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須磨の浦に、君が名を問う  作者: ろくさん
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第十話:名を継ぐ者

夜明けは残酷なほど静かに訪れた。 東の空がしらじらと白み始め、一ノ谷の険しい稜線を鈍い銀色に縁取っていく。昨夜の喧騒が嘘のように、陣営はつかの間の深い眠りの中に沈んでいる。ただ、かがり火だけが最後の光を放ちながら、ぱち、ぱち、と力なく爆ぜる音を立てていた。


その静寂の中で、伊勢信経はそっと身を起こした。 腕の中では敦盛がまだ安らかな寝息を立てている。その顔には、昨夜の満ち足りた微笑みの名残がかすかに浮かんでいた。偽りの鎧を脱ぎ捨て、ただの一人の女として愛する男の腕に抱かれて眠る。彼女がその生涯で初めて手に入れた束の間の真実の幸福であった。


信経は、そのあまりにも無防備で愛おしい寝顔を目に焼き付けるようにじっと見つめた。 触れたい。もう一度、この柔らかな頬に。この絹のような髪に。だが彼はその衝動を鋼の意志で押し殺した。彼女を起こしてはならない。この幸福な夢を少しでも長く見させてやりたい。そして何より、別れの言葉を交わしてしまえば、己のこの悲壮な決意が鈍ってしまうかもしれないからだ。


彼はまるで薄氷を渡るかのように慎重に、敦盛の身体の下から自分の腕を抜き取った。そして音を立てぬようゆっくりと寝床から這い出した。 冷たい夜明けの空気が、昨夜の熱がまだ残る彼の裸の肌をぴりりと刺す。その痛みが彼を夢の世界から厳しい現実へと引き戻した。


信経はまず、敦盛の脱ぎ捨てられた寝間着をそっと彼女の身体にかけた。そしてその隣に折りたたんで置かれていた己の書状を、彼女の枕元に置いた。彼女が目覚めた時すぐに気づくように。 その書状には、彼の敦盛への長年の想いと感謝の言葉が綴られていた。そしてこれから自分が何をしようとしているのか。なぜそうしなければならないのか。その全てが。 さらに文の最後はこう結ばれていた。 『――願わくは、生き延びてくだされ。東へ。尼寺へ。そして、どうか、お腹の子を……我らの子を、お守りくだされ。伊勢信経、我が魂は、たとえ、この身が滅びようとも、永久に、あなた様と、共にある』 彼は、昨夜敦盛と結ばれた時確信していた。このただ一度の交わりで、必ずや新しい命が宿るであろう、と。それは何の根拠もない、だが愛する者だけが持ちうる絶対的な直感であった。


書状を置き終えると、信経は振り返らずに幕舎の隅に置かれた甲冑架へと向かった。 そこに掛けられていたのは、彼の愛用の鎧ではない。 敦盛のあの黒糸縅の小さな胴丸であった。 彼はその鎧を、まるで神聖な儀式を執り行うかのように一つ一つ身に着け始めた。 まず鎧下着をまとい、脛当すねあて佩楯はいだてを着ける。そして胴丸を己の身体に合わせる。昨夜のうちに自分の体格に合わせて調整しておいたそれは、まるで誂えたかのように彼の身体にしっくりと収まった。 最後に兜を手に取る。 その鍬形くわがたの脇には、小さな金の獅子の飾りが付けられていた。それは敦盛の元服の祝いに父・経盛が贈ったものであった。 信経はその兜を深く深く被った。 視界が急に狭くなる。耳元で己の呼吸の音だけが大きく聞こえる。 その瞬間、伊勢信経という一人の男は死んだ。 そしてここに平家の若武者、「平敦盛」が新たに誕生したのである。


全ての支度を終えた信経は、最後にもう一度だけ眠る敦盛の姿を振り返った。 その愛しい姿を永遠に心に刻みつけるために。


(……さらば、我が、光……)


心の中でそう呟くと、彼は音を立てずに幕舎を後にした。


幕の外はすでに動き始めていた。 兵糧方の者たちが慌ただしく最後の食事の準備をし、厩舎きゅうしゃからは馬の荒々しいいななきが聞こえてくる。夜明け前の青白い光の中で、武士たちが黙々と鎧を身に着ける金属の擦れ合う音が、あちこちで響いていた。


信経は、その決戦前の喧騒の中をまっすぐに父・経盛の陣幕へと向かった。


「……経盛様。敦盛にございます。ただいま、よろしいでしょうか」


敦盛の声を完璧に模倣して彼は幕の外から声をかけた。


「……おお、敦盛か。入れ」


中から疲れたような声が返ってくる。 信経が幕の中へ入ると、経盛はすでに甲冑を身に着け床几しょうぎに腰を下ろしていた。その顔には深い苦悩の皺が刻まれている。


「どうした、敦盛。顔色が、悪いぞ。やはり、まだ、具合が……」


経盛はそう言いかけて言葉を呑んだ。 目の前に立つ「敦盛」の佇まい。その鎧の着こなし。そして兜の面頬めんぽおの下から鋭くこちらを見つめる瞳の光。 それが自分の息子のものではないことに、彼は気づいたのだ。


「……お主……信経、か……?」


その声は震えていた。 信経は静かに頷くと、その場に片膝をつき被っていた兜を脱いだ。 現れた彼の真剣な顔。


「……申し上げます。これより、敦盛様の名代として、この、伊勢信経が、戦に出まする」


「……な……にを……」


経盛は絶句した。


「何を、馬鹿なことを、申すか! そのようなこと、許されると思うてか!」


「お許しがなくとも、私は、行きます」


信経の声は静かだったが、その響きにはいかなる者にも覆すことのできぬ鋼のような意志が宿っていた。


「……敦盛様は、戦には、向かぬ御方。あのお方は、人を斬るために、生まれてきたのではない。笛を奏で、花を愛で、ただ、美しく、生きていくべき、御方なのです。あの、清らかな手を、血で汚させては、なりませぬ」


経盛は言葉を失い、ただ信経の顔を見つめていた。 信経は続けた。


「……昨夜、私は、敦盛様を、お預かりいたしました。あのお方は、もはや、ただの、若君ではございませぬ。私の……妻にございます」


その衝撃的な告白に経盛の目が大きく見開かれる。


「……そして、あのお方の、お腹の中には、おそらく、新しい命が、宿っておりまする。私の、忘れ形見が」


「……なん……だと……」


「経盛様。あなた様は、平家の公卿である前に、一人の、父親で、あらせられる。ならば、お分かりのはず。あのお方を、この、地獄のような、戦場に出すことが、どれほどの、酷であるか」


信経は畳に両手をつき、深く深く頭を下げた。


「……この通り、お願い申し上げます! 敦盛様と、お腹の子の、未来を……平家の、真の、未来を、お守りくだされ! そのためならば、この、伊勢信経の命、塵芥ちりあくたのように、捨てて、悔いはございませぬ!」


経盛はしばらく動かなかった。 その老いた肩が小刻みに震えている。 彼の脳裏を様々な思いが駆け巡っていた。 神託の子として、偽りの人生を歩ませてしまった娘への罪悪感。 そのか弱い娘を初陣の恐怖から守ってやりたいという親心。 そして目の前で命を差し出そうとしている、このあまりにも忠義で、そして誠実な若者への感謝と申し訳なさ。 やがて彼の皺だらけの目から一筋熱い涙がこぼれ落ちた。


「……信経……。すまぬ……。すまぬ……」


それはか細い嗚咽に近い声であった。


「……この老いぼれの不甲斐なさゆえに……お主のような若者を死なせてしまうとは……。わしは……わしは、地獄に落ちるであろうな……」


「……いいえ」


信経は顔を上げた。その表情は不思議なほど晴れやかであった。


「私は、私の、意志で参ります。愛する人を守るために死ぬ。これ以上の誉れがありましょうか」


経盛はもはや何も言わなかった。 ただ何度も何度も頷き、そして涙を拭うことしかできなかった。 それは沈黙の承認であった。


信経は再び兜を深く被った。 そして立ち上がり、経盛に最後の一礼をすると静かに幕舎を後にした。 残された老人はただ一人その場で声を殺して泣き続けた。


外はすっかりと明るくなっていた。 平家一門の全ての軍勢がすでにそれぞれの持ち場へと移動を完了し、東の空を睨みつけている。 信経は敦盛の愛馬である美しい栗毛の馬にひらりと跨った。 腰には敦盛の魂である名笛「小枝」を確かに差している。 もはや彼の姿を伊勢信経であると見抜ける者はどこにもいなかった。 彼は誰の目にも平家の若武者、平敦盛、その人であった。


彼は手綱を引き、ゆっくりと浜辺の最前線へと馬を進めた。 父・経盛が率いる一隊の中に加わる。


兄たちが、「敦盛! 遅かったではないか!」と声をかけてくる。


信経は兜の中からくぐもった声で、「……ああ」とだけ短く答えた。


海からの冷たい風が、赤々と林立する平家の旗を激しく、はためかせている。 ばた、ばた、というその不吉な音。 兵たちの荒い息遣い。 馬が苛立たしげに地面を蹄で掻く音。 全てのものがこれから始まろうとしている大虐殺の序曲であった。


信経はゆっくりと目を閉じた。 脳裏に浮かぶのはただ一人、愛する女のあの幸せそうな寝顔。


(……敦盛……。どうか、達者で……)


その時だった。 背後の山の上から突如鬨ときの声が上がった。 一つではない。十でも百でもない。 まるで山そのものが雄叫びを上げたかのような数千の声。


「な、何事だ!?」


平家の武士たちが驚愕し、一斉に背後の険しい崖を見上げる。 信じられない光景がそこにあった。 断崖絶壁であるはずのその崖の上から、源氏の白い旗指物がなだれを打って駆け下りてくるではないか。 先頭に立つのは鹿のような俊敏さで馬を操る一人の小柄な武将。 九郎、義経であった。


「敵襲! 敵襲! 山の上からだ!」


平家の陣は一瞬にして大混乱に陥った。 それはまさに青天の霹靂。誰もが予想だにしなかった奇襲であった。 鬨の声が地を揺るがし砂塵が舞い上がる。 平家最後の、そして最大の悲劇。 一ノ谷の戦いの火蓋が今切って落とされた。

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