらえた。涙を流すことなど許されない。自分は平家の若武者、幸若なのだから。


広間の隅の方でその光景を信経は拳を握りしめて見つめていた。幸若の真っ白な顔。固く結ばれた唇。わずかに震える肩。その全てが彼の心を万力で締め付けるように痛めつけた。居並ぶ公達たちの晴れやかな顔がひどく醜悪なものに見えた。あんたたちのその栄華のために、あの方がどれほどの苦しみを味わっておられるのか、分かりもしないくせに。激しい怒りが腹の底から湧き上がってきたが、彼にできることはただそこに立ち尽くすことだけだった。


「これより、いみなを授ける。……幸若。お主の諱は、『敦盛あつもり』とすべし」


教盛の声が告げた。


ただまさ。まるで他人事のようにその響きが幸若の耳を通り過ぎていった。


儀式が終わると盛大な祝宴が催された。幸若は上座に座らされ、次々と注がれる祝いの酒をただ言われるがままに飲み干した。酒の味などしなかった。一門の者たちが口々に祝いの言葉を述べ、幸若の美しい容貌と輝かしい未来を褒めそやす。その全てが空々しい嘘にしか聞こえなかった。


宴は夜更けまで続いた。ようやく全ての客が帰り屋敷に静寂が戻った頃。幸若はよろめくような足取りで自室へと戻った。


部屋には祝いの席の華やかさとは対照的な冷たい空気が満ちていた。幸若は身に纏っていた重苦しい直垂を乱暴に脱ぎ捨てた。そして頭に被っていた忌まわしい烏帽子を畳に叩きつけた。


一人になった瞬間、一日中心の奥に押し込めていた感情が堰を切ったように溢れ出してきた。しかし声は出なかった。ただその大きな瞳から、ぽろ、ぽろ、と熱い雫が止めどなくこぼれ落ちてくる。それは少女としての自分を弔う悲しい悲しい涙だった。


幸若は月の光が差し込む濡縁に座り込み、ただ無言で泣き続けた。


そっと背後に人の気配がした。振り向かなくても誰だか分かった。この屋敷でこの時間に自分の部屋を訪れる者など一人しかいない。


信経は何も言わなかった。ただ幸若の隣に静かに座った。そして自らの小袖のたもとをそっと幸若の濡れた頬に差し出した。


幸若はその袂に顔をうずめ、初めて声を殺して泣いた。子供のようにしゃくりあげながら。


「……のぶつね……。わたしは……わたしは……」


言葉にならない嗚咽が漏れる。


信経はそんな幸若の華奢な肩を抱きしめてやりたい衝動に必死で耐えた。それは許されないことだ。自分は家臣なのだから。彼にできるのはただこうして傍にいることだけだった。


月が静かに二人を照らしている。信経は泣きじゃくる主君の姿を見ながら、心の中で一つの固い決意をしていた。


(……もう、やめよう)


心の中で、あの方を「姫」と呼ぶのはもう今日限りでやめにしよう。あの方を「姫」だと思うことは、あの方を、そして自分自身を苦しめるだけだ。あの方はもはや姫ではない。元服を終えられた我が主君、「平敦盛」様なのだ。そうだ。それでいい。それがいい。この嘘を自分が誰よりも信じ抜くのだ。この嘘を真実に変えるのだ。それが、あの方を守る唯一の方法なのだから。


「……若」


信経は静かに、そしてはっきりとそう呼びかけた。その声にはもう迷いはなかった。


「……夜は、冷えます。お風邪を召されますゆえ、どうぞ、お部屋の中へ」


幸若は涙に濡れた顔を上げた。信経の瞳が月光の下でこれまで見たこともないほど強く、そして優しい光を宿しているのを彼女は見た。その瞳は確かにこう語っていた。


――大丈夫です。若が、たとえ、何者であろうとも。この信経が、生涯をかけて、お守りいたします。


幸若はこくりと頷いた。涙はまだ止まらなかったが、心の奥底で凍りついていた何かがほんの少しだけ溶けていくのを感じた。


この日、平幸若という名の少女は死んだ。そして平敦盛という名の若武者が生まれた。その誕生に立ち会ったのは天上の月と、そして自らの恋心を永遠に封じ込め、主君の「影」として生きることを誓った一人の忠実な家臣だけであった。

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