~ 第一章その1 ~
最初に失われたのは、少年の右脚だった。
「うわぁあああああああああっ!」
さっきまで机に座って授業を聞いていた筈の合歓木護少年は、自分の身に何が起こったのかも理解できないまま、突如脚がなくなった喪失感と脳髄まで響き渡った激痛とに絶叫を上げながら、半ば反射的に失われた部位へと手を当てていた。
慌てて机へと視線を移すと……何処から現れたのか、鰐とも鮫とも呼べない化け物が、あり得ないことにタイル張りの床から顔を出し、引き千切られた彼の右脚を咥えていた。
そればかりか、その生き物の鋭い牙は凄まじい咬筋力によって少年の皮膚も皮下脂肪もその下の筋肉をも引きちぎり、更には固い筈の骨までも軽々と噛み砕いている。
その爬虫類とも魚類とも言えない眼球が、飢えから解放された愉悦に歪んだその瞳が、護少年を捉え……もっと食欲を満せる新鮮な肉を見つけ、輝いた、気がした。
「~~~っ、ひぃっ!
ああああああああああああああああっ!」
意識のあるまま神経を断絶させられた激痛と、生きながら自らの肉体が食われている恐怖に絶叫しながら、少年は必死に化け物から逃れるべく体に力を入れる。
だけど、残念ながら片足を失ったばかりの少年は立ち上がることすらも叶わず……必死に身体を動かそうと身をよじった結果、彼の身体は椅子の上でバランスを崩してしまい……
倒れ込む瞬間を好機と見たのか、その化け物の顎は食いかけていた少年の脚を離し、彼の細い咽喉へとその牙を突き立てた。
「~~~っっ!
ぁっっっ!」
もはや悲鳴を上げる器官すら破壊された護少年は、それでも倒れながら必死に咽喉元に喰らいついたその化け物を引き剥がそうと、力強くもなければ歳相応の筋肉すらもついていないその二つの細腕を必死に突っ張り……
「……っ!」
だけど、彼の細腕では化け物を引き剥がすどころか、その勢いを殺すことすら出来ず、彼の身体はそのまま傾ぎ……結果として、少年の身体は勢いよく床へと叩きつけられ。
……その瞬間に、少年は悪夢から目覚めたのだった。
「……また、夢ですか」
まさに夢から覚めた如く、先ほどまで感じていた咽喉元と脚からの激痛が引いていく感覚に、少年はそう呟く。
……いや、そう呟くことしか出来やしない。
それほどまでに先ほどまで見ていた夢はまさに現実そのままの出来で、感じた激痛から怪物の質感、腐った肉のような怪物の口臭や周囲に飛び散った自分の血の匂いまで……現実としか思えない代物だったのだ。
だけど……それでも、夢は夢だった。
食い千切られた筈の少年の右脚はついているし、潰された筈の咽喉には傷跡一つ残っていない。
ただ、悪夢を見た直後は得てしてそうなっているように、全身からイヤな汗がびっしりと出ているのを感じ……床に転がった護少年は、鬱陶しげに身体を揺らす。
「また、お前か合歓木」
「……はい」
教壇で教鞭を執っていた数学の教師である榊原が、いつも通りの……酷く嫌そうな表情を浮かべ、床に転がったままの護を睨む。
だが、彼がそんな生徒を見るにはあまり適していない表情をしているのも……まぁ、彼の身からしてみれば、無理もないことだった。
──何しろ護が寝転がっているのは、学校の教室であり。
──彼が夢を見ていたのは……数学の授業の真っ最中だったのだから。
しかも護少年は今、床に寝そべっている。
つまり、彼は授業の真っ最中、派手に机から転がり落ちたのだ……恐らくは絶叫を上げながら暴れ回った挙句に、である。
叫んだ直後に特有の咽喉の掠れや、緑を基調としたズボンや白いカッターシャツのところどころに付いている埃から……いや、今までに同じことを何度も何度も繰り返した経験から、護自身にもそれが分かる。
だからこそ、悪夢という不可抗力ながらも授業を妨害した自覚のある護は、頭を低くして項垂れることしか出来なかった。
「合歓木よ。
お前の事情は分かっちゃいるが、一応、俺の立場としては咎めにゃならんのだわ」
「……はい、分かっています」
「そうか。
まぁ、眠気覚ましだと思って、廊下に立ってろ」
「……はい」
……だけど。
榊原先生はそう事務的に繰り返すだけで、取り立てて護を咎めることもなく。
そして教室中の誰もが突然椅子ごとひっくり返った少年を笑うこともない。
ただ同情と憐憫と……幾許かの「得体の知れない病人を見る奇異の混じった視線」とを向けてくるだけだった。
(……これで、何度目だろうな?)
教室から出て廊下に立ち、正面の窓ガラスに映った自分の顔を見ながら、護少年はそう自嘲して肩を竦める。
そのガラスには護自身の顔が……百人が見れば百人全員が「酷い」と表現するだろう顔がそこには映っていた。
……いや、顔の美醜が問題なのではない。
と言うよりも、護少年自身は身長が低くて童顔……というのを差し引いても結構顔立ちが良い方に入る。
かなり痩せ過ぎではあるものの美少年と言っても構わないくらいである。
……だけど。
その顔立ちを台無しにしているものが一つある。
──目の下にくっきりと浮かぶクマの存在だ。
いつからだろう。
日ごとに見る、手を替え品を替え繰り返される悪夢に、少年は真っ当に眠ることすら許されず……寝る度に叩き起こされる所為で、悪夢を見始めてからずっと最小限の睡眠時間で過ごすことを余儀なくされ。
その結果が、この酷い顔である。
『眠る度に例外なく悪夢を見る』
寝室だろうと教室だろうと食堂だろうと、朝だろうと昼だろうと夜だろうと明け方だろうと。
……つまり先ほど少年が教室の中で見せた奇行は、彼にとっては特段変わったものではなく、ただの日常の一コマでしかなかったのだ。
──悪夢症候群。
自分の病気に名前を付けるならばこれしかない、と合歓木護自身が考えているのがコレである。
ちなみに、医学的根拠は全くない。
(……せめて原因だけでも分かってくれれば……)
そう護少年が胸中で何度目かになる愚痴を呟いたように……少年のあまりにも酷い有様に、両親は彼を幾度となく病院へと運び込み……だけど、診察をしたどの医者も口を揃えて「異常はない」としか言わなかったのだ。
だけど……現代医学で原因が分からなくとも、合歓木護少年が思春期を迎えた小学校の高学年頃から今日に至るまで、悪夢に苛まれる日々を送り続けている。
悪霊や化け物など、ホラー映画さながらに驚かされる……なんてのはまだ可愛い方で、最近では壊される、潰される、斬られる、抉られる、捻られる、焼かれる、沈まされるなど、ありとあらゆる苦痛を夢の中で味わってきたのだ。
当然の結果として彼が真っ当に眠れる筈もなく、そして、少年自身も眠りから遠ざかろうとありとあらゆる手段を使い……
それでも人間は睡魔から逃れられる訳もなく……先ほどのように僅かな時間でも意識を手放してしまうと、酷い苦痛と恐怖とを味わわされるのだ。
幾度となく繰り返されるその症状に、遂には相談相手である精神科医の先生が精神を病んで長期療養に入ってしまったのだから手に負えない。
結局、護少年の精神障害(と思われている代物)は教師の間でもタブー扱いされ、ああやって授業中に眠っても……いや、意図しないとは言え、全力で授業妨害を仕出かしても殆ど不問とされているのが現状なのだった。




