~ 第一章その6 ~
鬼敷、空という名の転校生の、その細腕からはあり得ないほどの凄まじい握力によって鷲掴みにされている所為だろう。
先ほど合歓木護少年の口から出て来たと思しき……と言うか、物理的に入らない筈のサイズをしたその不気味な生物は、キューキューと鳴きながらじたばたとタラバガニのような足とイカのような触手とを暴れさせ続けていた。
「……あく、む?」
「ええ。
心当たり、あるみたいね」
思い当たる節が多過ぎた護は、その醜い生き物を思いっきり睨む。
その殺意混じりの視線をどう感じたのだろうか。
マクラガエシと呼ばれるその生き物は、ますます身体や触手、脚を動かして逃げようと藻掻き続けていた。
……喜んでいるように見えなくもないが、こんな生き物の感情表現を普通の人間である護が分かる訳もない。
「で、それ、どうするつもりですか?」
出来れば殺処分して欲しい……そんな願望を言の葉に込めつつ護は転校生へと尋ねてみる。
もう「この不気味な生き物が何なのか?」とか、「何故この転校生がこういうことが出来るのだろう?」とか、そんな疑問など、もうどうでも良かった。
今の少年の胸中にあったのは……いや、ここ数年の間、延々と悪夢に苛まれ続けた少年の願いは「静かにゆっくり眠りたい」……ただそれだけだったのだから。
──だけど。
鬼敷空という少女の行動は、護の想像を遥か斜め上に飛び越すものだった。
あ~ん。
と、擬音が聞こえそうなくらい、そのやせ細った転校生は口を大きく開くと、そのぬめぬめしたイモムシのような生き物へと。
……四つの眼のある、頭から、グチャッと。
──喰らいついたのだ。
「うぇええええええええ?」
思わず、護はそんな素っ頓狂な声を上げてしまう。
彼女の咬筋力がどのくらいあるかは分からないが、そのマクラガエシというナメクジとイモムシが混じった感じの……護からしてみれば出来れば触りたくない類の生物の、恐らく頭部と思われる先端部分が……その一噛みによって転校生の口の中に仕舞われていた。
ブビュッという汚らしい音を立ててその生き物から白濁の体液が飛び散ったが、転校生は全く気にも介さない。
……いや、むしろその液体を舌で舐め取ると護の視線や悲鳴どころか、頭部を失った『ソレ』がまだ盛大に動いていることすらも全く気にした様子を見せず、躊躇いも何もなく二口目を喰らいつく。
今度は胴体だった所為か、頭部ほど上手く噛み切れなかったらしく、その生き物のぬめぬめした皮膚がブチブチと食いちぎられている。
と言うか、内臓らしき物体がしっかりとイモムシ内部に詰まっていて、先ほど胴部を食い千切った所為でそれらが護の視界の中へと思いっきり入って来るようになり……
(う、うぷっ!)
流石にそれ以上は見ていられず、護は彼女の『食事』から必死に目を逸らしていた。
確かに踊り食いという食事方法はこの日本にも存在している訳だけど、コレは何と言うか……あまり見ていて気持ちの良い類の光景ではない。
そうしてイヤな光景から目を逸らした護だったが……背後からピチピチというイモムシのような化け物が動く音とか、何かを噛み潰す音、ブチブチとちぎる音、咀嚼音や液体を舐め取る音……耳から入って来るそれらの情報を意識から外すことは出来なかった。
視界に入れないことにより別の五感が研ぎ澄まされてしまった所為で、よりそれらの聴覚情報を強烈に味わってしまった、とも言う。
ついでに言うと、その化け物の体液の匂い……やはりイモムシが潰れたときの匂いとナメクジの匂いを混ぜたかのような、生臭さと苦さが鼻に突く類の匂いを、イヤでも護は味わい続けなければならず。
そのあまりの不快感に、護少年は嘔吐しないよう酸味混じりの唾液を必死に嚥下し続けなければならなかったのだ。
「はふっ、はふっ」
そして、ある程度その不快感にも慣れてくると、今度はそんな感じの転校生の鼻息が護の耳に入ってくる。
──一心不乱。
まさにそれ以外の言葉が当てはまらないほど、鬼敷空という少女は必死にその不気味な生き物に齧り付いていた。
そうして少年が必至に吐き気と格闘している内に、グチャグチャという咀嚼音はいつしかバリバリという咀嚼音に切り替わり……そうなったところで、ようやく護は振り返る。
転校生は制服も顔も白濁の体液でグチャグチャにしながら、マクラガエシという生物から生えていた長い甲殻類っぽい脚を必死に齧っていた。
その転校生の様子は、もう残り少なくなった獲物を惜しむような雰囲気はあったものの……さっきまでの、飢えて死ぬ寸前の肉食獣が必死に獲物へ喰らいついているような様子は消え去っている。
「……何だったんですか、ソレ」
そろそろ対話が可能だと判断した護は、恐る恐るそう尋ねる。
食事の邪魔をすると、肉食獣は容赦なく攻撃を仕掛けてくるとは言われているものの……実際問題として護自身、夢の中では大型の肉食獣に食われたことも一度や二度ではない。
だからこそ、下手に話しかけると護自身も喰われるのではないか……なんて危機感もあり、ちょっと腰の引けた問いかけだったものの。
幸いにして鬼敷空という少女は護を獲物や邪魔者とは見做さなかったようだが、少年の質問よりも食事の方が遥に優先度が高かったらしく……
結局、彼女が口を開いてくれたのは、口から飛び出していたマクラガエシの最後の脚をバリバリと口に入れ、ゴクンと飲み込んでからのことだった。
「えっと。
アレは妖……妖怪とか魔物、悪霊って言えば、分かる?
細かいことを省くと……この世の裏側にいる生き物とか、まぁ、そういう感じ」
空という名の少女は、護の質問に対し、素直にそう答えてくれた。
……顔中に飛び散ったマクラガエシの体液を勿体なさそうに舐め取りながらではあったが。
その光景は、AVを見慣れている人間にはかなり刺激的だったかもしれないが、この白濁液がどうやって吐き出されたかを見ている護にしてみれば、全く欠片も性欲を刺激されない。
むしろ、ただひたすらに気持ち悪いと言える。
「妖怪なんて本当に居るんですか?
水木先生の漫画じゃないんですから」
「信じる信じないはその人の自由だし、別に構わないけどね」
食事を終えたからだろう。
護の視線も身体の汚れも全く気にした様子もなく、その転校生は肩を竦める。
(こんな娘、でしたっけ?)
その様子を見た護は、ついそんな感想を抱いてしまう。
教室で紹介された時の印象と酷く違う……そう思ってしまったのだ。
尤も、彼が知っているこの少女は明らかに餓死寸前みたいな様子であり、級友や教師を相手するのも億劫という感じだった訳だから、恐らくはこちらが本性なのだろう。
「で、貴女は……」
「ああ、空で構わないわ。
キミのお陰で餓死せずに済んだし」
「ならボクは……合歓木護という名前がありますので」
「おっけ、護くん、ね。
よろしく」
彼女にとっては食事だったとしても、護にとっては唇を合わせたことになる訳で……そんなキスまで済ませた隣の席の転校生と今さら自己紹介しているという奇妙なこの状況を思い、護少年は思わず笑ってしまうのだった。




