~ 第一章その5 ~
「……これは、いったい」
意識を取り戻し、目を開いて身体を起こした護少年の目に入ったのは、赤、だった。
それ以上の理解を脳が拒む……それほどの、真紅。
(……ああ、これは、いつもの、夢、です、ね)
……だけど。
少年の鼻をくすぐるような、鉄錆の匂いが彼に現実拒否を許さない。
そして、ベッドの上に散らばっている、転校生が着ていたのだろう黒のセーラー服にスカート、純白だったのだろう下着までもが血にまみれ、力任せに破られ散らばっているのを見て、ようやく少年は理解する。
(……今日のは、珍しい、な)
昼夜を問わず眠る度に見せられる、最悪の夢。
痛みや臭い、疲労に恐怖、焦燥感や触覚まで……酷く現実感を伴った、どうしようもないいつもの悪夢。
なのに今日見せられている悪夢は珍しく、どうやら「これが夢だ」という認識を伴う……俗に言う「明晰夢」という代物だった。
……いや、明晰夢である……いつもの夢である、筈、だ。
──だって、ありえない。
さっき……意識を失う直前、ベッドに寝かしつけた筈の転校生が、全裸だなんて。
いや、全裸……どころか。
ベッドの上に転がっているのは、左右どっちか分からないほっそりとした脚と、真っ白だけど脂肪が全くない、魅力的とは言いがたいお尻だけで。
それ以外の部品は、もはや原型も留めないような状況でベッドの周囲に四散してしまっている。
真っ白だったカーテンとベッド、天井から床に至るまで、彼女から飛び散っただろう液体によって真紅に染め上げられ。
……そして。
さっき背負っていた時に彼の耳元で苦しげな吐息を吐いていたその頭部は、自分に起こった現状を理解できないという表情のまま、少年の手の中から彼の顔を見上げている。
その腕の中から護少年を見上げている、光が完全に失われた瞳と、彼の視線とが交わった時、完全に硬直していた少年はようやく眼前の光景を理解して何か言葉を発しようと息を吸い込み……
「きゃああああああああああああああああああ!」
だけど、彼が何か言葉を発しようとしたその瞬間。
彼の言葉を先んじる形で、保健室のドアの方から凄まじい悲鳴が上がっていた。
護がそちらへと視線を向けると……どうやら、この保健室に二十代半ばの若い保健教諭が戻ってきたたしい。
彼女を寝かしつける時、ドアを締めたかどうか、なんて疑問が脳内を過るものの、今はそれどころではなく……。
そうして悲鳴を上げ終えた彼女の視線が、次に護を見つけた瞬間、その視線は驚きのソレから咎人を糾弾する視線へと変わる。
「ひ、ひ、人殺しぃいいいぃぃぃぃぃぃっ!」
「ち、違います!
こ、これは!」
その叫びを聞いて、ようやく護は周囲の状況を理解する。
惨殺された少女の身体と、その血まみれのベッドで頭部を抱えていた少年。
周囲に漂っている吐き気がするほどの鉄錆の臭い、手に抱いたままのまだ暖かい頭部、護自身も浴びてしまっている生暖かく肌を伝う、返り血の感覚。
そして、周囲に転がる噎せ返るような臓物臭と、そこに収められていただろう糞尿の臭い全てが混じり合った凄まじい臭いが、吐き気と嫌悪を催してくる。
護は先ほどまで、これをいつもの夢だと思っていた訳だが……
──コレの、何処が、夢なのだろう?
それらの生々しい感触は、どう考えても現実だった。
つまり、ただ護が勝手に夢だと思い込んでいただけで、この状況は誰が見てもただの殺人事件……いや、近年稀に見るレベルの、猟奇的な惨殺現場に他ならず。
である以上、間違いなく彼は殺人事件の重要参考人として……いや、もしかすると加害者として逮捕されてしまかもしれない。
何しろ……合歓木護少年が精神的に重大な疾患を抱えていたのは、彼の教室では知らぬ人など誰一人いないほど有名であり。
そして、護自身、意識を失ってから先ほど目覚めるまで、一切の記憶がないのだから!
「これは、ボクがやった訳じゃ……」
凄まじい焦燥が背筋を駆け上がり、少年は慌てて手に持っていた頭部を投げ捨てると、血の気の引いた顔のまま、何とか潔白を叫ぼうと口を開く。
……その瞬間だった。
「……え?」
──その、血まみれの保健室が、突然砕け散ったのは!
「~~~っ!」
悪夢から覚め、目を見開いた護の視界に入って来たものは、触れ合うほどに接近した、転校生の顔だった。
いや、触れ合うほど……ではない。
護の感覚神経は「少年と彼女は既に触れ合っている」という知りたくもない情報を律儀にも脳へと伝えて来てくれている。
少女の細い手のひらが彼の頭部と顎を掴み、彼女の唇は少年のソレと間違いなく触れ合っている……というどうしようもなく、だけど夢の続きとしか思えないようなこの現実を。
(な、何が?)
先ほどの夢とは違い、欠片も現実感がない……少なくともこうなった道筋がさっぱり理解出来ないその感覚を前に、完全に混乱した護は抵抗することすら思いつかなかった。
ただ呆然と、彼女の唇の感触を……いや、彼女の舌が自分の唇を割って入ってくるのを感じていた。
ぬるりと、妙に暖かい異物が口内に入ってくるその異様な感覚は、呆然としていた護を正気に返すほどに衝撃的だった。
慌てた護はようやく我に返り、自らの顔を掴んだままの彼女を必死に引き剥がすべく両の手に力を籠め……
(うそ、でしょう?)
……だけど、何も出来ない。
護自身の身体が幾ら小さく筋力も体力も平均を大きく下回るとは言え、それでも性別的には男性である。
そして彼を取り押さえているのは、栄養失調で倒れるほど軽くひ弱な少女なのだ。
引き剥がせない筈はない……のに、少年が幾ら両の手に力を込めても、まるで大木を押しているかのように彼女の身体は引き剥がすどころか揺らぎもしないのだ。
……だけど、本当の驚きはこれからだった。
「んっ、んぐぅぁっ?」
ようやく満足したのか離れていった彼女のその唇が、さっきまで護のそれと重なり合っていた筈のその唇が……何か大きな肉塊のようなものを咥えていたのだから。
しかも、何処からともなく現れた『ソレ』は、鈍いながらも動いていて……明らかに生きているとしか思えなかった。
(何が、一体、何処からっ?)
『ソレ』の第一印象としてはナメクジとイモムシの中間、という感じだろう。
イモムシのような形をしていて、全身の肌はナメクジのようにぬめぬめと湿っている。
色彩はアゲハチョウのような白と黒のモザイク模様であり……その湿った白と黒で彩られた身体の節々から、イカのような触手が四本、タラバガニの脚が六本生えていて、この世の生き物とは全く思えない。
彼女の歯が噛み付いているのは、その触手部分らしく、その生き物はじたばたと暴れているが、どうやら力そのものはあまり強くないらしい。
付け加えると、頭部らしき先端部分には人間の眼球っぽいものが四つほどくっついていて、それがまたこの生き物の異様さを増している。
そんなあり得ない光景を目の当たりにした護は、ファーストキスを奪われた衝撃すらも忘れ、固まってしまっていた。
「な、何ですか、それは?」
「……マクラガエシ。
人に悪夢を植え付け、その恐怖を喰う妖、だね」
護の質問に答えるため、だろうか?
転校生は口に咥えていたその奇妙な醜い肉塊を、素手で鷲掴みにして口から離すと……彼の問いにそう答えてくれたのだった。




