~ 第一章その4 ~
「こうして源頼朝によって鎌倉幕府が作られた訳ですが……」
(……ダメ、だ。
相変わらず、眠いっ!)
日本史という授業は、合歓木護少年にとっては文字通り、拷問にも等しい苦行そのものだった。
数学ならば正解不正解は兎も角として、問題を解こうと集中していれば、眠気だけは来ない。
国語ならばたとえ現在進行中の授業が面白くなかったとしても、教科書の別のページを読めば一つか二つくらいは面白い物語が入っている。
化学も演習や実験が幾つか入ることもあり、眠気に襲われる可能性は低い上に……いざとなればアンモニアの瓶を嗅げば良い気付にはなる。
……だけど。
日本史だけはどうしようもない。
偉人の肖像画に落書きをする程度しか眠気から逃れる術はなく……そして、護少年の教科書は既に偉人たちは全員が見るも無残な姿に変えられた後である。
そんな眠気を誘う午後の暖かな空気の中、授業中という縛りによって机からは動けず、教師の言葉は暗号のように意味不明の羅列でしかない……しかも年配の教師故の抑揚の無い語り方は少年から意識を容赦なく剥奪していく。
寝落ち寸前まで追い込まれた護少年が、せめてもの眠気覚ましにと教室中を見渡してみると、そこには大量の戦友たちが討ち死にしていた。
日ごろから睡眠を十分に取っている彼らでさえ、この授業は生き残ることすら難しい。
まして、常日頃から睡眠不足の護にとっては、気を抜けば瞬時に命取りとなってしまう……それが、日本史という授業である。
(……このままじゃ、意識……が……)
先ほどの数学の授業中に、迂闊にも一度眠ってしまったのが拙かったのかもしれない。
少しずつ少しずつ、意識が剥奪されていく感覚に護は抗うものの……睡魔という人の本能に等しい衝動に、たかが14歳の少年が抗える筈もなく。
ダメだダメだと分かっていても瞼は重くなり……
(……最終、手段っ!)
悪夢への恐怖に怯える護は、そう内心で気合を入れるために叫ぶと……シャーペンを太ももに突き刺すことで、眠気を追い払おうとした。
だけど、救いがたいことに……歯を食いしばってかなり勢いよく突き刺した筈なのに、ペンが突き刺さった感覚も、シャーペンを持つ指先の感覚すらも既にない。
完全に身体の感覚は消え失せ、ただ眠る/眠らないというスイッチを切り替えているだけの状況になっているのを……そしてこれから訪れるであろう激痛と恐怖とを、護は自覚していた。
(……ああ、ダメ、だ)
また、悪夢を見るのか……そんな諦観の中、護が絶望的な睡魔に押し切られ、ついに意識を手放しかけた、その瞬間だった。
──ガタンっ!
と、凄まじい音が隣から鳴り響いたのとほぼ同時、突然右肩を掴まれた護は、意識を手放しかけていたこともあり、席から飛び上がるほどに驚き、現実へと意識を取り戻す。
「なぁっ。
ななな、えぇえ?」
慌てて肩を掴まれた右隣へと視線を向けると……隣の席に座っていた転校生が思いっきり机ごと倒れている姿が目に入る。
護を現実世界へと引き戻したのは、眠りに落ちた転校生が机ごとひっくり返った音であり……彼の肩を掴んだのは、転がるときに反射的にもがいた彼女の手が肩に触れた感覚、だったらしい。
「え~。
転校生の、えっと……眠るなら、もう少し静かにですね」
その大音響は流石に看過できなかったのか、生徒の熟睡には何も言わない歴史教師でさえもそう告げていた。
……だけど、老教師はそんな事態でさえも、「振り返るほどのことではない」と判断したらしく、そのまま黒板に眠りの呪文を書き連ねる作業へと戻ってしまう。
とは言え、やる気が欠片も感じられない老教師がそうだとしても、安眠を妨害されたクラスメイトたちは残念ながら、そのまま前と同じく眠りに戻れと言われても難しいらしく……「我が眠りを妨げる者よ……」という感じの、ピラミッドの奥に潜んでいる布巻死体のような怨念混じりの視線が、何故か護少年へと突き刺さってくる。
確かに毎度毎度悲鳴を上げたり椅子から転げ落ちたりして授業を妨げているのは護ではあるが……生憎と、今日だけは謂れの無い非難でしかない。
とは言え、護がいつもクラスメイトに迷惑かけているのは間違いの無い事実であり、そして転校生が隣の席に座ったのも何かの縁なのかもしれない。
万が一……いや、半々くらいの確率で、彼女が護の悪夢症候群に巻き込まれた可能性も否定出来ないのだ。
「あの、鬼敷さん?」
そう思い、眠気覚ましを兼ね、護はひっくり返ったままで眠っている、なかなか剛毅な転校生へと声をかけた。
「……あれ?」
……だけど。
転校生からの返事はない。
それどころか、彼女は白目を剝いたまま……護が肩を揺すっても目を覚ますどころか、ピクリとも動こうとしなかった。
「あちゃー、ついに犠牲者が」
「確かに彼女、ヤバそうな雰囲気だったからな~」
あちこちからそんなヒソヒソとした声が、護の元へと届く。
クラスメイトの総意であろうその声は、護の悪夢が体調不良の転校生に転移し、ついにトドメを刺してしまったというものであり……
彼が患っている仮称:悪夢症候群の責任が彼自身にないと、思わず否定の言葉を口にしかけた護少年であったが……転校生がぶっ倒れた事実は否定できない形で彼の目の前に存在している。
「すみませんっ、先生!
保健室に、彼女を連れて行きます!」
「あ~、そうですか、頼みました」
状況的に言い訳の出来ない四面楚歌であると悟った護は、すぐさま鬼敷空という名の転校生の手を取り、強引に肩を貸す形で歩き始める。
幸いにして、彼女の意識はわずかに残っているらしく、鬼敷空という名の少女は肩を貸すだけで自分から歩こうとしてくれた。
尤も、彼女が自ら歩いている事実を差し引いたとしても、護の肩にかかる少女の体重は、はっきり言って異常だった。
(軽っ?
この転校生、一体何を食べているんですか?)
とても同級生とは思えない……いや、本当に生きているかどうかも疑わしくなるその異常な軽さに、護は思わず首を傾げてしまう。
そもそも護自身、睡眠不足と栄養失調による成長不良で、一般的な男子中学生としては文字通り底辺レベルの筋力しかない。
その護でさえ軽々と運べるその転校生の身体は、とても健康的な一般人では有り得ない体重でしかなく、どう考えても正常とは思えなかったのだ。
(……拒食症、とかかな?)
一時期、自らの症状を調べた経験のある護は、そんな益体もないことを内心で考えながら、軽いその少女を抱えて歩き……ただでさえ足りない体力をどうにか捻り出すことで、ようやく保健室へとたどり着く。
「失礼、しま、す」
だけど、そうして苦労の末に辿り着いた保健室には、残念ながら誰もいなかった。
この学校の保健教諭はちょっとばかり変わり者で、あちこち遊び回っているのは周知の事実だったから、別に驚くべきことでもなかったが。
「……よい、しょっと」
保健室へとたどり着いたところで両手の筋力がほぼ死にかけていた護少年は、そう気合を吐き出すことで、陽の当たっていたベッドへと少女の身体をどうにか横たえ、少しだけ気を利かせて周囲のカーテンを動かすことで、彼女の身体に刺していた陽光を遮る。
ベッドに横たわったままの鬼敷空という少女は、息はしているし意識も朦朧とはしているものの別に悪夢を見ている様子もない。
「……ぁ、ぅぅ、ぁ」
ただ、腕には全く力が感じられないし、何よりもまずその全身の軽さが気にかかる。
そうして知らず知らずの内に、少女の健康状態について考え込んでいる自分に気付き……護はふと自嘲めいた笑みを浮かべてしまう。
「……誰かのこと、心配できるような立場でもないんですけど、ね」
不眠の上、栄養失調、日ごろの運動不足と睡眠不足による慢性の体力不足。
そんな身の上の少年は、この凄まじく軽い少女を保健室まで運んだだけで、知らず知らずの内にずっしりと重い疲労がのしかかってきていたのだ。
そして、少女の身体を運び終えたことで、大きく安堵の息を吐き出し……。
──それが、油断だった。
カーテンの向こう側から優しく照りつける午後の日差しが柔らかく周囲の空気を温め、保健室の、しかも真っ白なベッドの柔らかさは、眼前に少女が眠っているという事実を差し引いても、少年の意識を奪うには十分過ぎる脅威であり。
ついでに先ほどまで睡魔に敗北寸前だったことに加え、体力を使ったことによる疲労感が、一気に少年の眠気を加速させる。
「……しま、った。
油断……し、た」
護少年に出来たことと言えば、そう言葉を吐き出すことだけであり……本当に一つ瞬きをする間に、彼の意識は暗闇へと転落してしまう。
そのまま護少年は、眠気にも重力にも一切抗うことができず……眼前の転校生に覆い被さるように、眠りへと落ちてしまったのだった。




