表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
須磨の浦に、君が名を問う  作者: ろくさん
10/19

第九話:決戦前夜

寿永三年(1184年)二月六日、夜。 一ノ谷の空は、墨を塗り込めたようにどこまでも深く暗かった。星々の瞬きもかろうじてその存在が認められる程度で、月は薄い雲の向こうにその姿を隠している。眼下の海だけが、暗闇の中で微かにりん光を放ちながら地響きのような単調な波音を延々と繰り返していた。


平家の陣営は、異様な熱気とそれに相反する死のような静寂に支配されていた。 あちこちでかがり火が赤々と燃え盛り、その炎は武士たちの緊張に強張った顔を不気味に照らし出している。誰もが口々に明日の戦での己の武勇伝を大声で語っていた。酒が酌み交わされ、時には豪快な笑い声も上がる。だがそのあまりにも過剰な陽気さは、かえって彼らの心の奥底に巣食う巨大な恐怖を浮き彫りにしているかのようであった。


一方で、炎の輪から一歩離れた暗がりでは、武士たちがただ黙々と己の武具と向き合っていた。 兜の緒を確かめる者。太刀の刃こぼれを砥石といしで丹念に研ぐ者。矢羽の一本一本を指先で確かめる者。 しゃり、しゃり、という金属を研ぐ神経質な音。革の鎧が擦れ合う鈍い音。それらの音だけがこの最後の夜の真実を語っていた。 誰もが死をすぐそこに感じていた。明日、自分は生きているのか死んでいるのか。そのあまりにも根源的な問いの前で、人は饒舌にもなりそして寡黙にもなる。


敦盛は自分にあてがわれた小さな陣幕の中で一人座っていた。 父・経盛から「今宵は、ゆっくりと休め」と言い渡されたが、眠れるはずもなかった。 彼女の前には、信経が昼間のうちに完璧に手入れを済ませてくれた彼女の黒糸縅の胴丸が、甲冑架かっちゅうかけに掛けられている。かがり火の光が幕の隙間から差し込み、その黒い小札こざねをぬらりと光らせた。それはまるで明日、彼女の亡骸を包む小さな黒い棺のようにも見えた。


(怖い……)


敦盛は膝の上で強く拳を握りしめた。 指の関節が白くなる。だがその震えは止まらなかった。 腹の底から冷たいものがせり上がってくる。手足の先は氷のように感覚を失っていた。 外から聞こえてくる武士たちの荒々しい声。金属がぶつかり合う音。その全てが彼女の剥き出しの神経を直接逆撫でするようであった。


これまで彼女が知っていた世界は、詩歌管弦の優雅で美しい世界だった。 だが明日、彼女が足を踏み入れる世界は違う。 そこは鉄と血と泥と、そして人の断末魔の叫び声が支配する地獄だ。 人を斬る。 その想像を絶する行為を自分はしなければならないのか。 この笛を奏でるためにあるこの指で。人をあやめるための鉄の塊を握りしめなければならないのか。


彼女は武芸の稽古を嫌ったわけではない。むしろ信経に教えを乞い人並み以上に励んできた自負はあった。だがそれはあくまで「平敦盛」という偽りの若武者を演じるための所作事しょさごとに過ぎなかった。竹光で打ち合うのと、真剣で生身の人間を斬り合うのとでは天と地ほどの隔たりがある。


(私に、できるのだろうか……)


自信などひとかけらもなかった。 恐怖で足がすくみ、太刀を取り落としてしまうかもしれない。敵の憎悪に満ちた瞳を正面から見ることさえできないかもしれない。 そうなれば自分は一瞬で殺されるだろう。 ずぶり、と肉を断ち骨を砕く刃の感触。噴き出す熱い血潮。そして急速に失われていく意識。 その生々しい想像が敦盛の喉を締め上げた。


「……うっ……!」


込み上げてくる吐き気と嗚咽を彼女は必死にこらえた。 ここで声を上げれば誰かが来てしまう。


(神託の子……)


その言葉が嘲笑うかのように頭の中で反響した。 平家一門に勝利をもたらす希望の星。 それが自分だというのか。 今ここでただ恐怖に震えているだけのこのか弱い娘が。 なんという皮肉。なんという茶番だろう。 自分は勝利の駒などではない。ただ一門の都合の良い幻想のために祭り上げられた哀れな生贄に過ぎないのだ。


その絶望的な孤独の中で、彼女の脳裏に浮かんだのはただ一人の男の姿であった。 伊勢信経。 須磨の浦で伝令が来た時の、彼の落ち着き払ったあの背中。


「全て、この、伊勢信経に、お任せくだされ」


そう言った時の、彼の揺るぎない瞳。


(……信経……)


彼に会いたい。 今すぐこの狭い幕舎に駆けつけてきて、ただそばにいてほしい。 彼のあの大きな手で、この震える自分の手を握りしめてほしい。 大丈夫だ、とあの穏やかな声で言ってほしい。


その思いはもはや、単なる主君が従者に抱く信頼の念ではなかった。 一人の女が一人の男に抱くどうしようもない渇望であった。 敦盛はその時初めてはっきりと自覚した。 自分はこの戦を生き延びたい。 平家のためではない。神託のためでもない。 ただこの先も信経のそばにいたいからだ。彼と共に生きていきたいからだ。たとえそれが決して叶わぬ夢だとしても。


そのあまりにも切実な己の本当の願いに気づいてしまった時、敦盛の瞳から一筋熱い涙が頬を伝い落ちた。


その時だった。 幕舎の入り口が静かに持ち上げられた。 そしてそこに立っていたのは、彼女が今最も会いたいと願っていたその人であった。


「……信経……?」


彼は鎧下着だけの身軽な姿だった。その手には小さな瓢箪ひょうたんと一つの粗末な木の椀を持っていた。 彼は敦盛の涙の跡が残る顔を見て一瞬その表情を険しくしたが、すぐにいつもの穏やかなものへと戻した。


「……夜分に、失礼いたします、若」


彼は幕の中へ入ると敦盛の前に静かに座した。


「眠れぬのであろうと、思いまして。冷えますゆえ、少し、温かいものでも、いかがかと」


彼はそう言うと、瓢箪から湯気の立つ甘い香りのする液体を椀に注いだ。それは体を温めるための薬湯であった。


敦盛は差し出されたその椀を両手で受け取った。 椀を通してじんわりと温かさが冷え切った指先に伝わってくる。それはまるで信経の体温そのものであるかのようだった。 彼女はこくり、と一口それを飲んだ。生姜と甘葛あまづらの優しい味が、喉を、そして凍てついた心の芯をゆっくりと溶かしていく。


「……うまい……」


思わず漏れた呟き。 信経はそれを聞いてかすかに微笑んだ。


「お口に合って、何よりです」


再び沈黙が落ちる。 だがそれは須磨の浦でのような気まずいものではなかった。ただ穏やかで、そして濃密な空気が二人を包んでいた。


やがて信経が意を決したように口を開いた。


「……若は、明日が、怖いのでございますね」


そのあまりにも直接的な言葉に敦盛の肩がびくりと震えた。 彼女は何も答えられなかった。ただ俯いて唇を強く噛み締める。 隠していた心の、一番柔らかな部分を不意に見抜かれてしまった子供のように。


信経はそんな彼女の姿を静かな、しかし痛みを堪えるような瞳で見つめていた。


「……お答えにならずとも、結構。無理もないことでございます。むしろ、それを、怖いと感じられぬ者の方が、どうかしている」


彼はゆっくりと続けた。


「……ですが、ご案じなさいますな。若は、ただ、大将として、堂々と、馬上にいれば、それで、よろしいのです。敵を斬り、矢を防ぐのは、我ら、家臣の役目。この信経が、一歩たりとも、若のお側を、離れることはございませぬ。この命に代えても、必ずや、お守りいたします」


その言葉は力強く、そして絶対的な響きを持っていた。 だが敦盛の心の震えは収まらなかった。


(……違う……違うのだ、信経……)


私はお前に命をかけて守ってほしいのではない。 私はお前と共に生きたいのだ。


その心の叫びが喉まで出かかった、その時。 信経がすっと懐から一通の折りたたまれた書状を取り出した。


「……若」


彼の声の調子が変わっていた。これまで聞いたことのない真剣で、そしてどこか悲しい響きを帯びていた。


「……これは……万が一の、時のための、ものです。もし、明日、私に、何かがあったなら……その時に、お読みくだされ」


書状。 その言葉に敦盛の心臓が冷たく鷲掴みにされたような感覚に襲われた。


「……万が一、だと……? どういう、ことだ……。お前、まさか……」


「戦に、『まさか』は、つきものでございます」


信経は敦盛の動揺した視線を真っ直ぐに受け止めた。


「……ですから、これは、ただの、お守りのようなもの。何もなければ、そのまま、お捨てくだされば、よいのです」


彼はそう言うと、その書状を敦盛の前に静かに置いた。 そして彼は深く深く頭を下げた。 畳に額がつくほどに。


「……若。これまで、長きにわたり、お仕えできたこと、この伊勢信経、生涯の、誉れにござります」


そのあまりにも決定的な別れを思わせる口上。 敦盛は息が止まるかと思った。 全身の血が逆流する。 何かがおかしい。何かが決定的に間違っている。


「……やめろ……」


敦盛の口からか細い声が漏れた。


「……やめてくれ、信経……。そんな、まるで、死ににいくような、言い方は……」


信経はゆっくりと顔を上げた。 その瞳は見たこともないほど優しく、そして悲しげに潤んでいた。 彼はこれまで決して越えることのなかった最後の、一線を越えた。 彼はそっと手を伸ばし、敦盛の震えるその手に自らの手を重ねた。


「……敦盛様」


初めて彼は敦盛をその本当の名で呼んだ。 いや、違う。それはただ若君を呼ぶ家臣の声ではなかった。 一人の男が生涯ただ一人だけ愛した女の名を呼ぶ切実な声であった。


「……お慕い、しておりました。物心ついた、あの時から……ずっと……」


外のかがり火の光が揺らめき、二人の影を幕の上に大きく映し出す。 まるでそれは、この世ならざる悲恋の物語を演じる影絵のようであった。 敦盛はただ言葉を失い、信経の熱い瞳を見つめ返すことしかできなかった。


これまで心の奥底に固く固く封じ込めてきた想い。 武士として生きるため、神託の子として生きるため、決して抱いてはならぬと自らを戒めてきた女としての渇望。 それが信経のたった一言の告白によって、まるで堰を切ったように溢れ出してくるのを敦盛は感じていた。 もう嘘はつけない。 もう偽ることはできない。 自分もまたこの男をずっと想っていたのだ、と。


「……信経……」


やっとのことで絞り出した声は涙で濡れていた。 彼女は重ねられた彼の手を、震える自らの指でそっと握り返した。 それが彼女の答えの全てであった。


信経の息を飲む音がした。 彼の瞳が驚きと、そして万感の想いが入り混じった深い輝きを放つ。 彼はもうためらわなかった。 ゆっくりと敦盛の華奢な身体を己の方へと引き寄せる。


初めて触れた男の硬くそして厚い胸板。 敦盛の身体がびくりと震えた。だがそれは拒絶の震えではなかった。 これまでずっと孤独に耐えてきた魂が、初めて安らげる場所にたどり着いたかのような安堵の震えであった。


「……敦盛様。お許しを……」


信経が耳元で囁く。 その熱い息が肌にかかるだけで、敦盛の身体の芯がとろけるように熱くなった。 彼女は何も言わずただこくりと頷いた。


信経はそっと彼女の寝間着の合わせに指をかける。 そしてその下にある、彼女の女性性を長年圧し殺してきた白い晒しをゆっくりと解き始めた。 一枚また一枚と布が剥がされていく。 それは単に衣を脱がせるという行為ではなかった。 平敦盛という偽りの鎧を一枚ずつ剥がしていく神聖な儀式であった。


やがて全ての束縛から解き放たれた敦盛の柔らかな白い肌が、かがり火のほの暗い光の中に現れる。 彼女は恥ずかしさに身を縮こませた。 だが信経はまるで壊れ物を扱うかのように、その完璧な曲線を描く身体をただ愛おしそうに見つめていた。


「……ああ……。なんと、お美しい……」


それは心の底からの感嘆の呟きであった。


彼はその清らかな肌に唇を寄せた。 それは決して欲望だけの激しいものではない。 長年秘めてきた恋情と崇敬の念が入り混じった、あまりにも優しくそして丁寧な口づけであった。 肌と肌が触れ合う。 熱が伝染していく。 言葉はもはや必要なかった。 二人の魂がこの最後の夜に、初めて一つになろうとしていた。


外の世界は遠ざかっていく。 武士たちの荒々しい声も。 風のすすり泣く音も。 ただ互いの荒い息遣いと激しく鳴り響く心臓の鼓動だけが、この狭い幕舎の中の世界の全てとなった。 それは明日死にゆくことを覚悟した男と、初めて女として生きることを許された少女の、あまりにも切なくそして美しい愛の交歓であった。


夜が更けていく。 炎のような交わりが一度終わりを告げた後も、二人は離れようとはしなかった。 ただ黙って互いの裸の身体を抱きしめ合う。 敦盛は信経の逞しい胸にそっと耳を当てていた。とくん、とくん、と規則正しくそして力強く響く彼の心音。それがこの世のどんな笛の音よりも心地よく、彼女の心を満たしていった。 これまでずっと偽りの鎧の下で孤独に震えていた魂が、ようやく安住の地を見つけたかのように穏やかだった。


「……信経」


敦盛は小さな声で囁いた。


「……私は、今、初めて、生まれてきたような、気がする」


偽りの若武者「敦盛」ではない。神託の子でもない。ただの、名もない一人の女として。 信経は彼女の汗で湿った髪を優しく指で梳きながら答えた。


「……私もです。あなた様という、光に出会うために、生まれてきたのだと……今、ようやく、分かりました」


もう一度、二人の唇が重なる。 今度は穏やかで深く、そして永遠を誓うかのような口づけだった。 戦のことも、平家のことも、明日昇るはずの太陽のことも、全てが遠い世界の出来事のようだった。 この狭い幕舎の中だけが二人の真実の世界だった。


やがて心と身体の全てを分かち合った二人に、抗いがたい深い眠りが訪れた。 疲れ果てた敦盛は信経の腕の中で、まるで幼子のように安らかな寝息を立て始める。その顔には生まれて初めて見せる満ち足りた幸せそうな笑みが浮かんでいた。 信経はそんな彼女の寝顔を愛おしそうにしばらく見つめていたが、やがて彼自身もその瞼を閉じた。 夢の中まで彼女と共に堕ちていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ