~ 第一章その2 ~
「……相変わらず、酷い顔、ですね」
ガラスに映った自分の顔の、目の下にくっきりと浮き出た凄まじいクマを指でなぞりながら……思わず少年は誰ともなしにそう呟いていた。
数年に渡る睡眠不足の影響により、頭はずっしりと重しを載せているかのように重く、後頭部にずきずきと走り続ける鈍痛は絶えず、必死に目を見開き続ける所為で極まった眼精疲労によって眼球の奥からの刺すような痛みは日常茶飯事となり、必死に見開いている筈の目蓋は常に重く……それらの症状に加え倦怠感が付きまとい続ける日々を送る少年の人相は、クマの所為もあって少年のそれとは思えないほど酷いものだった。
(けど、今朝よりはマシになった、かな?)
それでも少年が内心でそう安堵の溜息を吐き出した通り……悪夢を見たとは言え僅かなりとも睡眠を取ったお蔭か、頭痛も倦怠感も今朝よりは大人しくになってくれている。
そうして気を緩めてしまった所為か、少再び襲いかかってきた眠気を振り払おうと護少年が頭を二・三度振ったちょうどその時……廊下に合成された感じの、妙に軽快な鐘の音が鳴り響く。
それは今や名前だけとなった、授業終了時刻を知らせるチャイムであった。
「お~い、合歓木、もう戻って良いぞ」
数学の教師である榊原は相変わらずやる気の欠片もない声で護に向けて一言そう告げると、少年の動向を意に介すこともなく、さっさと教室を出て行ってしまう。
その直後、もう昼休みということもあり、教室内は喧騒に包まれていた。
……だけど。
護が部屋に入った途端にその喧騒は一瞬で静まり、痛ましいものを見るような、珍しいものを見るような、同情と奇異の……いつもの視線が彼に突き刺さる。
(……ああ、またか)
そんな視線を受けても、護はもうその程度の感想しか持てやしない。
悪夢を見るのも教室で机をなぎ倒すのもいつものことだったから、哀れまれるのも化け物扱いされることも、狂人扱いされることも病人扱いされることも、もう慣れてしまっているのだ。
それでも、今話題になっているような虐めの対象にならない分、まだマシなのだろう。
むしろ、いつ死んでもおかしくなさそうな護少年の有様に、虐めを行っているような連中でさえ彼には触れようとすらしないのが実情だったが。
「ったく。
毎回毎回……鬱陶しいよな?」
「一遍、やっちまうか?」
勿論、数日に一度は授業中にこうして護少年が目立ってしまうこともあり、彼を良く思わないそんな声も囁かれてはいる。
……だけど。
「馬鹿っ、『あの』会長が出てきたらどうするんだよ?」
「そうそう。
下手に関わるなって」
「先日の『アレ』、忘れたのかよ。
会長に目を付けられるとこっちが酷い目に遭っちまう」
そんな声もすぐに誰かによって窘められ、何事もなく掻き消えてしまう。
それもこれも周囲の声の通り、この学校の生徒会長が色々とフォローしてくれた結果なのだが……護自身は自分の眠気や頭痛、倦怠感に抗うことだけで精いっぱいであり、あまり他のことを考える余裕というものがない。
(……生徒会長、かぁ。
美人で凄く良い先輩、なんですが……)
そんな周囲の呟きがそれとなく耳に入った護は、数日前に彼に訪れたらしき『一大事件』について、ふと思いを馳せ……
すぐに首を左右に振ってその考えを振り払ってしまう。
恐らく、今彼に向けられている同情と奇異の視線の中には、先日のその出来事への好奇心も入っているのだろう。
……だけど。
(そんなことを言われても、という話ですね)
ろくに眠ることすら出来ない護にとっては、眠気に抗っている間に起こってしまったらしきことなど、『どうでも良い些事』に過ぎなかったのだ。
そのまま自分の席に座った護は、少しずつ喧騒を取り戻してきた教室の中、カバンから無糖の缶コーヒーを取り出すと、それを勢い良く胃の中へ流し込んだ。
「……ふぅ」
たったのそれだけで、護の今日の昼食は終わりだった。
……そう。
満腹感は眠気を誘うし、そもそも睡眠不足の所為で食欲なんて全く湧きやしない。
だからこそ、合歓木護少年はここ数年に渡り、食事もまともに取れないでいた。
空腹にしておかないと、精神的にキツい悪夢を見たときには吐いてしまう恐れもある……と言うか、満腹感を覚えていると常に「そういう吐き気を催す夢を見てしまう」と言うべきか。
何度も何度も吐瀉物を撒き散らし、悪夢が残していった吐き気と酸っぱい反吐の匂いとに苦しめられる中でその掃除をしてきた身となれば、もう満腹感なんて味わおうとすら思えないのは当然だろう。
そんな護の日頃の食事は……朝はカロリーメイトと野菜ジュース一本に缶コーヒー、昼は缶コーヒーのみ、夜は適当なサプリとやはり眠気覚ましのコーヒー。
そういう生活だからこそ護の身長は小学校高学年の頃から全く伸びないし、痩せ過ぎといわれるほどに軽くなってしまっている。
たまに見かねたクラスメイトが弁当を勧めてくれることもあるものの……それを素直に口に入れたらどうなるか分かり切っている護にとっては、美味しそうな料理を見ても食欲よりも吐き気が勝ってしまう。
「あの、昼ご飯、またそれだけ?」
「えっと。
少し、分けてあげようか?」
「……いや、これで十分ですから」
今日も親切なクラスメイトが、同情心からか憐憫からか恐る恐るという感じで声をかけてくれるものの、護は素っ気なく首を横に振るだけだった。
何度も何度も授業妨害を繰り返し叫び暴れる護に対してもこうして声をかけてくれるのだ。
彼らは本当に気の良い、所謂「善人」ばかりなのだろう。
だけど……護はその中に入っていけない。
護少年はクラスメイトの存在に感謝しつつも、悪夢という人とは違う……両親からも距離を置かれたこの特徴の所為で、他者とは常に距離を置く悪癖を持っており……
「あの、身体、大丈夫だった?
その、さっきの転び方が……」
「ああ、慣れてますから」
だからこそ合歓木護という少年は、心配してくれるクラスメイトに向けてもこうして素っ気なく振る舞い、一人になろうとする癖があった。
そんな対応を続けた結果として、クラスメイトも何となくそれを察し、護少年に対しては一歩引いた態度で接するようになっている……それでも心配して声をかけてきてくれるのだから、やはり彼ら彼女らは親切なのだが。
そうして一人きりの昼休みを過ごす護少年ではあるが……一人きりでただ座って居続けるには、昼休みは長過ぎる。
「……さて。
今日は何を作ろうかな?」
眠らないためには……身体を動かすか、何かに集中するしかない。
だけど、身体を動かして疲れれば余計に眠くなるし、興味のない本を無理に読んでいてもやはり眠気に襲われるだけだった。
だから、少年は昼休みを使って机の上にマッチ棒で船を作り出した。
マッチ棒だけで出来る、究極の暇つぶし。
これだけが、最近の彼の……人生で唯一の楽しみだったのだ。




