~ 第三章その5 ~
「嘘だと、言ってよ……ねぇっ」
小鳥遊生徒会長にとって、黒いセーラー服の転校生が放った一言はとても容認できない一言だったらしく……脳が破壊されたかのような衝撃に顔を歪め、涙と鼻水、涎まで垂れ流す始末である。
とは言え、護自身にとっては一体何がそんなに衝撃だったのかさえさっぱり理解出来なかったこともあり、ただ首を傾げることしか出来やしない。
事実、護少年はただ「鬼敷空という少女は援助交際はしても性交渉には至っていない」という意味に捉え、頷いただけなのだから。
しかしながら、この場の主導権を握っていたもう一人の少女……空にとってはそうではない。
牽制のために告げた自分の一言が、自分の餌場を狙おうとする目の前の妖混じりに十分な打撃を与えたのを理解すると、そのまま勝利を確定させるべく、半ば雌としての本能的な感覚に突き動かされるがまま、護の頬に口付けたのだ。
(……うわぁ)
それは、護にとっては空が味見をしてきた程度の感覚でしかなく……悪夢の中とは言え、数日前に食われる恐怖を身をもって味わってていた彼は、思わず腰が引けてしまい、半ば本能的に隣の少女から半歩ほど距離を取っていたくらいである。
……だけど。
「ぉおおおおおっ?」
それを知らない野次馬たちにとっては、その口付けは女性としての勝利宣言に見え、彼らの口からは抑え切れない感嘆が零れ出る。
「……っ、……くっ」
そして、妖の血が混じっているらしき生徒会長にとってのソレは……『マーキング』である。
「ここは自分の縄張りだ」と、「コレは自分の獲物だ」と周囲に知らしめるための、動物的示威行為に他ならない。
そして、その事実を前にして、自らが敗北したことを悟ったのだろう。
完璧と謳われた筈の生徒会長は、その端正な顔を思いっきり歪め……
「合歓木護のば~かば~か、びょーき移されて死んじゃえ~」
と、凄まじく低次元な叫びをあげながら、走り去っていったのだった。
恐らくではあるが、彼女にとっては人生で初めての敗北だったからこそ……敗北を受け入れるという精神的な余裕が育っておらず、一時的に幼児退行をしてしまった、のだろうと思われる。
「……ぇ、えぇ?」
完璧生徒会長がそんな低次元な行動を起こすなどとは全く予想だにしていなかった護は、ただ茫然とその背中を見送ることしか出来なかった。
そしてそれは、まだ彼と腕を組んだままの空にとっても同じだったのだろう。
勝利を収めた筈の彼女は、勝利宣言を告げることも、戦利品を堪能することすらもしないまま、ただ立ち尽くすばかりであった。
……そして、いい加減、敗者の影も形も見えなくなった頃。
「勝利の後はいつも空しい」
などと訳の分からないことを口走る始末である。
これは恐らく……彼女が全く他人の言動を意に介さない、たった一人きりで妖を喰らい『人間』と呼べるかさえ疑わしい生き方をしてきたからこそ、こういう……同格の相手とのマウント合戦に勝利した時に、どういう反応を見せれば良いのか分からなかったに違いない。
そういう意味では、生徒会長だけではなくこの化け物を喰らう転校生も、人としての経験値は非常に足りておらず、精神年齢的にはまだ幼いと言えるだろう。
「……そりゃ、そうでしょうね」
そして、そんな様子を隣で見せつけられた護としては、呆れてそう呟くのが精一杯だった。
そもそも『眠り』という誰とも競争することなく実現する欲望に焦がれ続けたからこそ、恋愛感情も競争心も縄張り争いさえも理解できない護にしてみれば、彼女たちの行動はさっぱり理由の分からない行動でしかなく。
だからこそ彼は、彼女たちの争いを全く理解出来ず、ただ首を傾げて呆れるしか出来なかった。
……当然のことながら、彼女たちが争った理由が自分にあるとは欠片も思ってない。
そして、彼を巡る争いに勝利を収めた少女は、そんな護を見て少しだけ笑うと。
「じゃ、教室へ戻りましょ」
そう言って護と腕を組んだままそう告げ、彼を引きずる形で前に進み始めたのだ。
周囲の野次馬たちからは、恋愛的な意味で勝利を収めたからこそ、彼女はそうして周囲に見せつけることで自らの優位性を誇示している、ように見られていた。
……だけど、それは彼女の意図とは若干異なる。
野生動物がマーキングをすることで「この餌場は自分のものだ」と周囲に誇示する……彼女の行動原理はそれに非常に似通っていたのだ。
そもそも化け物を喰らうような特異極まりない少女が、真っ当な人間と同じ感性をしている筈がないのである。
尤も、女性としての優位性だろうと、餌箱を巡る縄張り争いであろうと、やっていること自体はそう大差なく……実のところ、人間は偉そうに万物の霊長なんて名乗っているものの、動物であることからは逃れられていないのだろう。
「ちょ、ちょっと、この腕を……」
彼女の思惑がどうあれ、護は周囲の視線と、微かにでしかないけれど腕に感じる柔らかさに何となく居心地が悪くなり、そんな抗議をしつつも空の腕から身体を引き剥がそうと試みていた。
しかしながら、まるでミイラのそれだと聞かされてもおかしくないほど細い筈の彼女の腕は、何処にそんな力が秘められているのかと疑いたくなるほどに力強く。
ここ一週間の充実した睡眠とそれに伴う栄養摂取によってで少しばかり成長し腕力も増した気がする護だったが……それでも、彼がどう頑張っても、彼女の腕をぴくりとも動かすことは叶わなかったのである。
「別に、構わないでしょう?」
「……分かりましたよ」
そして、何となく楽しそうな空のその笑顔に根負けした護は、彼女と腕を組んだまま教室へと戻る羽目になったのであった。




