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須磨の浦に、君が名を問う  作者: ろくさん
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第十一話:須磨の浦、紅に染めて

ときの声は、もはや人の声ではなかった。 それは山が崩れ、大地が裂けるこの世の終わりの咆哮であった。 背後の断崖から雪崩を打って駆け下りてくる源氏の白旗。それは平家の武士たちにとって悪夢以外の何物でもなかった。天険の要害と信じていた一ノ谷は、一瞬にして巨大な罠、巨大な墓所へとその姿を変えた。


陣は内側から食い破られた。 これまで東の敵だけを警戒していた平家軍は完全にその虚を突かれた。背後からの奇襲に指揮系統は瞬時に麻痺し、兵たちはただ右往左往するばかりであった。


「敵は山からだ!」「いや、海からも攻め寄せてくるぞ!」「船へ逃げろ! 船へ!」


悲鳴と怒号と断末魔が入り混じる。 それはもはや戦ではなかった。一方的な殺戮であった。 源氏の兵たちは地の利を得て、坂を駆け下りる勢いのまま、混乱する平家の兵たちを赤子の手をひねるように次々と斬り伏せていく。 太刀が一閃するたびに血飛沫が舞い、肉の断たれる鈍い音が響く。兜を割られ脳漿をぶちまける者。腹を裂かれ己の内臓を抱えて絶叫する者。馬に踏みつけられ甲冑ごとぐしゃりという音を立てて砕け散る者。 須磨の浦のあの詩歌に詠われた美しい白砂は、瞬く間に血の赤と死体の黒でまだらに染め上げられていった。


伊勢信経は、その地獄絵図の真っただ中にいた。 彼は敦盛の愛馬である栗毛の馬上で、必死に手綱を握りしめていた。 周囲では昨日まで共に酒を酌み交わしていた者たちが、あるいは自分を侮りの目で見ていた若武者たちが次々と命を落としていく。 込み上げてくる吐き気。全身を支配する圧倒的な恐怖。人間の身体がこれほどまでに脆くあっけなく壊れてしまうものだという残酷な現実。 だが信経は、唇を血が滲むほど強く噛み締め、その全てを耐え抜いた。


(俺は、死ぬわけにはいかぬ……。まだ、死ぬわけには……)


彼の役目はまだ終わっていない。 彼はここで犬死にをするために来たのではない。 愛する人の名を歴史に刻むために来たのだ。 そのためにはそれにふさわしい死に場所と死に方を選ばねばならない。無名の雑兵に討たれるのではなく、源氏の中でも名の知れた情けを知る武士の手によって討たれなければならない。そしてその死に様は後世まで語り継がれるほどに美しく潔いものでなければならないのだ。


「船へ! 船へ向かえ!」


父・経盛の悲痛な叫び声が聞こえる。 信経はその声に従うふりをして、馬の向きを変え沖合に停泊している味方の船団へと馬を進めた。 ざぶん、と馬の脚が冷たい冬の海水を蹴立てる。 海水は岸辺に近いほどおびただしい血で赤黒く濁っていた。生臭い血の匂いと潮の香りが混じり合い、むせ返るような死の匂いとなって鼻をつく。


彼は馬の腹を強く蹴った。 馬はいななきながらさらに沖へと進んでいく。 もう岸辺の乱戦からは少し距離ができた。 彼はここで待つ。 彼の運命の相手が現れるのを。


その時だった。 背後から野太い雷鳴のような声が響き渡った。


「あれは大将軍と見受けたり。敵に後ろを見せるは卑怯ひきょうなり、返させ給え!」


信経の心臓が大きく跳ねた。


(……来たか……!)


彼はゆっくりと振り返った。 そこには一騎の武者がいた。 黒革縅くろかわおどしの鎧に身を固め、逞しい葦毛あしげの馬に跨っている。年の頃は四十を過ぎているだろうか。その顔には幾多の戦場を潜り抜けてきた者だけが持つ、深い自信と歴戦の凄みが刻み込まれている。 源氏方の歴戦の猛者、熊谷次郎直実くまがいじろうなおざね。 信経がこの戦場で探し求めていた最後の相手であった。


熊谷直実もまたその、沖へと逃れようとする一騎の若武者を馬上から鋭い目で見据えていた。 きらびやかな黒糸縅の鎧。優美な鍬形の兜。そして何よりもその敗走の中にあっても少しも乱れぬ気品のある佇まい。


(……あやつは、ただの、雑兵ではない。平家一門の、高貴な公達に、違いない……)


直実の武士としての血が騒いだ。 あのような良き敵の首を討ち取ることこそ武士の本懐。 だからこそ彼は声をかけたのだ。武士の情けとして。後ろから無様に射殺すのではなく、一騎打ちで正々堂々とその最期を飾らせてやりたい、と。


信経は直実の挑戦的な視線を真っ直ぐに受け止めた。 そして彼はゆっくりと手綱を返し、馬の向きを百八十度転換させた。 再び岸へ。 死地へと向かって。 そのあまりにも潔い、そして無謀な行動に、直実の口元にかすかな満足げな笑みが浮かんだ。


二騎は波を蹴立て、互いに馬を駆けさせた。 浜辺に残っていた双方の兵たちが固唾を飲んでその一騎打ちの行方を見守っている。


「敦盛様! お逃げくだされ!」「熊谷殿! やってしまえ!」


声援が飛び交う。


信経の心は不思議なほど静かであった。 もはや恐怖はない。 ただこれから自分が成し遂げなければならない最後の芝居。その段取りだけを冷静に頭の中で反芻していた。


(……敦盛……。見ていてくれ……) (……我が子よ……。父の、最後の、戦を……)


二騎が交錯する。 きぃん、と甲高い金属音が響き渡った。 信経が渾身の力で振り下ろした太刀を、直実は馬上で巧みに体勢を入れ替え受け流す。 さすがは百戦錬磨のつわもの。太刀筋がまるで違う。 信経の腕がびりびりと痺れた。 二騎は一度すれ違い再び向き直る。


信経はあえて隙を見せた。 大きく太刀を振りかぶる。その一瞬がら空きになった胴。 直実はその千載一遇の好機を逃さなかった。 彼は信経の太刀を紙一重でかわすと、馬と馬がすれ違うその瞬間、信経の鎧の胸板に己の屈強な腕を叩きつけた。


「ぐっ……!」


信経の身体が大きくぐらつく。 直実はその機を逃さず信経の身体に組み付いた。 二人はもつれ合うようにして馬から海の中へと転がり落ちた。


ざぶん、と大きな水しぶきが上がる。 冷たい海水が鎧の隙間から容赦なく入り込んでくる。 もはや太刀は役に立たない。 純粋な腕力と組討の技術だけが勝敗を決する。 直実の力は圧倒的であった。彼は信経の華奢な身体を上からねじ伏せ、その両腕を砂浜に押さえつけた。 勝負は決した。


「……見事……」


信経は荒い息の下でそう呟いた。 悔いはなかった。 直実は無言で信経の腰に差してあった短刀を引き抜いた。 そしてその鋭い切先を信経の喉元へと突きつける。 いよいよ最期の時が来た。


直実は信経の兜の緒に手をかけ、その首を掻き切ろうとした。 だがその面頬を押し上げた瞬間、彼の手がぴたりと止まった。 兜の下から現れたその顔。 それはまだ元服したばかりと思われるほどのうら若い少年の顔であった。 薄化粧が施されお歯黒をつけたその顔立ちは、戦場の猛々しさとはあまりにも無縁な気品と美しさを湛えていた。 そのあまりの若さと美しさに直実の心は激しく揺さぶられた。


(……なんと……。我が子、小次郎と、同じくらいの、年頃ではないか……)


直実の脳裏に都の屋敷に残してきた己の息子の顔が浮かんだ。 この美しい若者にも自分を待っている父や母がいるのだろう。 そう思った瞬間、これまで鬼神のごとく戦ってきた直実の心に深い深い憐憫の情が湧き上がってきた。 これを斬るのか。 この春の花のようにか弱く美しい命を。 俺は今ここで断ち切るのか。


「……お主……名は、何と申す。名乗られよ。決して、悪いようにはせぬ。お助けいたそう」


直実は思わずそう口走っていた。 武士としてあるまじき言葉であった。 だが彼はそう言わずにはいられなかったのだ。


しかしその情けを若武者は凛とした声ではねつけた。


「……助けて、もらおうなどとは思わぬ。お主こそ、何者だ」


「……武蔵国、熊谷次郎直実」


「……ならば、お主のためには良き敵であろう。俺の名を知ったところで、何の得にもならぬ。名乗らずとも、この首を取って人に問え。見知っている者が、必ずいるはずだ」


そのあまりにも潔い答え。 そしてその瞳に宿る少しも死を恐れぬ気高い光。 直実はもはや言葉を失った。 この若者はただ美しいだけの公達ではない。 紛れもない平家一門の誇り高き武士なのだ。


(……ああ、なんという、ことであろう……)


直実は、涙に歪む顔で短刀を握りしめたまま、その美しい若武者を見下ろしていた。もはや敵意はなかった。ただ、あまりにも酷な運命を前に、一人の人間として、武士として、深い悲しみがその巨体を打ち震わせていた。


「……見事な、お覚悟。ならば……」


直実は涙ながらに絞り出すように言った。


「……お念仏を、おとなえくだされ。この熊谷が、お相手いたす」


その言葉は、信経の心に不思議なほど静かに染み渡った。 (……ああ、やはり、この男であったか……) この熊谷という男こそ、自分がこの世の最後に選ぶべき相手だったのだ。 もし、相手が血に飢えただけの残忍な武士であったなら、自分の死は、ただの無惨な殺戮としてしか記憶されなかっただろう。だがこの男は違う。敵である自分という若者の死を、心の底から悲しみ涙を流してくれている。 この男ならば。 この情けの深さを知る武士ならば。 きっと「平敦盛」の最期を、正しく、そして後世まで語り継いでくれるに違いない。 自分の企てたこの最後の芝居は、完璧に演じきられたのだ。 信経の心を満たしたのは、死への恐怖ではなく、むしろ一つの大きな仕事を成し遂げた、深い安堵と、この涙多き敵への感謝の念でさえあった。


信経は静かに目を閉じた。 重い瞼が下りると、戦場の喧騒が遠ざかっていく。波の音も、兵たちの怒号も、血の生臭い匂いも、全てが急速に現実感を失っていく。


(……南無阿弥陀仏……)


武士としての最後の務めとして、彼は心の中でその言葉を唱えた。 だがその言葉は彼の魂には響かなかった。 彼の脳裏に浮かび上がってきたのは、阿弥陀の来迎図ではない。西方浄土の荘厳な光でもない。


ただ一人、愛する女の面影であった。


昨夜、己の腕の中で、あんなにも幸せそうに眠っていた、彼女の無防備な寝顔。その汗ばんだ白い、うなじ。触れると壊れてしまいそうだった、肌の柔らかさ。そして彼女から立ち上っていた、甘く切ない香り。彼がその生涯の全てをかけて守ろうと決めた、ただ一つの光。


(……敦盛……)


心の中でその名を呼ぶ。それだけで胸の奥が温かい光で満たされていくのがわかった。


(……これで……これで、よかったのだ……)


彼は自分に言い聞かせた。この死こそが自分の生涯のすべて。この死こそが彼女を未来永劫守るための唯一の道であったのだ、と。自分のこの一瞬の痛みが、彼女のこれからの長い人生を買うことができる。そして何よりも、彼女のその腹の中に宿ったであろう新しい命を。自分と彼女の愛の証であるあの子を、守ることができる。これ以上の勝利があろうか。これ以上の幸福があろうか。


(……敦盛。どうか、強く生きてくれ……) (……我が子よ。母を、守るのだぞ……) (……俺は、ずっと見ている。風となり、光となりて、お前たちのそばに、あり続けよう……)


もう何の迷いもない。何の悔いも。 信経の魂は澄み切った冬の夜空のように静かで穏やかであった。 彼はただ愛する女の面影だけを胸に抱き、その最期の瞬間を待った。


直実は涙を振り払うように一度大きくかぶりを振った。そして短刀を握りしめ直した。


「……御免……!」


その悲痛な呟きと共に、彼は泣く泣くその若武者の白く美しい首を掻き切った。


ざくり、という鈍い肉の感触。骨を断つ硬質な響き。信経の身体に最後の激しい痙攣が走った。だが彼の意識にはもはやその痛みは届いていなかった。彼の魂はすでに肉体を離れ、須磨の浦の冷たい海風となり、愛する女が眠るあの幕舎へと飛んでいこうとしていた。


噴き出したおびただしい熱い血潮が、直実の涙に濡れた顔と須磨の浦の白い砂を真っ赤に染め上げた。それはあまりにも鮮烈な赤であった。


若武者の身体から力が抜けていく。 その命の灯火が消える最後の瞬間に、彼の唇がかすかに動いたのを直実は見た。 だがそれは音にはならなかった。


信経が最後に呟いた言葉。 それは決して歴史に残ることのない、愛する女の名であった。

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