~ 第二章その1 ~
──人間の活動の基本は睡眠である。
一晩中の麻雀や飲み会を繰り返した大学生や社会人がようやく気付くその真理に、合歓木護少年は僅か中学二年生の身にして至っていた。
睡眠時間が足りていないと、いざ動こうとしても身体は動かないし、美味しく食べようにも食欲は湧かないし、そもそも何かをしようにも頭脳すら回らない。
である以上、無駄に起きて無理やり活動時間を延長していても、密度の薄いスカスカな活動をただただ繰り返すだけであり、結局のところそんなものは無意味な苦行となり果ててしまう。
……よっぽど〆切に追われた漫画家や小説家でもなければ、無理して起きていても良いことなど何もないのだ。
(……なんて、ね)
夢すらも見ない十二時間睡眠という本当に久しぶりの安眠を終えた護は、何となくそんなことを寝惚けた頭で考えていた。
そして、いつまでもベッドで丸まりながらそんなことを考える訳にもいかず、護は身体を起こし……
(……頭痛い)
不意に側頭部を走った、頭蓋内部からの鈍痛に思わず頭を抱えてしまう。
身体が日ごろの睡眠不足を補おうとするあまり、昨晩は寝過ぎたのだろう。
だがそれでも……頭痛に頭を抱えながらも、合歓木護の気分は爽快だった。
爽快な気分のまま部屋を出て、顔を洗うために洗面所に入り、鏡を見る。
そこには、相変わらず濃いクマを浮かべた、いつもの痩せた少年の顔が写っていた……が、昨日に比べるとクマは大分和らいでいる、気がする。
先日まではベタでしか表せないほどの酷いクマだった筈なのに、今日のはスクリーントーンNo.53くらいの色になっているのだからかなりの違いと言えるだろう。
数日後にはNo.61くらいになりそうな予感と共に……一時期、夜中の時間潰しにと漫画を描いていた時代の知識が不意に浮かんで来たものの、その無駄な知識を首を振ることで脳から追い出した護少年は、顔を洗うことで、若干残ったままの眠気を追い払うとリビングに向かう。
「……お腹が、空いた、なんていつ以来でしょう、か」
久しぶりの安眠は、彼の衰退しまくっていた胃袋の活動までも活発化させていた。
元々、彼は成長期である中学二年生であり、いままで睡眠不足によって押さえつけられた彼の食欲は、たった一晩で尋常ならざる回復を見せ……足りない栄養を寄越せと全力で騒ぎ出したのである。
この突き刺すような痛みを伴う食欲も、「人間の活動の基本が睡眠にある証だ」なんて感じつつ、護は冷蔵庫を漁る。
(今日は朝ごはんをしっかりと食べようっと)
数年ぶりにそんなことを考えた護は、勝手知ったる我が家の台所で適当にパンを焼きながらも、彼の顔からは笑みが絶えなかった。
実の息子が朝食を取るという通常の仮定ならば至極当然の事態を「ありえないこと」と一蹴し、なおも息子の正気を疑い続けた両親にも怒りすら湧かず、笑顔のままだったくらいである。
事実、その朝の護は物心ついてから最高と言っても過言ではないほど、良い気分だったのだ。
……ちなみに。
両親からは『疲労がポンと抜ける薬』……戦後では『眠気が取れて意識が覚醒する薬』とも言うが、その手の薬に手を出したのだと疑われ。
その謂れのない疑いによって、彼の気分は少しだけ翳ることになってしまったものの……それでも護は気分良く家を出ることが出来たのだった。
そして、学校内でも彼の扱いは同じだった。
「おはようございますっ!」
通学路を歩くだけで妙にテンションが高くなってしまい……ついつい抑え切れず、教室に入るなりそう大声で挨拶してしまった合歓木護少年に対し、クラスメイトたちは口先では祝福していたものの、彼ら彼女らの視線は雄弁に「ああ、遂に……」と物語っている。
「……そんなにボクの機嫌が良いの、珍しいですか?」
変な視線を向けてくる級友たちにはそう言いながらも、久々に極限の睡眠不足が解消され上機嫌だった護の顔は、笑みを隠し切れていない。
「いや、まぁ、その、なんだ?」
「……別に、ねぇ?」
「うん、そうね?」
それがまた同級生たちの哀れみを誘い……
朝礼が始まるまでの時間、クラスメイトたちにどれだけ話しかけようとも、誰一人として理解が得られなかった護少年は、ついにはいじけて机に伏して寝たふりをしたまま、授業が始まるのを待つことになってしまう。
(……早く、来ないかなぁ)
内心でそんな……この気持ちを唯一分かり合えるであろう、隣の席の転校生……鬼敷空という名の少女の登校を望む呟きを零しながら。
──誰かと語り合いたい。
殆ど関りのなかった、昨日言葉を交わしただけの少女がこれほどまでに待ち遠しいのは、少年の中にそんな願望が眠っていたから、であろう。
極限の睡眠不足の中、「世界中の誰とも分かり合えない」という思い込みの中で生きていた護は、そんな感情を未だに自分が持っていたことに驚きつつも。
それでも、彼は、自然と零れてくる笑みを隠し切れず……机に突っ伏したまま。隣の席の少女を待つこととなったのである。




