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アンドリューの意識が自分以外に向かっている。
しかも、婚約者のラシェルに向かっているのがとても気に食わない──。
シエナは仄暗く、陰鬱とする感情を瞳に宿し俯いた。
そして体を震わせ、小さな泣き声を漏らす。
「──シエナ!?」
シエナのか細い泣き声を聞いたアンドリューはサッと顔色を変え、ラシェルに向いていた視線をシエナに向けた。
「すまないシエナ、大丈夫か?」
優しく、愛おしさを含んだ甘い声。
アンドリューの意識は、変わらず自分に向いている。
その事に酷く安堵したシエナは、なんでもないと言うように首を横に振った。
「ごめんなさい、なんでもないんです……。その、本当に、私は大丈夫ですから……」
「だが、あの女に……」
「いいえ、本当に大丈夫です……」
ラシェルを庇うような態度を見せるシエナ。
そんな様子が、健気さを演出していた。
「分かった。シエナがそう言うなら、これ以上あの女を咎める事はしない。だが、念の為医務室に行こう」
アンドリューの意識は、すっかりシエナに戻っている。
強く押しすぎた、と先程までラシェルに抱いていた申し訳ない気持ちも既に消えてしまっている。
アンドリューの目にはもうシエナしか映っていないのだ。
「……っ」
「レオ、いいのよ」
流石に、男としてその態度は如何なものか。
レオはアンドリューに一言言ってやりたい気持ちになり、口を開こうとした。
だが、レオの行動を察したラシェルはすぐに彼を制す。
「ですが、ラシェルお嬢様……! あなたは、怪我をする可能性だってあったんですよ……!?」
「済んだことだし、怪我も無かったから大事にしないで。それより、王太子であるアンドリュー殿下に噛み付いて、あなたが罰せられたら大変だもの」
「……っ、確かに今は侍従の身分ですが私は──」
「レオ」
レオがこの場で余計な事を言わないよう、ラシェルは普段より低い声音でぴしゃり、と言葉を制した。
ここは、学園の廊下だ。
周囲にはまだ他の生徒たちがいる。
怒りで周りが見えていなかったレオは、そこでようやく学園生達の姿を視界に入れ、はっとして口を噤む。
「王家や、公爵家以外の者の前でその話を口にするのはいけない、と言ったでしょう」
「すみませんでした。以後、気をつけます」
「ええ、そうしてちょうだい」
ラシェルはふう、と息を吐き出して切り替えるようにレオを見上げた。
「もう大丈夫だから、レオも授業に戻って」
「分かりました」
「じゃあ、また後でね──」
話を終え、二人はその場で別れようとした。
だが、ラシェルが足を一歩踏み出したその時。
「──ッ!?」
足首に微かに走る、鈍痛。
アンドリューに押された際、軽く足を捻ってしまったようだった。
だが、軽く捻った程度。
すぐに治るだろう。
そう思ったラシェルだったが、顔を上げたラシェルの視界には顔を青ざめさせ、この世の終わりだとでも言うような表情のレオが居た。
「ラシェルお嬢様……、まさか、お怪我を……」
「……たいした事はないわ。平気よ」
大丈夫、と首を横に振るラシェル。
だが、ラシェルの言葉などレオの耳に届いていない。
「すっ、すぐに手当を……! 医務室に向かいましょう……!」
「──今医務室には殿下と……っ」
アンドリューとシエナが向かったのだ。
自分たちが行ってしまったら、再び鉢合わせる事になる。
また面倒くさい事になるではないか、とラシェルはレオを止めようとしたが、聞く耳を持たないレオに抱き上げられ、廊下を駆け出したレオを止める事はできなかった。
◇
医務室に繋がる廊下。
ラシェルを抱き、走ってきたレオの耳にアンドリューとシエナの会話が聞こえてきた。
「──っ」
「だから止めたのに。殿下とシエナ嬢がいるのよ。私たちは戻りましょう」
小声でラシェルが告げる。
その言葉にレオが頷こうとした時。
アンドリューの縋るような声が聞こえた。
「あいつは、無表情で可愛げの欠片もなく、つまらない女だ。私が愛するのはシエナ、お前だけだ」
「──でも」
「シエナ、不安に思う事はない。シエナのためなら、あの女の公爵家……スタシータ公爵家を取り潰してやったっていい」
ラシェルの耳に、信じられない言葉が聞こえてきて、ラシェルは唖然とした。
「──は?」
「ラシェルお嬢様……」
レオが何とも言えない表情で、ラシェルの名前を呟く。
ラシェルの顔は、医務室の扉に向けられたまま。
レオはこのまま引き返そうか、と扉に背を向けて歩き出した。
これ以上、アンドリューの酷い言葉をラシェルの耳に入れたくない。
そう思い、行動した彼だったがラシェルが「待って」と言い、レオを引き止めた。
ラシェルが待て、と言うならばレオはそれに従う他ない。
ラシェルを気遣いつつ、レオはその場に足を止めた。
その間も、アンドリューの良く通る声は医務室から響く。
「あの女との婚約など、結局は婚約者ごっこ。……子供が行う遊戯と一緒だ。ただのごっこ遊び。私が本当に愛しているのはシエナ、君だけなのだから……だから、不安に思う事はない」
「だけど……っ、だけど、婚約を止める事は、殿下には……っ」
涙に濡れたシエナの震える声が落ちる。
「──できるっ、陛下に進言し、あの女との婚約など……っ! 最悪、本当にスタシータ公爵家を取り潰してしまえば良い! シエナ、君はこの国の聖女になるのだ。聖女こそ、私の伴侶に相応しい、と国民に、他の貴族共に認めさせる……!」
「殿下っ、殿下……!」
「アンドリュー、と。シエナ、君には私の名前を呼んで欲しい」
誰が来るかも分からない医務室で、大声で話している二人。
最早、二人は自分たちの世界に酔っているのだろう。
アンドリューの言葉を聞いたラシェルは、信じられない、と怒りに体を震わせた。
「──スタシータ、公爵家を……取り潰す、ですって……?」
「ラ、ラシェルお嬢様……」
「この婚約が、ごっこ遊び、ですって……?」
ラシェルは「はっ!」と鼻で笑うと、強く拳を握りしめた。
「取り潰しなど、そんな事……絶対に許さない……! 我が公爵家をこんなつまらない事で、煩わせたりしないわ。……レオ、医務室はもう結構よ。早退します」
「……今ここで、直接殿下に言わずよろしいのですか?」
「今の殿下に何を言っても無駄だわ。……殿下が婚約者ごっこを望むなら、今はそのごっこ遊びにお付き合いするわ」
「……分かりました」
「邸に帰るわ」
ラシェルの言葉に、レオは頷き歩き出す。
ラシェルの心の中では、王太子アンドリューへの怒りがふつふつと湧き上がっている。
これ以上、この場にいて、アンドリューとシエナの会話を聞いていたら魔力暴走が起きかねない。
学園を破壊したくないし、怒りを制御できていない状態で乗り込むのは得策ではない。
そう判断したラシェルは、邸に戻り、少し冷静になって今後の事を考えたかった。
◇
学園を早退し、帰宅したラシェルはレオに自室まで送ってもらった。
部屋で一人になったラシェルは、いくらか冷静になった頭で今後の事を考える。
「──アンドリュー殿下が、ここまで愚かだとは思わなかったわ。この婚約は、王家と公爵家にとって利害が一致して結ばれたものなのに……。だけど、殿下は自分の感情を優先して、公爵家の取り潰しを口にされた。……いくら王太子とは言え、言い過ぎだわ」
ラシェルはテーブルを自分の指でコツコツ、と叩く。
ラシェルが指先でテーブルを打つ度、テーブルに亀裂が走る。
「公爵家を、政略的な婚約を……甘く見過ぎよ。今日の殿下の言葉は見過ごせない」
今までは、アンドリューがいくらシエナを愛していようが構わなかった。
お互い、恋情など抱いていなかった。自分達の結婚後も、シエナとの関係が続いていようが別に良かったのだ。
だが、医務室でアンドリューが発した言葉を聞いてラシェルはその考えを捨てる事に決めた。
「殿下との婚約なんて、私だって願い下げだわ。……準備が整うまで、殿下が望んだ婚約者ごっこを続ける。殿下が気づかないように準備を終えるまで、全力でごっこ遊びに付き合うわ」
ラシェルがトンッ、と最後にテーブルを指先で叩くと、亀裂が入り脆くなっていたそれは、とうとう耐えきれなくなり、音を立てて真っ二つに割れた。




