~ 第二章その2 ~
「……来ないし」
……だけど。
昼休みになっても、隣の席の転校生は現れなかった。
僅かに落胆しながらも、一時間目・二時間目・三時間目・四時間目の授業中、涎で机に地図を描くほど深い睡眠を取った護は、この最高の気分を隣の席の少女と分かち合えないことについて、実のところそれほど気にしてはいなかった。
(……眠い時にゆっくり眠れる。
こんなに嬉しいことはない、ですね)
少なくとも物心ついてから悪夢に苛まれずっと一人で過ごしていた護少年にとって、誰かと語り合うことの重要度はそう高くなく……そもそも、誰かと語り合うことよりも、ただひたすら眠ることの方が遥かに気分が良いのだから、少年が隣の席の転校生をそう重要視しないのも、ある意味では当然のことだろう。
そんな訳で午前中は殆ど眠っていたにも関わらず、いやむしろ、眠っていたからこそかもしれないが、酷い空腹感を覚えた護は珍しく昼食というものを取ろうと思い立ち……
ふと気付く。
(……昼、飯?)
……いつもの癖で、弁当なんて持ってきていないことに。
更には、少年が見せた『朝の絶好調』がよほど不気味だったのか、今日に限ってクラスメイトの誰一人として「お弁当を分けよう」と言ってくれない始末である。
(残念だけど、仕方ない、ですね)
久しぶりに感じる空腹に少しだけ顔を顰める護だったが……ないものは仕方ないと、昼食を諦め、いつもの癖で通学途中に買った缶コーヒーを飲み干し……
直後、一つの逃れられない事実に気付く。
(……何を、しましょう?)
……そう。
何しろ、彼にはこの昼休み、やることが何もない。
今までは睡魔と闘うためにマッチ棒で戦車とか城とか戦艦とかを組み立てるのに必死になっていたのだが……もう睡魔と闘う必要がない以上、そんな意味のない手遊びに興じる必要なんてない。
かと言って、空腹の所為か予習復習なんて気分にはなれず、寝貯めとばかりにもう一眠りするにしても、少年は午前中の授業中にちょっとばかり眠り過ぎてしまっている。
勿論、眠ろうと思えばまだ幾らでも眠っていられそうだったが……空腹という余計な雑音が、至高の時間である睡眠に混ざることが、今まで不眠に苦しんで来た護少年としてはどうにも厭われてしまう。
そうして、これから何をしようかと悩んでいる丁度その時のことだった。
「そういや、合歓木。
結局、生徒会長とはどうなってんだ?」
「……ええと?」
近くで弁当を口にしていた級友が突如……恐らくは珍しく護少年が眠気に抗うでもなく、普通に元気にしていたからだろうけれど、そんな問いを言い放つ。
だけど、自らの睡眠にしか興味のなかった護は完全に不意を突かれた形となり……その級友が一体何を言っているのか、さっぱり理解が出来なかった。
「とぼけてんじゃねぇ!
この前、全校集会で告白されてただろうが!」
「ああ、そうでしたっ!」
尤も、流石にそこまで言わてしまうと、否が応でも思い出さざるを得なかったが。
(……生徒会長、か)
それは……10日ほど前に体育館で行われていた全校集会の真っ最中、学校始まって以来の才女と名高い完璧生徒会長小鳥遊祐子による突然のサプライズ告白のことであった。
正直な話、睡魔と闘うだけで精一杯だった護は生徒会長の訓示なんざ一言一句たりとも耳に入っておらず……突然体育館を揺り動かすような怒号に驚いて正気を取り戻してみれば、全校生徒の注目を浴びていたという……彼からしてみれば『現実へと侵食してきた悪夢』以外の何物でもなかった訳だが。
と言うか、護自身がその常識外の状況をいつもの悪夢だと思い込んで……いや、夢でもなければありえない状況だと頭の片隅に追いやってしまい、本気にはしていなかったけれど。
それでも、まぁ、一応は好意を示してくれた訳だし、護自身にしてみても入学当初、睡眠不足の理由を教師の誰一人として信用してくれなかった時にかなりお世話になった、尊敬する先輩でもあり、そう無碍には出来ない間柄でもある。
(まぁ、そもそも昨日までは、明日のことすら考えられなかった訳ですが)
護自身、昨日までは極限の睡眠不足であり、日々生きるだけで精一杯……と言うよりも睡眠欲以外の一切がどうでも良かったくらいである。
恋愛とか男女交際なんて……護にとっては「それどころではない」というのが本心だったのだ。
そんな訳で告白の返事と問われても「どうやって断ろうか」としか考えられず……そもそも「どうでも良いこと」だったから、無意識の内に考えないようにしていた訳だけど。
──今ならば……
──睡眠が満足に取れる将来が約束された今ならば!
そのことについて考えを向けた途端、そんな欲望が脳裏を過っていく。
尤も、護自身は背も低くスポーツも出来ず学力すら最底辺なのに対し、当の相手である小鳥遊生徒会長は容姿端麗、成績優秀、身体能力も優れているばかりか、何やら伝統ある一家の長女であり……
その当たり前の事実に気付いた護少年は、じわりと熱しかかっていた頭の片隅が瞬時に冷却される感覚を味わっていた。
「で、どうするって?」
「いや、正直、釣り合わないですって」
突然熟考を始めた護に痺れを切らしたらしき級友の言葉に、護はただ静かに首を左右に振っていた。
分不相応……今までは考えもしなかったそんな悩みに、「贅沢な悩みだ」と護は内心で自嘲するものの、それを表情に出さない程度には、彼にも社交性というものが存在していた。
「まぁ、そうだよな~。
でも、惜しいだろ?」
「それは、まぁ。
でも、ボクなんかに付き合わせても良いことないでしょうし」
「……それを決めるのは会長なんだけどな」
好奇心に満ちた視線を送ってくる級友たちと話をしながら、護自身はもう生徒会長への返答が自分の中で固まっていることを知る。
それどころか……
(今ならば、普通に断ることが出来る!)
……と久々の睡眠を摂ったことで、彼の脳みそはネジが何本かぶっ飛んでいたらしく、そんな変な方向へと大きな自信を抱いていたのである。
そのまま合歓木護少年は級友たちの「もったいないな~」という哀れみの視線や「生徒会長と付き合うなんざ許せん」という嫉妬混じりの視線、「どうせ言いくるめられて付き合うことになるんじゃないの?」という達観した視線などを浴びつつ。
教室内に居心地が悪かったことと、変な自信が訳の分からない方向へと突き進んだこと……そして何よりも眠れるようになったことで生き方を一変させようという決意の下、護は教室を後にし、彼女がいるであろう生徒会室へと脚を向けたのであった。




