~ 第一章その8 ~
悪夢に魘される日々が終わったと告げられた護少年が、歓喜のあまり転校生である少女を全力で抱きしめてしまい、ようやく歓喜の衝動が静まって来た頃……
ドアが開かれるガラッという音が、保険室内に響き渡る。
その後に続いた床を叩く足音は、まるで保健室のベッドに用があったとしか思えないほど、迷いのない足取りであり……
(……っ、しまっ)
歓喜のあまり少女に抱き着いたままだった護少年は、ドアが開いた音に驚いて硬直してしまっていたこともあり、カーテンが開かれるその瞬間まで何一つ有益な行動を取れないままであり。
……今さら我に返ったところで、もう間に合う筈もない。
(……ちょ、ちょっと待っ……)
そうして護と転校生が抱き合っていたベッドのカーテンを開いたのは、先ほどの悪夢と同じ保健教諭……滅多に保健室にいない実績のある、保健室の主その人である。
若い女性である保健の先生は、中身が見えてしまいそうなほど短いスカートに、胸元を大きく見せるチューブトップの上から薄手のブラウスを羽織るという、妙に異性の視線を惹きつける格好をしていて……隣に男性を侍らせていたこともあり、このベッドに近づいてきた意図が何となく透けて見えきてしまう。
そもそも、彼女は風紀的に考えるととても中学校にいてはいけない存在として、そして生徒を含む数多の男性と寝たと校内で大きく噂されているほどの、校内屈指の問題教師なのだ。
それでもクビにならないのは、校長と愛人関係にあるとか何とか……兎に角噂の尽きない女性である。
そんな彼女が侍らせていたのは……腕を組んでいたのは、護の担任である数学の榊原教師だった。
……確か、彼は妻帯者であり、あまり他人に興味がなかった護でさえ、そのことを知っていたくらいである。
「「「……あ」」」
……だから、だろう。
その場にいた誰もが「拙いところを見られてしまった」という表情を隠し切れていなかったのは。
何しろ、先述した保険教諭と榊原教師の事情は兎も角、護の方も転校してきたばかりの少女と保健室のベッドで抱き合っていて……挙句、彼女の顔や腕や制服には白濁した液体が飛び散っているのだ。
一応、闖入者二人が抱いただろう『誤解』を実際に行ってはいない……とは言え、コレを誤解と言い通すにはかなり無理がある状況である。
だけど護は入って来た彼女の顔を見るや否や、安堵の溜息を一つ吐き出し……欠片も焦ることはなく、保健教諭と視線を交し合う。
「あら、合歓木くん……御免。
もしかして、邪魔しちゃったかな?」
「いえ、こちらこそ」
両者は取りあえず形だけそう言葉を交わしつつ。
お互いに視線で「見なかったことにしよう」という意図の目配せを終える」と、教師二人のカップルはさっさと保健室を出て行ってくれた。
本来ならば、護は不倫やら何やらで保険医を糾弾するべきところなのかもしれないが……少年にとって、彼女の不利になるような行動は禁忌に近い。
(……先生には、借りがあります、からね)
護が内心でそう嘆息するように……彼女が『こういう形』で完全に吹っ切れたのは、相談に訪れた護が迂闊にベッドで寝入ってしまったことにより、感染させられた悪夢を味わってから、である。
だからこそ、護少年にとって保健教諭は彼の犠牲者の一人でしかなく……そんな護に、彼女の行状について口外なんて出来る訳もない。
そもそも、睡魔と抗うために授業をサボることが多い護少年は、彼女が誰かと並んで歩いているところを何故か度々目撃してしまうこともあり。
サボりを誤魔化してもらう護と、不祥事を黙っていてもらう保険医……両者の間では『お互いの行動を黙認する』という、奇妙な関係が成立していたのである。
「えっと。
こんな有様を思いっきり教師、しかも担任に見られたんだけど……彼らは説教とかしなくて構わないの?」
「まぁ、あの保健の先生が絡んでいるなら問題にはならないと思います、はい」
説教を気にする性質ではないものの、反応がないと違和感があるのだろう。
もしかすると、「食生活が他者と決定的に違うところを見られてしまった」という後ろめたさがあるのかもしれないが。
微妙な表情で首を傾げている空に対し、護はそう頷く。
「しっかし、あの人もパウチカムイに精神を食われた痕が見えるわ。
この街、思ったよりもずっと色々巣食っているようね」
「……パウチ……なんですか、それ?」
「人間の精神に潜み、淫欲に誘う悪霊、かな?
名前は漫画やネットで調べたのをつけているから、適当だけど」
空があっけらかんと言い放ったその言葉に、護は大きな落胆を覚えていた。
早い話が……彼女が名を告げた、何処かで聞いたことのあるような妖は、ただ空自身が適当に名前を使っているだけの「行動が似ているだけのナニカに過ぎない」ということなのだ。
それは即ち、何処かで聞いたことのあるような悪霊への対処法を、伝承通りに試したところで……それには何の意味も無い可能性が高い、ということなのだから。
名前が分かったのなら、せめて自分を苦しめていた原因を知ってやろう、弱点や対処法まで分かれば御の字と、ネット知識でも良いので兎に角調べてやろうと密かに計画していた護としては、大きく当てが外れてしまった形になる。
「ま、その辺りはおいおい調べていくとして、護くん?」
「ええと、何でしょうか、空さん」
「とりあえず、そろそろ離してくれると有難いんだけど」
その言葉を聞いて初めて、護は気付く。
自身の両手が、彼女の細い身体をしっかりと抱きしめていることに。
……保健室のドアが開く少し前から、彼女が指摘した今まで、ずっと。
「……私なんて抱きしめてもあんまり面白くないでしょう?」
「うわわっ、ごめんなさい!」
自分の腕が少女を抱きしめている事実に気付き、慌てた護が飛びのいてそんな悲鳴を上げる傍ら……抱きしめられていたにも関わらず顔色一つ変えようとしなかった少女は、躊躇の欠片も見せることなくベッドから腰を上げていた。
「さて。今日は帰らせてもらうかな。
この制服じゃ、授業に出るのもちょっと拙いだろうし」
「……です、ね。
もうすぐ放課後になるみたいですから」
転校生の言葉を聞いた護は、彼女と抱き合っていた所為で自らの制服も彼女のソレと同じく白濁した液体に汚れている事実に気付かされる。
とは言え、不幸中の幸いか、護のシャツは元々が白地であって、白濁液に汚れていたところで遠目からではそう目立つこともなく……放課後であれば誰にも見咎められることなく帰ることが出来る、だろう。
「あの保健の先生に、その、早退したとアリバイを作ってもらうことは?
前の学校でサボりまくったから、ちょっと出席日数が危険なのよね」
「ええと。
……ま、後で頼んでおきます」
あんな化け物を平然と生で食べる癖に、やけに普通っぽいことを言うな……ふとそんな感想を抱いた護少年は、思わず笑みを浮かべてしまう。
彼自身も、延々と悪夢に苛まれ続けていた割には、世間体を考えて学校には通い続けていたこともあり、何となく親近感を覚えてしまったのだ。
尤も、彼がせっせと登校していた主な理由は、実のところ世間体などではなく……単に「家にいても退屈で眠くなるから」でしかなかったが。
「じゃ、空さん、また明日」
「ええ、また明日」
護の挨拶に、転校生は振り返ることもせずそんな生返事を返したかと思うと……放課後を告げるチャイムが鳴ったその瞬間、白濁した液体が乾燥して白っぽい汚れがこびりついたままの制服で、平然と保健室を出て行ってしまう。
出席日数は気にする癖に、他者の視線を全く意に介す様子のないその背中を眺めながら、護は一つだけ溜息を吐き出すと、汚れていたシーツを丸めて洗濯するためのポリバケツに放り込む。
この辺りは、悪夢の所為もあり保健室で何度となく粗相をしでかした経験のある少年にとっては、手馴れた行動である。
そうして近くのロッカーから新たなシーツを取り出し、慣れた手つきでベッドに敷くと……そろそろ放課後すぐに帰る生徒たちが家路に付き、廊下の生徒数が激減しているのを確認した護は、人目を気にしながらそろそろと保健室を後にした。
……それが、合歓木護少年と転校生の少女である鬼敷空……二人の出会いだった。
そして、その日の夜。
合歓木護は恐らく数年ぶりの……誰にも妨害されない安らかな眠りという奇跡を、十二分に味わうことが出来たのである。




