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須磨の浦に、君が名を問う  作者: ろくさん
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第十二話:残された文、遺された命

敦盛の目覚めは、生まれて初めて経験する完璧な幸福感に包まれていた。 重い瞼をゆっくりと持ち上げる。最初に感じたのは、隣で眠る男の温かい肌の感触と、規則正しく響く力強い心音だった。とくん、とくん、と。それはこの世のどんな笛の音よりも、彼女の心を穏やかに満たす安らぎの旋律であった。


(……信経……)


名を心の中で呟くだけで、胸の奥が甘く疼く。 昨夜の出来事が夢ではなかったことを、彼の腕の逞しさと、その肌に残る甘い香りが告げていた。初めて女として愛された記憶。偽りの鎧を脱ぎ捨て、ただの一人の人間として魂の全てを分かち合った灼けるような歓び。 彼女はそっと目を閉じたまま、その幸福の余韻に身を委ねた。 このまま時が止まってしまえばいい。 戦も平家も神託も全てが消え失せて、ただこうして彼の腕の中で永遠に眠り続けていられたなら。


だがその甘い微睡まどろみは、ふと気づいた一つの違和感によって破られた。 (……静かすぎる……) 昨夜あれほど耳についていた武士たちの喧騒が、今はどこにもない。風の音と遠い波の音だけが、不気味なほど静まり返った陣営を支配している。 そして何より、彼女を抱きしめているはずの腕の温もりがない。肌に感じるのは冷たい朝の空気だけだった。


敦盛ははっとして目を開けた。 隣に信経の姿はなかった。 彼が横たわっていたはずの場所には、人肌の温もりだけがかすかに残っている。だがそれも冷たい空気に急速に奪われつつあった。


「……信経?」


声をかけてみる。だが返事はない。 不安が胸をよぎる。まさかもう持ち場へと向かってしまったのだろうか。別れの挨拶も交わさぬままに。


彼女はゆっくりと身を起こした。 その瞬間、身体の芯に走った甘い痛みと気怠さが、昨夜の出来事が紛れもない現実であったことを改めて彼女に告げた。 だがそんな感傷に浸っている暇はなかった。 幕舎の中は、彼女が眠りに落ちる前と何も変わっていないように見えた。だがすぐに彼女は決定的な異変に気づいた。 隅に置かれていた甲冑架。そこに掛けられていたはずの、自分の黒糸縅の胴丸がない。それだけではない。信経がいつも傍らに置いていた、彼の愛用の鎧もまた影も形もなかった。


(……どういうことだ……?)


心臓が嫌な音を立てて鳴り始めた。 その時だった。 遠くから風に乗って人の声が聞こえてきた。 一つではない。無数の人の声。それは宴の陽気な声とは全く違う、憎悪と狂気に満ちた獣の雄叫びであった。 そしてその声に混じって、きぃん、という甲高い金属のぶつかり合う音がいくつもいくつも響いてくる。 戦が始まっている。 その残酷な事実を敦盛は理解した。


パニックになりかけた彼女の視界に、ふと一つのものが飛び込んできた。 枕元に静かに置かれた一通の書状。 それは昨夜信経が「万が一の時のため」と言って彼女に渡そうとしたあの書状であった。 敦盛はまるで何かに引き寄せられるようにその書状を手に取った。 指が震えてうまく開くことができない。 なぜこれがここにあるのか。 なぜ彼はこれを置いていったのか。 知りたくない。だが知らなければならない。 彼女は意を決し、震える指でその封を解いた。


そこに綴られていたのは、彼の流麗でそして力強い筆跡であった。


『愛しき、敦盛様へ』


その書き出しを見ただけで、敦盛の瞳から涙が溢れそうになるのを必死にこらえた。


『この文をあなたが、お読みになっている時、私はおそらく、もうこの世にはいないでしょう。そして平敦盛という若武者は、一ノ谷の露と消え、その名を歴史に刻んでいるはずです。 驚かせてしまったことを、お許しください。あなたを騙す形になったことを、お許しください。ですが私には、これしか道が思いつかなかったのです』


敦盛の呼吸が止まった。 頭の中で何かが砕け散る音がした。 信経が自分の鎧を。 平敦盛として戦場へ。 まさか。そんな。ありえない。


彼女は信じられない思いで文の続きを目で追った。


『あなた様は、戦うために生まれてきた人ではない。その清らかな手を血で汚すために生まれてきた人ではない。あなたのその指は笛を奏で、その唇は歌を詠むためにこそあるのです。 私が初めてあなた様にお会いしたあの日から。私はずっと、そう信じておりました。 そしていつしか、その思いは忠誠を超え、一人の男としての恋情へと変わっていきました。この不埒な想いを生涯胸の奥に秘めて、あなた様の影として生きていく。それが私の幸せであり定めであると思っておりました。 ですがこの戦乱の世は、私にそれさえも許してはくれなかった』


『だから決めたのです。私が「平敦盛」になろう、と。 私があなた様の身代わりとなり、あなた様の武勇伝をこの身で演じ切ろう、と。 そうすればあなた様は生き延びることができる。神託の子としての役割を果たしたことになり、一門への義理も立つ。そして何よりも、あなた様はこれ以上偽りの人生を歩まずに済むのです。 これこそが、あなた様を深く深く愛してしまった私にできる、唯一の、そして最高の愛の証なのです』


ああ、と敦盛の口から声にならない声が漏れた。 涙がぽたぽたと文の上に落ち、彼の美しい文字を滲ませていく。 なんということか。 なんという愚かで、そしてあまりにも気高い愛の形か。


『――願わくは、生き延びてくだされ。東へ。尾張の尼寺へ。そこならば、追っ手の目も届きますまい。そしてどうか、お腹の子を……我らの子を、お守りくだされ。伊勢信経、我が魂は、たとえ、この身が滅びようとも、永久に、あなた様と、共にある』


最後の、一文を読んだ時、敦盛の世界は完全に砕け散った。 お腹の子。 我らの子。 彼女は無意識のうちにそっと自らの下腹部に手を当てた。 まだ何の実感もない。だが信経は確信していたのだ。昨夜のただ一度の交わりで、自分たちの愛の証がここに宿ったのだ、と。 それは彼の最後の希望。 そして彼女に託された未来。


「……あ……ああ……あああああああああっ!」


彼女の喉から初めて獣のような絶叫が迸った。 それは悲しみや怒りといった言葉では到底表現できない、魂そのものの叫びであった。 彼女はその場に崩れ落ち、ただ赤子のように声を上げて泣きじゃくった。 信経の名を何度も何度も呼びながら。 だがその声は遠く激しさを増していく戦の喧騒にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。


どれほどの時間が経っただろうか。 敦盛は泣き疲れ、虚ろな瞳でただ幕舎の一点を見つめていた。 涙はもう枯れ果てていた。 心は空っぽだった。 何も感じない。何も考えられない。 ただ一つの衝動だけが彼女を支配していた。


(……行かなければ……) (……信経の、元へ……)


彼が自分の名で死んでいくというのなら。 自分もまた彼の後を追い、共に死ななければならない。 それが彼への唯一の償いであり愛の証だ。


敦盛はふらつく足で立ち上がった。 そして残されていた信経の粗末な鎧下着を身に着けようとした。 その時だった。


「敦盛! 敦盛! おるか!」


幕が荒々しく引き裂かれるように開けられた。 そこに立っていたのは父・経盛であった。 彼の美しい狩衣は泥と血で汚れ、髪は乱れ、その顔は蒼白であった。


「父上……!」


「ぐずぐずするな! 今すぐここから逃げるのだ!」


経盛は部屋に駆け込むと、一つの布包みを敦盛の足元に投げつけた。 中から現れたのは、質素なしかし丈夫そうな小袖と、旅姿の女房が身に着ける市女笠いちめがさであった。


「……これは……?」


「信経が……あの男が、全て用意していたのだ! わしに、全てを託して、あやつは……あやつは、行きおった……!」


経盛の声は嗚咽に震えていた。


「……お前の、名で……お前を、守るために……たった、一人で……!」


その言葉がとどめとなった。 敦盛の膝から力が抜け、彼女は再びその場にへたり込んだ。


「……嫌……嫌です……! 私は、行きませぬ! 信経を、一人にはできませぬ!」


「馬鹿を申せ!」


経盛が娘の頬を平手で強く打った。 乾いた音が響く。


「……お前が、今、ここで、死んで、あの男の、覚悟を、無駄にする気か! あの男が、命をかけて、遺そうとした、未来を、お前自身の手で、踏みにじるというのか!」


経盛は敦盛の両肩を掴み激しく揺さぶった。


「……聞け、敦盛! お前は、もはや、お前一人の、身体ではないのだぞ! その腹には……その腹には、信経の、血が、流れておるのだ! 平家の血ではない! ただ、お前だけを、愛し抜いた、一人の、誠実な男の、血が!」


その言葉に敦盛ははっとした。 彼女は再び自らの下腹部に手を当てる。


(……この、中に……信経が、いる……) (……私と、信経の、子が……)


その瞬間。 空っぽだった彼女の心に、小さなしかし烈火のごとく熱い灯火が宿った。 それは「生きなければならない」という絶望的な、しかしあまりにも力強い意志の炎であった。 平家のためではない。神託のためでもない。 ただこの命のために。 信経が己の命と引き換えに遺してくれた、この小さな未来のために。


敦盛の瞳に光が戻った。 彼女は父の手を振り払い、自らの力ですっくと立ち上がった。 そしてこれまで流していた涙を手の甲で乱暴に拭うと、驚くほどの速さで男の寝間着を脱ぎ捨て、用意された女の小袖へと着替え始めた。 その一連の動きにもはやいかなる迷いもなかった。


経盛はその娘のあまりの変貌ぶりに、ただ息を飲んで見守っていた。 着替えを終えた敦盛は、最後に信経が遺したあの書状を大切に折りたたみ、肌着の一番深いところへとしまい込んだ。 そして市女笠を深く深く被った。 もはやそこに平家の若武者、平敦盛の面影はどこにもなかった。 ただ強い意志をその目に宿した一人の名もなき女がいるだけであった。


「……父上。お世話に、なりました」


敦盛は父に深く一礼した。


「……どうか、ご無事で」


「……お前もな」


経盛はそれだけを言うのがやっとだった。


敦盛は父に背を向け、幕舎の出口へと向かった。 外はすでに地獄であった。 敗走する兵たち。泣き叫ぶ女子供。燃え上がる陣幕。 その混乱の中に、彼女は一人足を踏み出した。 市女笠を深く被り、決して誰とも目を合わせぬよう俯きながら。 人々の流れに乗り、東へ。 信経が指し示してくれた未来へと。


一度だけ、彼女は足を止め振り返った。 須磨の浦の浜辺の方角を。 そこからもうもうと黒い煙が上がっているのが見えた。


(……信経……)


心の中で、もう一度彼の名を呼ぶ。


(……見ていてくれ。私は、生きる。必ず、生き延びてみせる。あなたの子と、共に……)


涙はもう出なかった。 彼女は再び前を向き歩き始めた。 その一歩一歩が、過去との決別であり未来への誓いであった。

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