最終話 狐に嫁入り
壁にも床にも天井にも、どこにも継ぎ目のない空間。
日照雨は暇な時間があれば、大概ここに来て、熱心に妖術の勉強に励んでいる。
いつも通りの服装に身を包んで床の上に座り込み、床に浮かび上がった青白い文字を目で追っている。
彼女の周囲を、紅色をした狐火が優雅に漂っていた。
「これで、ええと思うんやけど」
日照雨の言葉に呼応して、床に狐火の文字が浮かび上がる。
『文法的な不具合は見受けられません。条件値にも誤りは無いです』
「推敲ありがとうございます」
『試験ではありませんので』
日照雨は狐火に笑いかける。
「今度こそは成功したらええんやけど」
『祈っておりますよ』
「狐火はんがそないなこと言うやなんて、珍しいどすな」
『そうでしょうか』
「そうでございます?」
日照雨はふと、部屋の隅へと視線を向けた。
二十五体。形を成さなかった物を合わせれば三十二体が並べられた、ぬいぐるみに成り得なかったものたち。
縫合が甘く綿が飛び出ていたり、形が歪であったり、ただの布にしか見えない物もある。
「いきなりどでーんて完成品を作ろう言うのが間違うとったんどすよな」
最後の見直しをしながら、日照雨は呟く。
「黄土さまがお屋敷建てはるときのを見るまで気がつかへんどした」
その物ができるまでの工程を、妖術によって辿っていく。
「旦那さまやったらできるんやろうけど」
ぷふぅ、と息を吐く。
「せやから、旦那さまに頼んで本買うてもろて、ぬいぐるみを作る順序を勉強して」
それをそのまま、術式に組み込んだ。
この方法で取り組むようになってからは、飛躍的に完成度が増した。
一方で、全く形を成さないことも何度かあった、が。
「よし」
ぐっ、と胸の前でガッツポーズを取る。
気合いを入れて、深呼吸をして、集中力を高めていく。
そして、隅々まで染みわたるように、妖力を術式に流し込む。
ぽぅっと紅色の光が現れる。次第に強く大きくなり、部屋全体を満たした。
光が、弾ける。
天女の躍る舞いの軌跡を辿るように、糸が宙を駆け巡る。
巨大な布が波打ち、瞬く間に裁断されていく。布と布との間を糸が走り抜けると、そこは寸分の狂いもなく縫い合わされていた。
綿がぽふんと床から生えてくる。もりもりと膨らみ、ぽひゅんっと奇妙な音と共に適量に千切れる。
タンポポの胞子が風に煽られ空を飛ぶように、綿はふわりふわりと宙を舞い、布の中へと入っていく。
その過程を、日照雨はじっと見つめていた。
絶えず妖力を注ぎ続けて、妖術が途中で途切れてしまわないよう細心の注意を注ぐ。
ゆっくりとした速度でぬいぐるみが作られていくため、妖術の起動時間は当然長くなる。
しかし、製作速度を上げると完成度が下がるというデメリットがある。
かと言って、これ以上遅くすれば集中力が持たない。
深く息を吸って、ゆっくりと、ゆっくりと吐く。
部屋の中の光が、次第に収まってきた。
紅色の光は空気に溶けて、日照雨は小さく、安堵のため息をついた。
「……できた」
自然と笑みがこぼれ落ちる。
「やっと完成どすな、狐火はん」
『おめでとうございます』
「ありがとうございます」
日照雨は狐火と見つめ合って、にっこりと笑った。
ふらりと立ち上がり、彼女の頭程度の大きさをしたぬいぐるみを手に取る。
『む、なんかかっこいい物がある』
その文字は、床には記されていなかった。
真っ白なスケッチブックに浮かび上がった、馴染み深い文字。
「こんにちはどす、金柑さま」
『はぁーい、雨ちゃん。お久しぶりだね。それ、先生?』
橙色の着物に身を包みスケッチブックを胸に抱えた座敷童子は、ぬいぐるみを指さして尋ねる。
「そのつもりで作ったんやけど、似とりますか?」
『そっくり』
「よかった」
目を細めて嬉しそうに笑う。
『ねぇね、触らせて』
金柑はスケッチブックを腋に挟むと、んっと両手を広げる。
日照雨は一度、ぬいぐるみに頬を擦り寄せた後、金柑に手渡した。
『へーへー。雨ちゃんがんばったんだねぇ』
薄い黄色の布地で作られていて、九本の尻尾は自在とは言えないものの多少の遊びがあり動く。
顔立ちも凛々しく愛らしく、紅色の瞳は大きなボタンで表現されている。
一通りふにふにと触った後、金柑はぬいぐるみを日照雨に返した。
「旦那さまが今日はお客さまが来る言うとられましたけど、金柑さまのことやったんどすな」
『ん? んー、僕だけじゃないけどね』
スケッチブックを胸に抱き直す。
「あ、火影さまもおられるんどすな」
金柑の小さな影がぐにゃりと歪んで、成人女性の大きさへと、影女の姿へと変化した。
「拙者と金柑様だけにも御座いませんが」
「むむ、せやったら……どなたやろ」
金柑はクスクスと笑いながら、日照雨に手を差し出す。
『僕の手に掴まれば、正解発表だよ?』
日照雨は一度首を傾げてから、きゅっと金柑の手を握りしめた。
前触れもなく、音もなく。
金柑の姿も日照雨の姿が修行部屋から消えた。
日照雨の周囲を漂っていた狐火は、彼女が部屋へと帰ったことを認識し、自動で電源をオフへと移行する。
ジュッと焦げるような音を上げて、フッと掻き消えた。
日照雨が瞬きをすると、そこは彼女の慣れ親しんだ部屋だった。
十畳程度の和室。本の詰め込まれた棚とちゃぶ台しかない、質素な部屋。
そんないつも通りの部屋で、ちゃぶ台を挟んで二人の女性が何やら口論をしていた。
「結界内に侵入を許すだなんて、ほんと貴女は口ほどにもありませんわよね」
「何を言うか。侵入者は撃退しておるではないか」
「侵入された時点で。そもそも、あの方がいらっしゃらなかったら、全滅だったんじゃありませんの?」
「わらわは一分たりとも力を発揮してはおらんわ。あのような雑兵、取るにも足らん」
「あらあらまあまあ、あの方が全て解決して下さったと自供しているようなものじゃありませんか」
「ぐ……」
片方は、白銀の長髪に純白のドレスに身を包んだ雪女。
もう片方は、肩口まで露わになった煌びやかな和服姿の絡新婦。
二人は紅色の瞳から火花を散らしていた。今は、雪女の方が優勢だろうか。
『まーたやってら』
金柑は肩をすくめる。着物の袖口に手を突っ込んで、ごそごそと何かを探る。
『あったあった』
抜き出した手に握られているのは、細長い柳の葉だった。
それを、金柑はちゃぶ台へと放り投げる。
「……う」
月華が、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「あー、もう」
黄土太夫は不機嫌そうな表情になって、ため息をついた。
ちゃぶ台の上に不時着した柳の葉は、いつの間にやら尼の格好をした老女の姿に変わっていた。
掌サイズの柳女の姿に。
「仲良うやっとるかしら、お二人さん?」
しわがれた声に、月華と黄土太夫はそれぞれ曖昧に頷く。
「柳木さま、どすか?」
「こんな姿だけれど、柳木お婆ちゃんだよ」
ひらひら、と茶目っ気の溢れる笑顔で日照雨に手を振る。
「それに月華さまと黄土太夫さまも」
「お久し振りですわね、日照雨」
「数週間振りやね、日照雨」
「あ、はい。こんにちはどす」
日照雨は深々と頭を下げる。と、狐のぬいぐるみがぽろりと畳の上に落ちてしまった。
「あら、それは?」
「お狐様のぬいぐるみ、に見えるけど」
「……ふんっ」
日照雨は慌ててぬいぐるみを拾い、ちゃぶ台の上に置く。自身もそのそばに座った。
「今できたばっかりなんどす」
少しだけ自慢そうに語る。
「あらそうでしたの。日照雨は手芸も嗜んでいたのですわね」
日照雨の頭の上にトンッとスケッチブックが置かれる。
『メイド イン ヨージュツ』
「ヨージュツという場所があるとは知りませんでしたけれど」
柳木は金柑の言葉の意味を汲み取り、顔をしわくちゃにして笑った。
「おめでとう、雨ちゃん」
「あ、はい。ありがとうございます」
「……ま、まあ末嫁にしてはようやったんやないの」
「えへへ」
雪女に、影女に、柳女に、座敷童子に、絡新婦。
ここまで揃うと、今日の客人がもう一人いることが日照雨にも容易に予想がついた。
「ところで、旦那さまと水仙さまはどこにいらっしゃるんどすか?」
「水仙は体質が体質ですから、あの方が直接迎えに行っているようですわ」
そう言いながら、月華はぬいぐるみの背を優しく撫でている。
「あの子は、雨が降っているところにしか存在できないからねぇ」
柳木もぬいぐるみに歩み寄り、手を伸ばして鼻をぽんぽんと叩いた。
「そろそろ帰ってくるんやないの」
黄土太夫はぬいぐるみのボタンの瞳をジッと見つめて、それからプイッと視線を逸らした。
「そうどすか」
火影が振り返った。
「噂をすれば、影がさしたように御座いますね」
日照雨が修行用に使っていた部屋へと続く障子扉が、ガタガタと激しく揺れる。
数秒間揺れが続いて、ピタリと止んだ。扉の向こう側から、何かの気配がする。
日照雨は静かに立ち上がり、障子に手をかけた。
力を込めて、戸を開く。
薄暗い廊下に繋がっているはずの扉の外は、風流な中庭に面した縁側だった。
中庭では、しとしとと雨が降っている。
薄い水色を帯びた白髪に、肌に張り付いたワンピース姿の雨女。
胡乱な瞳が日照雨を見つめて、へにゃっと笑った。
「水仙さま、こんにちはどす」
「うん……こんにちは……日照雨」
「む、わしの方がちと遅かったか」
黄金色の毛並みを持った、九尾の妖怪狐。
「お帰りなさいませ、旦那さま」
「うむ、今帰った」
ヒョイッと庭から縁側へと飛び移り、部屋の中へと入ってくる。
雨の降りしきる中にいたと言うのに、彼の体には水滴一つ付着していなかった。
彼は、嫁たちがしきりに触っている何かを見つめて、スッと目を細める。
それが自分を模ったぬいぐるみということに気がつき、日照雨に振り返った。
「あれはお主が作ったのか?」
「はい、今さっき完成したんどす」
彼はほぅ、と愉快そうな表情を浮かべる。それから、長い尻尾でぽんぽんと彼女の頭を叩いた。
「えへへ」
日照雨は胸の前で手を組み、頬を真っ赤に染めてとろけそうな笑顔を浮かべた。
「水仙も……見たい」
その言葉に、金柑が代表してぬいぐるみを手に取り、縁側へと小走りに向かった。
『じゃーんっ!』
畳の上に置きっぱなしになっているスケッチブックに文字が浮かぶが、水仙には到底見えない。
「おー」
間延びした感嘆の声。
「すごい」
「がんばったんどす」
「うん……えらい」
「あ、でも。水仙さまにお日様見せる……言うんはまだ、どすけど」
「がんばってね……楽しみ」
日照雨はこくこくと頷いた。
「さて」
彼の一声で、部屋の中がシンと静まり返った。
水仙の降らす雨の音だけが、しとしとと響く。
「お主らにはもう説明したとは思うが、今日は」
月華は口元を手で隠して、クスクスと笑う。
火影は器用に膝をついて、静かにしている。
水仙は金柑の持っているぬいぐるみを胡乱に見つめている。
柳木はちゃぶだいの上に正座をして、穏やかに笑っている。
金柑はぬいぐるみを引っ張ったり潰したりして、遊んでいる。
黄土太夫は腕を組み、不機嫌そうに顔をしかめている。
「婚礼の儀を執り行う」
「こんれい?」
金柑がスケッチブックに文字を浮かび上がらせる。
それを月華が手に取って、持ち上げた。
『婚礼の儀=結婚式』
日照雨はその文字を読んで、ぱちくりと数回瞬きをする。
「どなたと、どなたのどすか?」
「わしと日照雨のじゃよ」
ようやく、理解した。
「ひゃぃっ?」
日照雨が奇妙な声を上げたのを見て、その場にいた全員が噴き出した。
装飾が施され、様変わりしたいつもの部屋。
日照雨は白無垢に着替えさせられて、人形のように飾り付けられていた。
座布団の上に正座をしていて、先程から一言も喋っていない。
「婚礼の儀とは言うたが、神前でも仏前でもない」
日照雨の隣、いつも通りの格好のまま、彼は座っている。
彼がゆっくりと息を吹くと、部屋の中に燐火が灯った。
月華、柳木、金柑、黄土太夫はそれぞれ座し、火影は金柑の影のまま器用に正座をしている。
水仙は縁側の外で、雨を浴びて立っている。
「ただ皆の前で契りを交わすだけの、言わば人前……妖怪前、か?」
「私の時は、誰も居ませんでしたけれどね」
『通過儀礼だね、通過儀礼』
「もう二度と茶番を見せられたくはないものよな」
「それはまあ、わたくしも否定はしませんけれど」
彼はふと、視線を庭へと投げた。
曇天から降り注ぐ雨で、庭は薄暗い。
「……ふむ」
光が、水仙の頬を撫でた。
「結界の中だから、紛い物ではあるが」
水仙が天を見上げる。嬉しそうに顔を綻ばせた。
明るい光に庭は照らされ、されど、雨は降り止まぬ。
「日照雨」
名前を呼ばれ、ぴくっと肩を震わせた。
「日照雨」
ゆっくりと、彼の方へと体を向ける。
彼は身を起こし、静かに彼女へ顔を寄せた。
日照雨のお白いを塗られた肌が、紅く染まっている。
潤んだ瞳が、彼の紅色の瞳を見つめた。
しっとりと濡れた唇が、微かに動く。
「旦那さま」
「ん?」
「え、えと」
「ん」
「その……」
日照雨は何か言おうとして、しかし、止める。
彼をじっと見つめて、見つめられて。
静かに目を閉じた。
晴れた日に降る雨のことを、天気雨と言う。
日照りに降る雨であるから、日照雨と呼ぶこともある。
そして、日照雨の降る日には狐が結婚するとも言われている。
故に、日照雨のことをこう表現することがある。
狐の嫁入り、と。
されど、旦那が狐で嫁が人間だとすれば正しくは……。
狐に、嫁入り。
ここまで読んで下さった方々に、最大限の感謝を。
最初に最終話をチラ見されている方には、日照雨は「ひでりあめ」と読むという情報をプレゼントさせて頂きます。日照雨と書いて「そばえ」と読むこともあるそうなのですが、と言うよりはこちらの方が正しいそうなのですが、本作品においては「ひでりあめ」です。
人名ですからそれで良いのです。
ということで、
5月12日より毎週日曜更新(休み3回)でお送りして来ました「狐に嫁入り」でしたが、如何だったでしょうか。
二十年程度の人生で書き上げた小説は「狐に嫁入り」が二作品目という若輩者ですが、雀の涙ほどでも「雨ちゃんかわいい」と思って下さったのであれば本望です。
雨ちゃんかわいい。
この作品はキーワードにもありますように、「妖怪」「狐」「幼妻」の三点から出発していまして、ストーリー構成が穴ぼこだらけだったと思います。
次に何か作品を作る機会があれば、もう少し構成をしっかりと組めるようになりたいです、ね。
下らぬ文章を点々と述べましたけれど、最後にもう一つだけ下らないお話を一つ。
妖怪は、昔の世で人が自然に対して抱いた感情を元にこの世に生まれました。
科学が進み、人間の心が変わり、現代で日本人が妖怪を見ることは少ないのではと思います。例え見れたとしても、それは恐らく子どもでしょう。
けれど、人は今でも自然現象や何かしらに対して、様々な感情を抱いているのは確かです。だからわたしは、妖怪は今も存在し続けているのだと考えています。
決して、我々の目に留まることはないのでしょうけれど。
それでは皆様御機嫌よう。
おつかれさまどした。